菊池事件とは?

 

 菊池事件とは、わが国がハンセン病患者に対して、「絶対隔離・絶滅政策」と呼ばれる過酷な政策を推進し、その効率的な遂行のために官民一体となった患者あぶり出しのための「無らい県運動」を全国的に展開していた中で、熊本県の強い要請を受け、ハンセン病患者の現況調査を行ない、これを通報した熊本県S村(当時)役場の元職員が殺害されたという事件です。この通報の対象とされたFさんが、通報を逆恨みして起こした事件だと疑われ、逮捕・起訴されたのですが、取り調べも、それに引き続く裁判も、予断と偏見に満ち、本来被告人が持つ裁判上の権利も認められないまま、ずさんな裁判が行われ、死刑判決がくだされました。

 非公開で開かれた特別法廷は、「消毒液のにおいがたちこめ、被告人以外は白い予防着を着用し、ゴム長靴を履き、裁判官や検察官は、手にゴム手袋をはめ、証拠物を扱い、調書をめくるのに火箸を用いた」と言われています。

 1962年9月14日、死刑が執行されました。

 

事件の概要

 

一 第一次事件(ダイナマイト事件)の発生とその経過
 

 

1 事件の発生

 

 

 1951年8月1日午前2時頃、ダイナマイト事件(以下「第一次事件」という)が発生した。

 竹竿にダイナマイトがくくりつけられたものが、H氏(当時49才)方に投げ込まれ、H氏とその次男(当時4才)が負傷した。

 同年8月3日、第一次事件の被疑者としてF氏が、殺人未遂、火薬類取締法違反の疑いで逮捕された。しかし、F氏はダイナマイトを扱った経験もなかったし、ダイナマイトについての知識も持ち合わせてはいなかった。

 

 

2 第一次事件の発生とその経過

 

 

 同年8月20日、F氏は熊本地方裁判所に起訴された。

 第一次事件は、同年10月19日の第1回公判を皮切りに、3回の公判を経て、1952年6月9日、懲役10年の有罪判決がなされた。これらの公判はすべてハンセン病の国立療養所である菊池恵楓園の中で行われ、一度も裁判所での公開の裁判が開かれることはなかった。

 F氏は直ちに控訴したが、同年12月8日、控訴が棄却され、翌1953年9月には上告も棄却され、懲役10年の判決が確定した。

 

二 逃走

 

 

 第一次事件の控訴審係属中の1952年6月16日、F氏は、当時収容されていた国立療養所菊池恵楓園内にあった熊本刑務所代用拘置所から逃走し、逃走罪で指名手配された。

 

三 第二次事件(殺人事件)の発生と捜査の経過

 

 

1 事件の発生

 

 

 同年7月7日午前7時頃、熊本県S村の山道で、H氏が全身20数ヶ所に切創、刺創を負って死亡した状態で発見された。以下、この事件を第二次事件という。

 

 

2 捜査の経過

 

 

 同年7月7日午前10時30分、N医師によりH氏の死体検案がなされ、同日付死体検案書が作成された。同検案書によると、「死因は頚部刺創により大血管の損傷による大出血、並肺損傷による出血並呼吸困難によるもの」とされ、また、死亡は同月6日午後9時と推定された。凶器については同医師が「草刈鎌と思われる」と伝えた旨の記載が残されている。

 同月8日午後3時5分より、S熊本大学教授により、H氏方物置において、死体解剖がなされた。同教授の同年10月7日付鑑定書には、この時、同教授が立会の警察官に、凶器は鎌ではなく刺身包丁ではないかと思う旨述べたとの記載がある。

 同日、F氏の叔父であるI氏が、自宅に古い小型の刀を持っていたということで、銃砲刀剣類所持等取締法違反で逮捕された。なお、同違反事件は後日山鹿簡易裁判所で罰金3000円の判決となった。

 同月9日付捜索報告書には、犯行現場から徒歩10分の農小屋から刃渡り7寸の刺身包丁を発見したとの記載がある。但し、この報告書は後日に明らかにされたものであり、その信ぴょう性については問題が残されている。

 同月10日、F氏に対する逮捕状請求がなされ、逮捕状が発布された。この時点でF氏と事件とをつなぐ物証は何もなかった。

 F氏の叔父I氏と大叔母M氏は、同月11日、刑事訴訟法227条(証拠保全手続)による証人尋問を受けた。I氏はまだ別件で勾留されたままの状態だった。事件とF氏をむすびつける証拠はこの2人の供述しかなく、事前に証拠保全することで後にこの2人が供述を変更すれば偽証罪を問われることになるという枠をはめたのである。この調書は後に弁護人により同意証拠とされたために、F氏には反対尋問の機会も与えられなかった。

 同月12日午前11時、F氏は自宅のある集落の近くの小屋にいるところを発見され、単純逃走、殺人の疑いで逮捕された。逮捕の際、F氏が小屋を出て逃走しようとしていたのに対し、逮捕にあたった警察官は拳銃を発砲し、F氏は右腕に複雑骨折と大量の出血を伴う傷害を負った。

 逮捕直後に作成されたF氏の弁解録取書には、「草切り『ガマ』で突き刺して殺した」との記載があり、また同月13日付供述調書にも犯行を認める記載があるが、その後は公判に至るまで一貫して犯行を否認している。なお、弁解録取書及び7月13日の供述調書は、F氏が銃で打たれた傷の痛みに耐えている中で作成されており、指印はF氏のものだが、署名はF氏の自筆ではなく、F氏には自白した記憶はない。

 

四 裁判の経過

 

 

1 起訴

 

 

 同年8月2日、F氏は菊池恵楓園の拘置所から逃走したとして、単純逃走罪で起訴された。なお、単純逃走罪については同年10月30日に第1回公判が行われた。

 同年10月9日、最高裁判所は、本件を裁判所法69条2項に基づき、国立療養所内で裁判することを承認する旨の決定をした。以後、この事件の裁判は、前半は菊池恵楓園内で、後半には1953年に菊池恵楓園の隣接地に設置された菊池医療刑務所の特別法廷において開かれ、一度も裁判所の公開された法廷で開かれることはなかった。

 同年11月22日、H氏に対する殺人罪で追起訴がなされた。

 公訴事実は次のとおりである。

「被告人は、かねてからHに対して、怨恨を抱いていた処、昭和二十七年七月六日午後八時三十分頃、S村大字○○字○○の山道に於て、前記Hに出逢うや、同人を殺害して恨を晴らそうと決意し、所携の短刀を以て、同人の胸部及び背部等を数回突き刺し因って即時同所に於て同人を出血のため死亡するに至らしめて殺害したものである。」

 

 

2 公判

 

 

 同年12月5日、第2回公判が開かれ、ここで裁判が合議法廷に変更され、単純逃走被告事件と殺人被告事件の併合決定がなされた。従って、第2回公判が殺人事件についての最初の公判となった。

 第2回公判の罪状認否において、F氏は「逃走の点は間違いありませんが、しかし殺人の点はそういうことはした覚えはありません」と殺人については否認したが、国選の弁護人は「現段階では別段述べることはない」と述べ、その後の検察官からの証拠調請求についてはすべての証拠について同意した。

 以降の経過は以下のとおりである。

 1953年1月16日   第3回公判
 同   年2月25日   第4回公判
 同   年4月3日    実地検証及び証人尋問
              (被告人・弁護人の立会はなかった)
 同   年7月27日   第5回公判(弁論、論告)
 同   年8月29日   判決(死刑)

 

 

3 判決

 

 

 判決は、菊池恵楓園へ収容通知を受けたF氏については、「被告人としては権威ある科学的診断により癩疾患者と断定せられた上は素直にこれに応じ、・・・医師の適切な治療に身を任せ、その間の精神的、肉体的の苦痛に堪え、健康恢復による幸福の一日も早く来らんことに希望を持ち、一意療養に専念することこそ被告人に残された唯一の更生の途であるに拘わらず、被告人はこのことに寸毫の反省を傾けることなく、却って被告人の生来の偏屈と執念深さの徹底するところ、ただ一途に、自己、母、妹、親類、縁者の将来に救うべからざる暗影を投げかけたのは、あくまでHの仕業なりと思いつめ」H氏に対する殺害を決意したと判示した。

 そして判決は、被告人は、6月16日に勾留されていた菊池恵楓園内の拘置所を逃走し、18日朝S村に着き、身を隠しながら、遂に同年7月6日午後8時30分頃、「山道で開拓団の会議に急ぐHに遭うや、やにわに所携の短刀を以て同人の頚部その他を突刺し或は切付け、因って・・・右頚部に負わせた刺創に基づく失血により同人を死に至らしめ、以て殺害の目的を遂げた」と認定した。

 国の政策に背き、その政策遂行にかかわった元村役場職員を逆恨みして犯行に及んだことが、F氏の死刑の理由とされたのである。

 

 

4 上訴審

 

 

 F氏は同年9月2日福岡高等裁判所に控訴した。控訴審も公開の法廷で行われることはなく、すべて菊池医療刑務所内の特別法廷において行われた。

 その後の上訴の経緯は以下のとおりである。

 1954年1月28日   第1回控訴審
 同   年3月10日   第2回控訴審
 同   年4月9日    第3回控訴審
 同   年5月7日    第4回控訴審
 同   年6月4日    実地検証(逮捕現場)
 同   年10月15日  第5回控訴審(弁論)
 同   年12月13日  福岡高等裁判所判決(控訴棄却)
 同   年12月27日  上告
 1956年4月13日   第1回最高裁口頭弁論
 1957年3月22日   第2回最高裁口頭弁論
 同   年8月23日   最高裁判所判決(上告棄却)
 同   年9月2日    判決訂正申立
 同   年9月25日   判決訂正申立棄却

 

五 再審請求の経過(国賠訴訟の国の主張により一部訂正済み)

 

 

1 第1次再審請求

 

 

 1957年10月12日、第1次再審請求がなされたが、1959年11月30日に棄却された。即時抗告を申し立てたがそれも棄却された。

 

 

2 第2次再審請求

 

 

 1960年5月6日、第2次再審請求がなされたが、翌1961年3月24日棄却された。

 同年4月、即時抗告したが、同年6月20日棄却され、同年7月12日特別抗告したが、同年10月4日棄却された。

 

 

3 第3次再審請求

 

 

 1961年11月6日、第3次再審請求がなされたが、1962年9月13日棄却された。

 

六 刑の執行

 

 

 F氏は、第3次再審請求が棄却された翌日である9月14日、死刑執行された。法務大臣の死刑執行指揮書への押印は、第3次再審請求棄却前の同月11日にすでになされていた。

 

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