國宗 直
私は2010年7月14日から31日まで「キューバ友好・交流の旅」のツアーに参加しました。1953年7月26日モンカダ兵営襲撃から57年、1959年1月1日キューバ革命成功から51年、社会主義社会をめざして奮闘している国、キューバ。すでに中国、ベトナムを訪問しているので、キューバを一度は訪問したいと思っていました。
年齢も80歳になり、ツアーについて行くのも体力的に今度までだという思いもあり、無理をして参加しました.あんの条周りの人に迷惑をかけながら、無事に帰ってきました。 このツアーは日本キューバ友好協会の要望をもとに、冨士国際旅行社が企画したものでした。参加者はわずか6人で、社の添乗員を加えて7人のこじんまりとした旅行団になりました
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こんな躓きツアーもあり
今回のツアーは滅多にない躓きツアーでした.まず成田空港15時25分発予定のエアロメヒコ航空の飛行機が「整備中」ということで、1時間、2時間と出発予定が伸びついに「今日は中止」ということになり、その夜は成田の東急ホテルに宿泊ということになりました.結局24時間延期で出発しました。その上ここ数日の猛暑のため、空港の滑走路が軟化したため、飛行機の燃料を最小限にということで、当初メキシコシティの空港まで直行する予定が、メキシコとカナダの国境近くのティファナ空港に着陸、給油してメキシコシティに向かうことになりました。
1日遅れを取り戻すことでメキシコシティに着陸したら、そのままハバナまで飛ぶ予定が組まれました。ところが他のところでもたびたび経験することになるのですが、メキシコシティ空港の荷物の受け渡しがのろいことのろいこと、受け取るまで40分ばかり懸かりました。そのうえこの空港は広くて、到着ターミナルと出発ターミナルとの間はバスで10分ほども離れていて時間を取り、バスを降りて出札口まで空港の中を早足で10分ほども歩かされました。さすがにこれには参りました.着いてみたら「10分遅かった」とのことでハバナ行きは「明日」と言うことになりました。その夜はメキシコ宿泊となりました。これが第2の躓き。
3日目、いよいよメキシコシティからハバナへ出発。3時間45分懸かって17時ハバナシティのホセ・マルティ空港着。遅れを取り戻すため、直ちに空路サンチャゴ・デクーバへ向かうつもりが、この飛行機は二日間飛ばないとのこと.これが3つめの躓き。
仕方なく、そのままサンチャゴ・デクーバへバスで出発ということになりました。
ハバナからサンチャゴ・デクーバまでは地図で見ると780Km.これをバスで行くのか。先ず、丁度中間点ともいえるサンクティ・スピリトゥスに到着したのは午後9時を過ぎていました。
4日目、一路サンチャゴ・デクーバへ向かってバスは走り、到着したのは午後8時過ぎでした.翌朝サンチャゴ・デクーバの見物のあと、またサンクティ・スピリトゥスへと出発。歩きはしないけど強行軍に次ぐ強行軍という感じでした。
したがってサンチャゴ・デクーバでの予定は大いに狂ってしまい、1日半の予定が半日の見物に終わりました。
これまで経験したツアーでこんなことは初めてでした。
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兌換ペソは25倍
キューバの通貨は二重の通貨になっているところが変わっている.通貨の単位はペソ・セントとなっており、普通1ペソは約4円に当たりますが、外国人は兌換ペソという通貨で1ペソ約100円で両替することになっています。つまり外国人の旅行者は25倍のお金を払っていることになります。
ソ連との貿易で支えられてきたキューバが、ソ連崩壊によって経済的に大きな打撃を受け今少しづつ回復しつつあるという事情によるもので、観光産業に力を入れ、外貨獲得の狙いがあると思われます。
キューバの主要産業は観光業、農業(砂糖、煙草、柑橘類)、鉱業(ニッケル)、水産業となっており、主要貿易の相手国は、ベネズエラ、中国、スペイン、ロシアなどとなっています。
私たちを往復1500Km運んだバスは中国から輸入されたYUTONG(宇通)社のバスでした。同じく中国輸入のKINGLONG社のバスも見かけました。
車のことはよく分かりませんが日本の車は豊田、日産を見かけましたが非常に少ないようでした。 |
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まだ土地はいくらでも
バスで走りながら、車窓に映る景色を眺めながら、緑の多さにびっくりしました.牛の放牧場をよく見かけました。牛がのんびりと草を食んでいる情景はいかにも牧歌的そのものでした。その割りに耕されている土地の少なさ。まだまだ耕せる土地がいくらでもあるという感じでした
キューバの面積は日本の約3分の1ですが、人口は1,120万人と10分の1以下です.人口密度にすると日本の3分の1となります。しかも土地の多くは国有地とのことです。もっと農業に力を入れては?との質問にガイドさんは「国もそう思っているが人手が足りない。農業は労働がきついので評判が悪い。」とのこと。
バスが走っている道路はハバナから約500Kmまでは高速道路を走りました。ほんとに真っ直ぐな6車線の道路でした。しかし高速と言っても馬車も走ればバイクも走るというものでした。 カマグェイという町からは普通の国道というところ。この道路は3車線で、多くの町まちを縫ってって走りました。ソ連崩壊後の経済が大変だったので高速道路も途中までで建設を中止しているとのことです
町の家々や人々に始めて接したような感じでした.町は石造りの古い建物が軒を連ねています.大きな柱が軒を支えるように前に出て連なっており、日や雨を避けて歩けるような仕組みです.このスタイルはスペイン風の建物と言うことです。
キューバの女性達の胸と腰の大きさには圧倒されました.暑い夏でもありそれをこれ見よがしに、堂々と歩いている姿には目のやり場に困るほどでした。
暑いということでいえば、北緯22度のキューバですが、日本ほどの猛暑ではありませんでした.暑いときでも32度程度の日差しでした。冬でも21度と大変くらし安い気候のようです。 |
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サンチャゴのカーニバル
サンチャゴ・デクーバに到達したときには午後8時を過ぎ、暗くなっていました.時間がないため暗い中でモンカダ兵営跡を訪れました。今は博物館になっているのですが、すでに閉まって入れませんでした。
1953年7月26日、フィデル・カストロ率いる青年達がこの兵営を襲撃しました.この襲撃は失敗に終わり、逮捕され投獄されましたが、特赦で出獄後メキシコで反政府組織「7月26日運動(M26)」を結成しました。このことを記念して、毎年7月26日に記念集会が開かれているのです。
到着した夜大変な人だかりがしていました.この夜はサンチャゴ・デクーバのカーニバルだったのです。夜遅くまでキューバ独特の音楽と人だかりがしていました.私たちは出かけることはしませんでしたが、ホテルの屋上から眺めていました。
翌朝朝食後しばらく町を見学にまわりました。この町から南の方に望まれる山脈がシェラ・マエストラの山々でした.最高峰は2002メートル。
メキシコでフィデル・カストロは、アルゼンチンの医師エルネスト・”チェ”・ゲバラと会い、ゲリラ戦訓練を受けた後、1956年12月にヨット「グランマ号」に48人が乗って現在グランマ県と呼ばれている海岸に上陸しました。その際、政府軍の攻撃でカストロらは壊滅的打撃を受け、シェラ・マエストラに再結集したときには、人数12人、銃7挺だけだったと言われています.その後山の中を拠点にゲリラ活動を展開し、1959年1月1日の革命勝利まで、闘ったのです。
サンチャゴ・デクーバはキューバ革命の発祥地であり、拠点となったところでもあります。
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ホセ・マルティの墓所
サンチャゴ・デクーバにはもう一つ大切な場所がありました。それは、キューバ独立の父といわれるホセ・マルティの墓です。
ホセ・マルティは1892年キューバ革命党を設立、1895年から第2次独立戦争を指導した人で、その墓所に参拝しました。塔のなかにマルティの彫像とキューバ国旗が飾られていました。
この墓にはキューバ軍の衛兵3人が立っており、30分ごとに交代のセレモニーが行われています。衛兵は30分間は直立不動で、動かないことが要求されます。
私たちももこのセレモニーを見学することが出来ました。足をぴんと伸ばして行進する歩調は、ソ連のレーニン廟で見た衛兵と同じでした。
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ホテルにスリッパがない
メキシコに泊まったホテルにスリッパがありませんでした。靴を脱いだらスリッパに履き替えるのは常識だと思っていたのに。今回は長時間の飛行機便なので携帯用スリッパを持参していたのでそれで済ましたのですが。
ここだけかと思っていたら、キューバでもどのホテルにもありません.メキシコやキューバではホテルにスリッパをそろえる習慣がないことが解りました。
今回のツアーで宿泊したホテルは、都市では豪華なホテルでしたが、サンクティ・スピリトゥスでは広い敷地にバンガロー式に1部屋づつ別棟に建てられていました.それでもホテルといわれていました。ここではシャワーだけでバスはありませんでした。だけどここの食堂にはギターとマラカスを持った3人の若い楽士たちが歌っていました。私たちの近くに来ましたので、所望すると歌ってくれました.2人のデュエットがきれいでした。
「明日は私たちも記念式典に行きますよ」と元気よく語っていました。
ホテルの食事は殆どバイキング料理を食べていたので、キューバ料理と特に言われてもあまり印象に残っていません.ただ参ったのはご飯でした.キューバには水田もあり米が作られていますし、日常的に米料理があります.大抵豆ご飯など料理されています.ところがご飯は固くはないのですが全く粘りけがなく、ぼろぼろでとてもおにぎりには出来ません。お世辞にもおいしいとはいえませんでした。
南の国だけあって果物は豊富でした.アボカド、マンゴ、椰子、グレープフルーツにスイカ、バナナなども豊富にありました.キューバのコーヒーも結構でした.
アボカドのことですが、日系の有機農業をやっている農家で昼食を頂いたときに、アボカドが出ました.私たちは「アボガド」と発音していましたが、正しくは「アボカド」で、「アボガド」はスペイン語では「弁護士」のことだそうです。
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教育と医療について
医学校の話が出たところで、キューバが先進国並みと自慢する教育と医療について書いておく必要があります。
キューバは革命後1年目をカストロは「教育の年」と位置づけ、当時30パーセント近くいた文盲一掃の運動を展開したことは有名です.引き続きキューバでは小学校から大学まで教育費用は一切無料です。
6〜11歳の初等教育が義務教育で、小学校では20人学級、中学校では教師1人が生徒15人を担当し、高校では教師1人につき生徒30人以下となっています。国民の大半は高校を卒業しています。
キューバ全国で63の大学があり、20,000人を超える教授を擁し、1995年以降現在まで700,000人が専門職として卒業しました.大学は4年制だが、医学部は6年制となってます。特に医学教育に力を入れ、多くの医師、医療従事者を生み出しています。
この教育制度を基礎にして、医療体制が充実しています。
現在病院267(ベッド数 48,300床)、ポリクリニック444、地域・学校・職場のファミリードクター診療所14,000、歯科医院168,産科医院200以上、老人並びに身体障害者施設300,研究所12,血液銀行27。2003年末でには165人につき1人の医師となっています.(日本では455人に1人)
キューバの医師は他の国々へも派遣されています。現在23,413人の医療専門家が66カ国で人道・連帯の使命を果たしています。
この医療の体制の上に立って、医療の費用は一切無料となっています.この成果は平均寿命に現れています.1959年以前の平均寿命は55歳に満たなかったのが、現在は76.15歳となっています。(女性は78歳、男性は74.8歳)
ガイドのマリオさんは「教育、医療は先進国並み」といいながら「離婚率の高さ、出生率の低さ(1.3)も先進国並み」と頭をかいていました。
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ヒッチハイクの奨励
バスで走っていると、あちこちでお札を持って手を上げる人たちに出会います。これは金を払うから乗せてくれという合図だというのです。
キューバの交通事情によるものだというのです.公営バスが運行していていて、停留所もあちこちに見かけるのですが、バスの運行回数が少なく、需要を満たすことが出来ないということです。鉄道もハバナからサンチャゴ・デクーバまで設置してありますが、列車が走っているのを殆ど見かけませんでした。
そこで、政府は法律で公的な事業所の車は、あいているときは乗客を乗せなければならないということになっているとのことです。いわばヒッチハイクの奨励です。そういえば人を沢山乗せたトラックをよく見かけました.また農村でよく見かけるのは馬車でした。農作業にも使っているのですが、人を乗せるための馬車も動いていました。
都市ではタクシーや輪タクも見かけましたが、ハバナではココタクシーと呼ばれる3輪車バイクが走っていました。形が丸くてココナツににているのでそう呼ばれているそうです。 |
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人種のるつぼキューバ
キューバ人は白人、黒人、混血とさまざまな人種のるつぼと言えます.キューバでは革命後、これらいろいろな人種の人たちが全く平等で差別のない社会を見事に作り上げていることに感心しました.アメリカでは未だに黒人差別がなくなっていないといわれているのに、キューバではどうやって差別をなくしていったのだろうか、関心のあるテーマでした。
キューバは歴史的な理由から、高い混血度を示しています。スペインに征服された時代、原住民のインディオは酷い強制労働のため1世紀を経ずして絶滅してしまい、16世紀の初めから、その代わりとしてアフリカの黒人が奴隷として導入され始めました。18世紀には人口の58パーセントを占めるに至りました。したがって、現在では白人25%、黒人25%、混血50%といわれています。
政府は人種差別の原因になるからということで、人種別の統計は取っていないとのことでした。
人種差別をなくすのに大きな役割を果たしたのは、一つは差別のない教育制度と教育の無料化にあり、二つ目には今もある食糧配給制度が平等な生活を支えているからだと思います。
町に入るとどこの街角にも食料配給所があります。ここで肉や米、トウモロコシ、野菜などの配給が行われています.足りない部分を店で購入するという仕組みです。全ての国民が差別なく最低のくらしを保障されているのです。さすがに社会主義をめざす国だと思いました。
キューバの音楽もそうですが、国民の明るさはここいらに原因があるようです。
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老人福祉施設で交歓
記念式典後はサンタクララから首都ハバナへ到着して、3泊をハバナで過ごすことになりました。、前半の強行軍とは見違えるほどゆっくりと過ごすことが出来ました。
27日は、午前中ホテルの近くのスーパーで買い物、午後はモロ要塞見学の跡、港の近くのフリーマーケットでおみやげをあさりました。
バチスタ時代の大統領官邸跡が革命博物館になっていました。キューバ革命の資料や写真が展示されていました。またその前の建物には、1956年カストロやゲバラがメキシコからキューバに潜入したときのボート、グランマ号が展示してありました.定員14人というボートに48人が乗ったというボートです。
28日は海岸の町の老人福祉施設を訪問しました。この施設はこの部落の老人憩いの家のような施設です.集まっている老人は60歳から85歳までの健康な老人の集まりで、自分たちで役員を選び、自主的に運営していました。
私たちが到着するとみんなで大歓迎してくれました。
この日通訳について来られた女性は、ハバナ大学の日本語の教授でした。施設の代表の挨拶で、この施設での活動の説明があり、歌のうまい人が歌を披露してくれました.所望されて私たちも「上を向いて歩こう」「故郷」などを歌いました。また一緒に手をつなぎ、「インターナショナル」を合唱しました。またみんなの手作りの手芸品をお土産に頂きました。わたしも鍋つかみを持って帰り、使わせて貰っています。大変楽しい交歓のひとときでした。キューバではこういう施設が、部落ごとにあるそうです。 |
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革命広場にて
ハバナを離れる29日に、キューバの革命広場を訪ねました、野球場6つ分ぐらいの広さだと思いました.中央にホセ・マルティの像と高い塔が建っています。革命記念日にはここに大勢の国民が詰めかけ、国家評議会議長の演説が行われることになっています。
この塔の裏に国家評議会の建物があり、広場を囲んで厚生省、産業省、総務省などの政府の建物が並んでいます.キューバの政治の中心地でもあります。
キューバは革命後50年、アメリカ政府はキューバとの外交関係を断絶し、キューバからの砂糖の輸入を全面禁止しました。そして、アメリカの支援と訓練を受けた亡命キューバ人の反革命軍をキューバ南部のヒロン湾に侵攻させましたが、これを撃退しました。この事件きっかけにキューバは社会主義宣言を行い、ソビエト連邦や東側諸国との結びつきを強めました。アメリカのフロリダ半島、マイアミから145Kmしか離れていない、その鼻先で革命を守り抜きました。
またソ連崩壊という中で、キューバの経済は大打撃を受けました.しかし、それもいま中南米諸国や中国などとの貿易の前進で克服しつつあります。
アメリカの裏庭といわれた中南米諸国は、いま、アメリカの政治的、経済的支配から抜け出し、自主独立の大きな流れになり、アメリカのキューバとの国交断絶をやめるよう要求しています.中南米の諸国のこの動きは、キューバの革命に励まされ、独立と民主主義を願う諸国民の力によるものだといえます。
このキューバを短期間であれこの目で見ることが出来、大きな確信と希望を持つことが出来ました。
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