韓国の国家人権委員会に対して行った日本のハンセン病問題についての取り組みの報告です。2005年7月12日に国家人権委員会の主催したソウルでの討論会で、日本弁護団はこれに基づいた報告を行いました。 |
2005/06/20 日本からの報告 ハンセン病問題解決のための取り組み 全国ハンセン病弁護団協議会 日本で最初にハンセン病に関する対策が講じられたのは、1907年の「癩予防ニ関スル件」という法律によるものである。それ以前、日本では放浪するハンセン病患者もあり、これらの人々を積極的に救済していたのは、主に外国人の宗教家などであった。何ら救済措置を取らない日本政府への海外からの批判も強くあった。国はこうした事情を背景に、ハンセン病を文明国にあるまじき「国辱」であると捕らえていた。1907年の法は、患者に対する強制隔離条項をもったものであった。この隔離条項は放浪する患者を救済するという名のもとで、反面、警察的に取り締まるという意味を強く持っていた。 この法律に基づき、全国にハンセン病療養所が作られていった。 1916年には、療養所の所長に対して懲戒検束権が与えられた。所長は裁判手続によらず自由に療養者に対する懲戒を実施できた。各療養所には監禁室が設置され、極めて恣意的な処分がなされた。療養所は社会と完全に隔絶された治外法権の収容所となっていったのである。 1931年には、「癩予防ニ関スル件」の改正として、「癩予防法」が制定された。この年は日本が15年にも及ぶ戦争に足を踏み出した年であるが、「癩予防法」もまたファシズムを思想的背景にして、「民族浄化」の理念のもとにハンセン病を根絶するという目的を持っていた。この法律により、放浪する患者のみではなく、すべてのハンセン病患者が収容されることとなった。日本のハンセン病絶対隔離政策がこの法律のもとで確立されていった。 療養の名の下に強制的に収容された患者たちは、断種、堕胎だけではなく労働をも強制され、劣悪な生活環境と貧困を極める医療の中にとじこめられた。療養所は収容所でありいわば「治療なき収容」が法と正義の名の下に繰り広げられた。 特に、収容された患者たちが恐れたのは、群馬県草津町にある栗生楽泉園の「重監房」と呼ばれた拘禁施設である。設置は1939年。厳重な施錠がなされ、光も十分に差さず、冬期には零下17度にまで気温下がった。ここには、全国の療養所で「不良患者」とみなされた者が送られてきた。監禁されると十分な寝具や食料も与えられず、記録によるだけでもここに収容された92人のうち14人が監禁中または出室当日に死亡したとされる。 この絶対隔離政策を背景に、全国的には「無らい県運動」が展開された。全国で大勢の患者が駆り立てられた。国民の身近で行なわれたこうした強制収容は、否が応でも多くの国民に対し、ハンセン病が恐ろしい伝染病であるとの恐怖心を植え付けた。 第二次世界大戦後、ハンセン病療養所内の空気を一変させる重大な出来事が二つあった。一つは、ハンセン病の特効薬、プロミンに代表されるスルフォン剤の登場である。劇的に症状を改善させるこの薬は、ハンセン病を「治る病気」にした。 もう一つは民主主義である。戦争が終わると、日本でも民主主義の運動が広がった。それは療養所内にも及んだ。様々な改善要求が患者の側から出され、多くの患者は未来に明るい展望を見ていた。強制隔離を定めた「癩予防法」の見直しを求める声が沸き起こってきたのも当然のことだった。 1947年、基本的人権の擁護を基調とする日本国憲法が制定された。本来であれば、このときに、人権を無視した不合理な絶対強制隔離政策は根本から見直されるべきだった。 しかし、国の政策に変化はなかった。国は1950年ごろには、すべてのハンセン病患者を入所させる方針を打ち立て、強力な強制収容を進めた。これは「第二次無らい県運動」とも呼ぶべきものであった。これにより、日本のハンセン病患者のほとんどが療養所に収容された。多くの療養者の願いをよそに、国はむしろ強制隔離を強化する規定を持つ新「らい予防法」を旧「癩予防法」の改正案として国会に上程した。 1953年、多くの患者の命をかけた反対運動にもかかわらず、「癩予防法」はその政策の基調を維持したまま「らい予防法」に改正された。「らい予防法」は、民主主義を渇望し、自主的に活動を始めた患者らに対する治安維持的な意味合いも持っていた。患者らの闘争は、広く社会に知られることもなかった。 この新法の制定にあたっては、「近き将来本法の改正を期する」とする参議院厚生委員会の付帯決議がなされた。しかし、実際に法が廃止されたのは、これから43年もの時を経た、1996年であった。 日本のハンセン病強制隔離政策の本質は、患者の絶滅(根絶)であり、そのための収容(隔離)施設の建設とそこへの完全・終生収容であった。つまり、患者の人権・人格を無視して、その存在そのものを根絶することを目的としていた。その態様には以下の特徴があった。 1) 家庭内、地域内における分離を超えて、強制的に離島・僻地の療養所に収容して外部との交流を厳しく遮断した(強制収容、完全隔離) 2) 症状、家庭内療養手段の有無、病型、感染性の有無を問わず全員を隔離した(絶対隔離) 3) 退所を厳しく制限して、終生の隔離を行った(終生隔離) 4) 患者作業が強制され、子孫を絶つための優生手術が強制された(絶滅政策) このため、ほとんどのハンセン病患者(すでに治癒している者も含めて)が、強制的に収容され、社会から隔絶され、しかもその期間は長期にわたった。地域社会や親族から断絶され、この強制隔離政策に生み出されたハンセン病に対する偏見や差別のために、多くの者は、二度と故郷に戻れなかったし、親族に会うこともなかった。療養所では、結婚の条件として断種や堕胎が行われていたために、収容された者のほとんどは、子どもを持つことができず、また断種を嫌ったものは結婚さえできないという状況に置かれた。また、貧困な療養所運営を補うために、患者作業が強制され、このために、ハンセン病の後遺症を悪化させ、手指、手足に大きな障害を残す者が多数いた。 ハンセン病に対する偏見や差別は厳しく、強制隔離政策のもとではこれを緩和するための積極策も何ら取られなかったために、ハンセン病そのものは治癒しても、社会復帰することは極めて困難であった。例外的に社会復帰するものがあっても、その社会復帰を支援するための施策はわずかな支援策(就業支援の貸付制度等)を有するのであった。また、偏見や差別の矛先は患者の家族へも向けられ、家族からハンセン病患者を出したために一家が離散するという例も多数あった。 1996年3月31日、ハンセン病強制隔離法であった「らい予防法」は廃止された。 当時、すでに多くの入所者は、高齢に達していた。法が廃止されたとしても、自活して生活することは極めて困難な状況であった。故郷や親族と断絶されていたために、今さら頼るべき実家はなく、優生政策のために頼るべき子もなかった。また、後遺症が重篤な者も多く、専門的な介護を必要としていた。他方、比較的年齢が若く軽症の者の中にはすでに退所していた者もいたが、退所にあたっては何の支援もなく、根強く残る偏見・差別のために、社会内で自らの病歴を隠しつつ懸命に生活していた。 「らい予防法」廃止法は、従来の「らい予防法」を廃止するとともに、ハンセン病療養所での療養を希望する者は引き続き療養所で生活することを認めた。また、同法廃止に伴い、新しく社会復帰を援助する社会復帰支援策が取られることとなった。しかし、その支援の内容は乏しいもので、退所後の生活を支えるものではなかったし、支出後に事後的に領収証を示して請求するという、複雑な請求手続を要するものであった。このため、この支援策をあてにして退所するものはわずかしかいなかった。 「らい予防法」廃止法は、以上のことを定めるほかには、大きな変革をもたらすものではなかった。 第一に、廃止法は強制隔離政策についての国の責任を不問に付した。当時の厚生大臣は法廃止にあたって療養者らへ謝罪の言葉を述べたが、それは「法の廃止が遅れたことをおわびする」というものにすぎなかった。なぜ、合理的根拠を持たないハンセン病強制隔離政策が実施され、そのために未曾有の人権侵害が生じたのかということには一言も言及しなかった。 第二に、強制隔離政策の責任が明らかにされなかったために、国は強制隔離の実施そのものについては、一切謝罪を行わなかった。 第三に、同様の理由から、強制隔離の被害者への賠償の措置も一切取られなかった。 第四に、長年の強制隔離政策のために困難となった社会復帰を進めるための積極的対策も行わなかったし、隔離政策の被害者のための今後の生活補償についての特別の措置も取られなかった。 結局、多くの療養者はそのまま療養所にとどまるほかはなかったし、退所者は苦しい生活を自らの努力によって続けるしかなかった。 このような状況のもとにあって、廃止法の路線に不満を持つ者らが提起したのが、「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟であった。 1998年7月31日、熊本地方裁判所に最初の裁判が提起された。この時の原告は13人だった。差別や偏見を恐れて、公表するのは原告番号のみという「匿名訴訟方式」を取った。13人の中で、提訴当時は、本名も出せる、顔もメディアによって撮影してかまわないという者はたった1人しかいなかった。 療養所にいる多くの者は、国を相手に裁判をするということで療養所を追い出されるのではないかと、当初は裁判に立ち上がることを躊躇した。しかし、勇気ある人たちの決起に触れ、裁判の説明を聞き、その趣旨を理解していく中で、最初はゆっくりと、次第に加速度を増して、次々と原告に加わる者が現れた。1999年3月26日には東京地裁で、同年9月22日には岡山地裁で、同様の裁判が提起された。2001年5月11日の熊本判決の時にまでには、全国で779名の原告数となっていた。 この過程の中で、原告団は、この裁判が何を目的にするものであるかということを議論した。その議論は、四つの項目を持つ全面解決要求に結実していった。本来であれば、損害賠償請求訴訟は賠償金の請求であり、それに尽きる。しかし、「我々がめざすものはその先にあるハンセン病問題の全面解決である」ということが、意識的に問題とされたのである。全面解決要求は次のように定式化された。 第一 責任の明確化と謝罪 第二 名誉回復措置と損害賠償 第三 恒久対策 第四 真相究明と再発の防止 これらは、まさに国が廃止法路線の中で、歴史の中に埋もれさせてしまおうと目論んでいた事柄だった。つまり、この裁判は単に「勝てばよい」というものではなく、裁判に勝つことを突破口にして、国の政策を抜本的に転換させることが目的とされたのである。そのためにこの裁判は、当初から「運動」として自覚され、その「運動」はこれを支える多くの人たちの支援の輪を生み出していった。この運動の力が、判決後の控訴断念に向けてのたたかいを生み出し、その後の国の多くの施策を勝ち取る源となったのである。 (1) 国の責任に関する判断 2001年5月11日の熊本地方裁判所の判決は、「新法(53年制定のらい予防法)の隔離規定は、新法制定当時から既に、ハンセン病予防上の必要を超えて過度な人権の制限を課すものであり、公共の福祉による合理的な制限を逸脱していたというべきである」として、憲法13条(人格権)・22条(居住・移転の自由)に違反すると判断した。 その上で、政府(厚生大臣)の責任について、「遅くとも昭和35年以降においては、すべての入所者及びハンセン病患者について隔離の必要性が失われたというべきであるから、厚生省としては、その時点において、新法の改廃に向けた諸手続を進めることを含む隔離政策の抜本的な変換をする必要があった」とし、それを怠った政府の責任を認めた。 また、国会についても、「遅くとも昭和40年以降に新法の隔離規定を改廃しなかった」国会議員の立法上の不作為は違法であると判断した。 (2) 被害に関する判断 判決は原告らが受けた被害を「人生被害」と位置づけ、以下のように述べて、憲法13条が保障する人格権そのものに対する侵害だと判断した。 「新法の隔離規定によってもたらされる人権の制限は、居住・移転の自由という枠内で的確に把握し得るものではない」 「ある者は、学業の中断を余儀なくされ、ある者は職を失い、あるいは思い描いた職業に就く機会を奪われ、ある者は、結婚し、家庭を築き、子供を産み育てる機会を失い、あるいは家族との触れ合いの中で人生を送ることを著しく制限される」 「いずれにしても、人として当然持っているはずの人生のありとあらゆる発展可能性が大きく損なわれるのであり、その人権の制限は、人としての社会生活全般にわたるものである」。 その上で判決は、原告らの損害額の算定については訴訟を遅延させず、真の権利救済を図るためにやむを得ず、すべての原告に共通する精神的損害だけを慰謝料として、「より被害の小さいケースを念頭に置いて控え目に」算定した。そして、入所の期間に応じて、被告に対し、800万円から1400万円の慰謝料の支払いを命じた。 (3) 除斥期間の起算点に関する判断 被告は、この裁判で、被害から20年を経過しているとして、除斥期間の適用を主張した。これに対し判決は「被害は、療養所への隔離や、新法(同前)及びこれに依拠する隔離政策により作出・助長・維持されたハンセン病に対する社会内差別・偏見の存在によって社会の中で平穏に生活する権利を侵害されたというものであり、新法廃止まで継続的・累積的に発生してきたものであって、違法行為終了時において、人生被害を全体として一体的に評価しなければ」ならず、「このような本件の違法行為と損害の特質からすれば」、除斥期間の起算点は、違法行為が終了した新法廃止時である、として、被告の主張を排斥した。 (4) 判決の影響力 熊本判決が与えた影響は計り知れなかった。 何よりもまず、判決は原告らに深い感動を与えた。ある原告は「青空が広がった」と言い、またある原告は「もう俯かなくてもいい」と言った。この判決が持っていた「解放力」は、判決後の大量提訴を呼び起こした。同時に、何としてもこの宝物の判決を守ろう、という声が彷彿と湧き上がった。 そして、広く社会に、らい予防法が引き起こした人権侵害の深刻さと国の重大な責任を知らしめた。さらには言えば、それを放置していた社会全体の責任も浮き彫りにした。 また、政治に与えた衝撃も大きかった。きわめて説得的に政府・国会の責任論が展開されていたからである。国会の中に、自らの責任を認め、被害回復を図るべきだという声が与野党を問わず上がってきた。 こうした状況のもとで、異例の控訴断念が実現した。 (1) 控訴断念 上記の通り、熊本地裁判決は原告ら被害者のほぼ全面勝訴と言っていい内容であり、裁判上展開された国の主張からすれば、控訴することが必然と思われた。しかし、@国が、らい予防法により数十年にわたり被害者を抑圧した当事者であり、控訴して訴訟を引き延ばすことが人道上の問題を含むと評価されたこと、A国会議員の立法不作為も断罪されたところ、国会議員の中から与野党を問わず控訴に消極的な意見を表明する者が多数表れたこと、B国民世論も控訴断念を支持したこと等から、2001年5月23日、小泉首相は「極めて異例の判断」として、控訴しないことを表明した。 (2) 政府声明 控訴断念は、無条件になされたのではなく、同時に発表された政府声明では、熊本地裁判決において国が承服できない法律上の問題点について指摘するという留保が付いた(法律上の拘束力はない)。その内容は以下のようなものである。 @ 国会議員が個別の国民の権利に関する法的責任を負う場合について、最高裁判例は、故意に憲法に違反し国民の権利を侵害する場合に限っているところ、本判決は、故意がない国会議員の不作為に対して法的責任を広く認めている点について、司法がそのチェック機能を超えて国会議員の活動を過度に制約することとなり、三権分立の趣旨に反する。 A 民法の規定では、20年以上前の権利は消滅すると定められている(除斥期間)が、本判決では、結果的に40年の間にわたる損害賠償を認めるものとなっている。 しかし、これらはいずれも前提とする事実引用が極めて不正確であり、また熊本判決について曲解するものである。歴史的な場面における政府声明としては稚拙という他はない。 @について そもそも最高裁判例は、国会議員が責任を負う立法行為について、「立法内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず国会があえて当該立法を行うというごとき、容易に想定し難いような例外的な場合」に限られる、としているのであり、「故意に違反すること」は要件とされていない。そして、熊本判決は、人権制限の重大性等に鑑み、「容易に想定し難い例外的な場合」にあたる、と指摘したもので、最高裁判例と整合している。 Aについて 除斥期間に関する民法の規定は、不法行為の時から20年を経過した場合は権利が消滅する、と規定しており、この「不法行為の時」とは不法行為の終了時を指すとするのが定説である。したがって、民法は、不法行為の終了時から20年間権利行使を怠ると権利が消滅する、と規定するだけであり、その要件を満たす限りは、過去の権利消滅について何ら言及していない。すなわち、「20年以上前の権利は消滅する」との解釈は誤りである。熊本判決は、不法行為の終了時を1996年のらい予防法廃止時と認定したことから、除斥期間の適用を受けないことは至極当然である。 (3) 総理大臣談話等 また、控訴断念に際し、総理大臣談話として、控訴断念を決定した総理大臣の思いと今後の方針が発表された。今後の方針として示されたのは、以下の三項目であった。 @ 判決認容額を基準として、訴訟への参加・不参加を問わず、全国の患者・元患者全員を対象とした新たな補償を立法措置により講じる。 A 名誉回復及び福祉増進のために可能な限りの措置を講ずる。具体的には、患者・元患者から要望のある退所者給与金(年金)の創設、ハンセン病資料館の充実、名誉回復のための啓発事業などの施策の実現。 B 患者・元患者の抱えている様々な問題について話し合い、問題の解決を図るための患者・元患者と厚生労働省との間の協議の場を設ける。 この総理大臣談話を受け、2001年6月22日、議員立法にて成立したハンセン病補償法が公布され、即日施行された。同法は、上記@の補償金支給のみならず、上記Aの様々な原状回復(福祉)的措置の根拠法としての位置付けも担った。そして、上記Aの課題を具体的に進めるために厚生労働省と患者・元患者とが交渉協議する機関として、厚生労働副大臣を座長とする「ハンセン病問題対策協議会」が定期的に開催されることとなった。 なお、同年6月7日及び8日には、衆参両院において、いわゆる謝罪決議が満場一致で可決している。 (4) 小括 この控訴断念と一連の政策決定の意義を整理すると、以下のようなことになろう。 @ 法的責任の明確化・確立 国家賠償責任を認定した熊本判決の結論を受け容れたことにより、国の法的責任は何らの疑義なく確定した。国はこの後、裁判上の合意等について、「謝罪する」という文言を入れることに全く抵抗しなくなった。 A 法的責任を踏まえた各種政策実施の確約 そして、この法的責任を踏まえた各種の施策(それは単なる社会福祉的施策ではなく、被害者に対する原状回復的色合いが強いものとなる)を実施することを、政府最高責任者が確約したことに意味がある。特に、首相談話に明示された退所者給与金、資料館充実、名誉回復措置については、後のハンセン病問題対策協議会の議論において、(内容は協議の上としても)実施することは既定方針となっていた。 B 施策実施プロセスのルール化 さらに、各種施策の実現については、副大臣を座長とする厚生労働省と患者側が協議し、その合意に基づき、政府が法的な根拠付けを主導しつつ実行する、というプロセスがルール化した。これにより、ハンセン病問題に対する要望事項は単なる陳情よりも事実上重いものと取り扱われ、また、患者側の了解なく一方的には実行しない、ということになった。 C 名誉回復 また、控訴断念と一連の政府・国会の対応はハンセン病政策の転換を明確に打ち出したものであり、それら自体が患者・元患者の名誉回復に大きな意味があったと評価できる。 (1) 司法救済ルールの確立 熊本地裁の確定と補償法制定の方針決定により、問題となったのは、既に提訴しながら熊本地裁判決の対象とならなかった被害者の解決である。国としては、訴訟を取り下げて補償法による補償金支給による解決を誘因しようとした節も見られるが、提訴した原告にとっては、補償金は国の法的責任が不明確であり、裁判上の国家賠償金として受領したい、という思いを有するものが多く、取り下げる意向を示すものは皆無であった。また国も、訴訟を早期に終了させることが基本方針であったことから、三地裁統一の和解協議が時に裁判所を介し、時に直接交渉で実施された結果、2001年7月23日、基本合意書が締結され、以後これに従った和解が実施されることになった。 この基本合意書においては、国が法的責任を認め謝罪すること、これを踏まえた賠償金として和解金を支払うこと、提訴時期に応じた弁護士費用が加算されること、等が定められた。 また、補償金と和解金の相互調整もそれぞれ定められ、一方を受領すると、他方の権利が同額分消滅する旨定められた。 なお、賠償額については、「ハンセン病補償法」の基準に従うことになったことにより、判決で格差が生じていた沖縄の入所者についての差別はなくなり、また入所時期についても、1960年以前の入所者も同様の基準で和解できることとなった。 (2)
補償法と司法救済との差異 補償法による補償金支給と、司法上の和解金の相違は、以下のようなものである。 @ 法的責任の有無 司法上の和解金は、和解解決としては異例であるが、国家賠償金としての性格が明示された。これに対し補償法による補償金は、この点が必ずしも明示されていない。 A 琉球政府時代の在沖縄療養所、私立療養所の被害 熊本判決においては、琉球政府時代の在沖縄療養所の被害については、根拠法の違い等から、国内の療養所における被害との同質性立証が不十分であるとして、この期間を被害額に算定しなかった。しかしながら、補償法においては、これも金額算定の対象とされた。また、熊本判決では対象原告のなかった私立療養所入所者についても補償対象とされた。 B 遺族・入所歴なき被害者 なお、遺族及び入所歴なき被害者については、補償金支給の対象とはされず、司法救済においても、この和解交渉とその後の交渉において、国は和解を拒否した。そのため、これらの原告については、司法審理が継続することとなった。最終的には司法救済の道が開かれたものの、補償法の改正はなされなかったことから、これらの被害者については、司法救済のみが受けられるという形になっている。 (1)
位置付け ハンセン病問題対策協議会(以後「協議会」という)は、上記の通り、首相談話を受け、厚生労働副大臣を座長とし、厚生労働省と患者・元患者との協議交渉機関である。ここにおいては、@患者・元患者側は、原告団・全療協・弁護団が参加し、統一交渉団を組織する、A厚生労働省は担当部局が出席する、B両者が事前に議題設定された事項について要求と回答を行い、さらなる摺り合わせを実施し、政策立案・実施に向けた作業を協同して実施する、という形式で議事がなされる。このような形式による政策実現は、公害・薬害など国が加害者としての立場を有する事件の司法救済後の諸課題解決のための政策立案においてしばしば実行されている(但し、本協議会のように、首相談話に基づくものは皆無であり、また定期化されているものも多くはない。その意味で本協議会は他の協議機関と比較して位置付けは重いと評価できる)。 (2)
これまでの開催経過 @ 2001年度 @ 2001年度は6月から12月にかけて合計5回開催された。その過程においては、総理大臣談話において掲げられた諸課題の他、患者・元患者側から提起された問題も含め、@患者の名誉回復や啓発活動に関する「謝罪・名誉回復」、A療養所内に止まる権利の保障や生活改善に関する「在園保障」、B退所希望者や退所者の生活支援等に関する「社会復帰・社会生活支援」、C事実検証と再発防止、資料保存等に関する「真相究明」の4テーマに議論が整理され、議事の進め方のルールも形成された。具体的には、要求書の提出、議論すべき事項の提出、事前協議としての各テーマごとの作業部会、これを受けた協議会における副大臣の政策実現等についての回答、合意文書の策定、というものである。 A このような協議を経て、第5回協議会終了時には、確認事項という合意文書の調印に至った。ここにおいて合意した内容は、@厚生労働大臣による謝罪広告の実施、A中学生に対する啓発パンフレットの配布、B終生在園保障(意に反して転園・退所させられない権利の確認)、C退所者給与金の創設、D退所者慰労金(法廃止前退所者に対する一時金支給。法廃止後退所者には一時金が支給されていることとの均衡が目的)の実現約束、E真相究明のための検証会議の設置、F今後の定例(少なくとも年一回)開催、等である。 A 2002年度 2002年度は、当初8月開催が予定されていたが、担当副大臣の辞任により延期したまま経過し、2003年1月に実施された。この時の主要な課題は、@退所者慰労金の実施、A非入所者に対する給与金策定であった。@については、前年度の協議会で実現を約束していたにもかかわらず、何ら実施のメドが立っておらず、Aについては、後記の通り2002年1月の基本合意時において、協議会で協議するとされていたにもかかわらず、これまた全く実現のメドが立っていなかった。この2点について、厚生労働省は、協議会においても実施に向けた具体的な回答を全くせず、さらには、副大臣が非入所被害者との面談も拒否したため、協議会は決裂するに至った。 この決裂は国会審議において直ちに取り上げられ、小泉首相は厚生労働大臣に早期の実現を督促する、という答弁を行ったことから、両課題とも実現に向けた作業部会が2003年度にかけて開催されることとなった。そして、健康局長が直接担当して作業部会がもたれ、事態打開への協議が続けられた。 B 2003年度 2003年度は、上記二課題の進捗状況を踏まえ、年度末である3月開催となった。この協議会において、@退所者慰労金の2004年度実施が確認された他、A非入所者給与金については、内容協議の上2005年度実施を目指す旨が確認された。 C 2004年度 2004年度は、本来患者側が翌年の予算要求の関係で希望する8月開催が実現した。この時、非入所者給与金については内容が確定し、2005年度実施が確定した。他方、あらたな課題として、高齢化・入所者減少が続く各療養所の将来構想について、当面人数減少が著しい奄美和光園をモデルケースにした協議の開始(作業部会の設置)を要請したところ、事務当局が、統一交渉団との協議を殊更に拒絶し、園自治会との協議に固執したため、続会を開催することとなった。 続会は、同年12月に開催され、平行線であった上記議論について、副大臣が最終判断として作業部会の設置に同意した。 D 今後の課題について 当面、給付を伴う新規制度の創設は一段落したと思われる。今後は、医療の充実、在園保障の実質化(将来構想)等、獲得した制度を生かしつつ生活支援を実効化していく作業が求められる。 (1) 入所歴なき原告との和解 @ 「入所歴なき原告」とは、らい予防法が廃止された1996(平成8)年4月1日までに、ハンセン病を発症したが、療養所に収容されることなく社会内生活を送っていた者で訴訟の原告となった者である。 A 熊本地裁判決の対象となった原告は、いずれも療養所在園者もしくは入所経験者(退所者)であり、入所歴のない者は判決対象者には含まれていなかった。 しかし、隔離政策の被害者は療養所への入所経験を有するハンセン病患者、元患者に限られない。 入所歴なき原告は、社会内での生活を続けているが故に、むしろ療養所に収容された者よりも社会の偏見差別を激しく受けてきたといえる。 たとえば、ハンセン病であることが周囲に知られ、本人のみならず家族までもが地域社会から排除されたり、厳しい偏見差別を恐れるために、辺鄙な場所に一人で小屋を立てて生活する、自宅に閉じこもったまま人前には出ないように暮らす等、地域社会における生活基盤そのものを失っていた。 また、隔離政策は、ハンセン病の治療を療養所のみに限定した結果、入所暦なき原告らは、医療を受ける機会を奪われ、重篤な後遺症を遺したり、誤診による不必要な身体侵襲を受けるといった医療上の被害を被っていた。 B 熊本地裁判決は、判決書の理由中で「療養所に隔離収容されたことによる被害」(隔離被害)のみならず、「隔離政策が予防法の存在とあいまって作出・助長したハンセン病に対する誤った認識(偏見)により、ハンセン病患者が様々な差別的処遇を受ける地位におかれたことによる被害」(スティグマ被害)を併せて共通被害と認定し、これにより「地域社会において平穏な生活を営む権利を侵害された」と指摘している。 従って、熊本判決の考え方からすれば、入所歴のない原告も、入所歴のある原告らと同様に、隔離政策の被害者として救済されなければならないことは明らかであった。 C そこで、原告弁護団は国に対し、入所歴なき原告に対する賠償金(和解金)の支払を求めたが、2001(平成13)年6月23日に、全国原告団協議会と厚生労働省との間で成立した基本合意では、入所歴なき原告についての賠償金(和解金)の支払については、合意に至らず、今後の協議課題とされるにとどまった。 そこで、原告弁護団は、国に対し、入所歴なき原告に対する和解金の支払を求めて交渉したが、国は協議の席につくことすら拒否したため、熊本地方裁判所において、再度判決を求めて立証活動を進め、入所歴なき原告の証人尋問等を行い、入所歴なき原告らの被害の実像を明らかにした。 D これを受けて、2001(平成13)年12月7日、熊本地方裁判所は、入所歴なき原告についての被害を認定し、発症時期に応じた和解一時金の基準額を示して、和解解決を勧告した。 原告弁護団はただちに裁判所の和解所見に応じる旨の回答を行なったが、国は和解協議に応じることに難色を示した。 その後、熊本地裁は3度和解所見を示して和解を勧告、原告弁護団も各方面に働きかけて交渉を重ね、その結果、2002(平成14)年1月28日、全国原告団協議会と厚生労働省との間で、入所歴なき原告に対する謝罪と和解一時金の支払いを確認した基本合意が成立するにいたった。 そして、この基本合意に基づき、順次入歴なき原告と国との間で和解が成立し、和解金が支払われている。 (2) 遺族原告との和解 @ 「遺族原告」とは、提訴前に死亡した療養所在園者もしくは入所経験者(退所者)の法定相続人である。 A 隔離政策の被害者である本人が、提訴前に死亡したとしても、死亡する前に発生していた損害賠償請求権は、相続法の考え方に従えば、当然、その法定相続人に、法定相続分に応じて相続承継されるはずであり、遺族原告は、本人の請求権の承継者として国に対する賠償請求権を有する。 B しかるに、2001(平成13)年6月23日に、全国原告団協議会と厚生労働省との間で成立した基本合意では、遺族原告の問題は入所歴なき原告と同様、今後の協議課題とされるに止まった。その後の交渉でも、国は和解拒否の姿勢に固執し、容易に解決には至らなかった。 C そこで、原告弁護団は、入所歴なき原告らとともに、判決を求めて立証活動に入った。その結果、裁判所において、遺族原告については死亡時期に応じた和解一時金の基準額を具体的に示した和解所見と和解勧告が出された。これを基に、遺族原告に対する賠償金の支払いを求めて交渉を重ね、遺族についても先の平成14年1月28日の基本合意において、和解により賠償金(和解金)を支払うことが確認された。 その後、多くの遺族がこの基本合意に基づき、遺族として和解金を受領している。 D 遺族原告への賠償金の支払いは、法的には相続法理に基づくものであり、遺族の被害そのものが問題となったわけではない。しかし、遺族はハンセン病者の家族として、直接に、あるいは間接に、居住、職業、結婚の差別、学校や地域でのいじめ等を受け、家族が療養所にいることを隠し続けながら生活するなど、大きな被害を受けている。特に、親を療養所に奪われた子らは、ある者は親の入所に伴い、園内の保育所等に入れられ、ある者は親戚に育てられ、その中には親の戸籍に入れられない者もあった。そうした家族の被害に対しては、いまだ国の謝罪はなく、多くの家族がハンセン病のことを隠して暮らしているために、その被害実態すら明らかになったとは言えない。現在、弁護団では家族の被害実態を明らかにする作業に着手している。 E なお、在日韓国人で日本国内の療養所に入所していた者の遺族も、同様に損害賠償請求権を相続したとして和解の対象となっている。こうした遺族の中には韓国籍の者、韓国在住の者も含まれている。ただ、近時になり、国は突然に国家賠償法施行(1947年)以前のみの入所者の遺族について、国家無答責を理由に、和解を拒否する意向を示している。この理由により和解を拒否されている遺族の中には、韓国籍・韓国在住の者が含まれており、この問題の解決が今後の課題となっている。 (1)
位置付け 謝罪・名誉回復とは、患者・元患者(死者を含む)の名誉回復や啓発活動に関する議題の総称である。ハンセン病問題の顕著な特徴は、差別立法と絶対隔離の実施という、国主導による徹底した差別の発生・残存であり、このことが患者・元患者と家族あるいは社会との断絶、社会復帰の困難等、問題発生の根元ともなっている。そのため、この課題は、全てのハンセン病問題対策の前提問題として位置付けられ、常に協議会の冒頭のテーマに掲げられる重要課題の一つとして協議されてきた。 (2)
具体的対策 これまで実現してきた主要な施策は、以下の通りである。 @ 謝罪広告 2002年3月と5月の2回、全国紙及び主要地方紙に、厚生労働大臣の顔写真入りの謝罪広告が実施された。これは、後発の東日本及び瀬戸内訴訟において、裁判上の請求として謝罪広告を求めていた流れから、当初から協議会における要求項目に位置付けられ、これが実現したものである。 A 遺族弔意事業 ハンセン病補償法の根拠を有する事業として、遺族による埋葬費を補助する制度が実現した。療養所内に引き取り手もなく止まる遺骨を少しでも遺族に引き取ってもらい、没者の「帰郷」を促す目的である。 B 中学生パンフ 毎年一回、全国の中学2年生に対し、ハンセン病問題の内容を説明する8ページ・多色刷りのパンフレットを配布する事業が実現し、現在も実施されている。この内容策定については、内容についての競争入札を実施し、統一交渉団もその評価に参加し、最終の表現についても国との協議・合意に基づき完成した。 C シンポジウム 2003年11月、熊本県におけるとあるホテルにおいて、ハンセン病療養所入所者の里帰り事業の宿泊を拒否され、さらにこれを巡りハンセン病患者を中傷する郵便が多数療養所に送付された事件(アイスター事件、詳細は後記W1)を契機に、国も啓発事業のあり方について再考を迫られた。厚生労働省の対応として、当面国内の各地域において、国主催の啓発シンポジウムを開催することとなり、2005年3月に第1回が開催された。 (3)
その他 これ以外に、アイスター事件を契機として、法務省人権擁護局も独自にハンセン病問題対策に予算を計上し、様々な啓発活動を展開する予定としている。 (4)
今後の課題 差別解消という困難かつ目に見えない課題達成のゴールはなく、名誉回復・啓発事業は反復・継続し、常に効果的な方法を模索して行う必要がある。今後ハンセン病問題の風化に抗し、全ての患者・元患者が天寿を全うするまで(さらにはその後も)、継続した努力が求められている。 (1) 退所者給与金 @ 退所者給与金の必要性 熊本地裁判決は,「ハンセン病患者の隔離は,通常極めて長期間にわたるが,たとえ数年程度に終わる場合であっても,当該患者の人生に決定的に重大な影響を与え,人として当然に持っているはずの人生のありとあらゆる発展可能性が大きく損なわれるのであり,その人権の制限は,人としての社会生活全般にわたるものである」と述べ,隔離による被害は,全人生に及ぶ被害であると判示している。 すなわち,療養所への「隔離」は,家族関係,人的関係,経済的活動,教育等の社会生活上必要・不可欠な基盤の喪失を意味するものであった。 療養所を退所して社会内で生活すること,つまり,社会復帰し,さらに社会内での生活を維持・継続するためには,「隔離」によって奪われた社会生活基盤を回復し,再構築する必要がある。 そして,社会生活基盤の中でも,特に重要なのが経済的基盤である。療養所への「隔離」が仕事や家業を奪ったにとどまらず,「らい」予防法第7条における就業禁止規定の存在は,ハンセン病患者に対する偏見差別と相俟って,退所後の就労の機会,経済的基盤をことごとく奪ってきた。 このため,社会復帰の促進及び社会内生活の維持継続のためには,退所者に対する経済的支援が,継続的安定的に実施される必要があった。 A 退所者給与金の法的根拠 社会復帰者に対する特別な年金制度等を中心とする経済的支援策は,熊本地裁判決前からの統一交渉団の要求の一つであった。 2001年5月25日,熊本地裁判決に対する控訴を断念する内閣総理大臣談話及び政府声明において,「名誉回復及び福祉増進のために可能な限りの措置を講じる。具体的には,患者・元患者から要望のある退所者給与金(年金)の創設・・・などの施策の実現について早急に検討を進める。」と発表したことから,退所者給与金制度の創設に向けて,統一交渉団と厚労省との間での協議が開始されることとなった。 この統一交渉団と厚労省との交渉過程で問題となったのは,退所者給与金の法的性質である。 あくまでも「福祉政策」として政府の恩恵的・裁量的政策として位置づけようとする厚労省に対し,隔離されかつ差別的扱いを受ける地位に立たされたことによる被害の原状回復義務として位置づける統一交渉団との間で,激しい交渉が行なわれた。この問題は,制度の法的性質をどう位置づけるかによって,給与金額及び将来の安定的な制度運営・維持に直結する問題であった。 4回のハンセン病問題対策協議会や作業部会での激しい交渉,経済的支援策の必要性を理解させるための退所者と厚労副大臣との面談等の度重なる協議を経た結果,2001年12月25日の第5回ハンセン病問題対策協議会において,「厚生労働省は,法的責任を踏まえ,社会内で生活するハンセン病患者・元患者に対し,平穏で安定した平均的水準の社会生活を営むことができるように,・・・退所者給与金制度を創設する」との合意確認が成立するに至った。 そして,2002年4月,補償法施行規則が改正され,同施行規則に第5条1項として「・・らい予防法が廃止されるまでの間に,国立ハンセン病療養所等に入所していたものであって,現に国立ハンセン病療養所等を退所しており,かつ,日本国内に住所を有するものに対し,その者の生活の安定等を図るため,厚生労働大臣の定めるところにより,退所者給与金を支給するものとする。」との条項が加えられ,退所者給与金制度が発足した。 前記合意確認における,「法的責任」とは,隔離及びスティグマによって奪われた経済的基盤に対する原状回復義務と理解されるべきものであり,回復されるべきものは「平均的水準の社会生活を営みうるだけの経済的基盤」である。 この結果,退所者給与金額は,当時の国民生活基礎調査にもとづく高齢者世帯における1人当りの平均所得額が基準とされ,本人死亡まで支給されることとされた。 他方,「平均的水準の社会生活」については,日本社会における平均的水準が想定されたことから「国内在住」が条件とされ,また,「平均的水準の社会生活を営みうるだけの経済的基盤」が回復あるいは再構築されとみられる場合,すなわち,退所者給与金額を超える所得(課税標準額)がある場合には,その超過額の1/2が退所者給与金から減額されるという「所得制限」が設けられている。 (2) 社会生活支援一時金(退所者慰労・功労金) @ 問題の所在 1996年4月の「らい」予防法の廃止後,1998年3月に社会復帰準備支援事業が創設された。同制度は,「らい予防法廃止後」に,「療養所を退所して地域社会の中で自立を目指して生活する」ことを希望する社会復帰者に対し,「社会復帰に際して必要となる住宅準備費用,引越費用等の退所準備等費用」(上限100万円)及び「社会生活訓練に要する費用」(上限150万円)を支給する制度である。 同制度は,予防法廃止後の「社会復帰促進政策」としての性格を有するものであり,このため,上述のように,支給対象者が予防法廃止後の退所者に限定されていた。 しかしながら,予防法廃止前にも,軽快退所規定あるいは無断退所(逃亡)により,事実上,療養所を退所していた者も多く,これら予防法廃止前の退所者は全くの社会復帰支援を受けることのないまま,退所し,社会内生活を継続することを余儀なくされていた。 統一交渉団は,熊本地裁判決により,隔離政策が違憲・違法と判断された結果,社会復帰に対する経済的支援は国の法的責任であり,同制度による支援対象者を予防法の廃止前後で区別すべき理由はなく,国の法的責任を前提に,公平の理念から,同制度を予防法廃止前の退所者にも遡及的に適用すべきである,という要求を掲げてきた。 A 社会生活支援一時金(退所者慰労・功労金)の実現 統一交渉団の上記要望に対し,厚労省は「法あるいは制度の遡及的適用は原則として困難である」という見解を示し続け,交渉は難航した。 しかしながら,4回に亘るハンセン病問題対策協議会での議論及び退所者と厚労副大臣の面談によって,退所者が社会生活を継続するうえで厳しい現実に立たされてきた実態及び予防法廃止前の退所者の労苦が今後の社会復帰・社会内生活支援策の指針を示す礎となっていることが確認された。 そして,その結果,2001年12月25日,第5回ハンセン病問題対策協議会において,「社会復帰支援策が不十分な下で退所し,社会内で多大な労苦を味わったにもかかわらず,準備等支援金を受領していない既退所者に対し,慰労・功労の趣旨の一時金支給について,方法・金額を含めさらに検討し,平成14年度(2002年度)中の実現に最大限努める」との確認合意が成立した。 しかし,上記確認合意がなされたものの,厚労省は,賠償金あるいは補償金によって補償された慰謝料との関連性,退所者給与金による経済的支援との関連性が内部で問題となっていることを口実に,2002年度中の制度実現約束を反故にした。 これに対し,統一交渉団は,協議会における確認合意事項を反故にすることは,協議会を軽視し,存在意義を失わせることにつながるとして,強烈な抗議と交渉を行った。 その結果,2004年4月に至って,ようやく「社会復帰支援策が不十分な中でハンセン病療養所を退所し,多大な労苦を味わった者に対し,慰労・功労の趣旨及び福祉の増進を図る」ことを目的とした「社会生活支援一時金事業」が実現した。これは,予防法廃止前に退所し,国内に居住する者で,その後,再入所あるいは前記社会復帰準備支援事業の支援を受けていない者を支給対象とし,支給額は社会復帰準備支援事業のうちの社会訓練費用に相当する金150万円が一時金として支給されることとなった。 なお,2001年2月,「沖縄ハンセン病療養所社会復帰支援事業」として,沖縄のハンセン病療養所を沖縄の本土復帰(1972年5月15日)前に退所し,その後再入所していない退所者に対して「介護等支援特別一時金」(上限100万円)及び「社会生活継続支援金」(上限150万円)が支給されており,この受給者は,社会生活支援一時金事業の支給対象者からは除外された。 (3) 社会復帰準備支援事業の改善 熊本地裁判決前である1998年3月に創設された前記「社会復帰準備支援事業」については,@退所準備等支援金で上限100万円,社会生活訓練支援金で上限150万円と使途目的によって上限が定められていること,A使途目的が極めて限定的であったこと,B本人が一度立替払いをしたうえで返還をうけるという精算払い方式を原則としていたこと等の制度上の制約があったため,実際には利用しにくいという問題が多々あった。例えば,社会復帰時において,家屋を購入する場合,乗用自動車を購入する場合,身体障害にあわせた家具や家屋への改造を要する場合等には,必ずしも十分対応できる制度ではなかった。 熊本地裁判決後,社会復帰・社会内生活支援が,国の法的責任(原状回復義務)としてとらえられたことにより,2003年4月,「社会復帰準備支援事業」から「社会復帰支援事業」と名称が改められ,内容も,@退所準備等支援金と社会生活訓練支援金という枠が撤廃され総額で250万円の支援が可能となり,A使途目的も拡大され,B物品の購入前に費用が概算として支給される等の改正が行なわれた。 (4) その他 @ 医療問題 ハンセン病療養所において「ハンセン病及びハンセン病に関連する疾病」に関する外来治療を受ける場合には,健康保険における自己負担分が免除されることとなった。(2001年12月25日・第5回協議会確認合意書) ただし,90年にも及ぶ隔離政策は,一般医療からハンセン病治療を放逐する結果を招いており,療養所以外でハンセン病及びこれに関連する疾病の適切な診断・治療を受けることが極めて困難となっている。また,ハンセン病療養所において一般病院と同様の入院治療を受ける制度も存在している。 医療体制の整備・充実が急務の課題となっており,厚労省と現在協議・交渉中である。 A 公営住宅法の改正 退所するに際し,住居の確保が極めて重要である。長期間の隔離によって住宅を有していない者がほとんどであるうえ,根強い偏見差別が現存することによって家族の元に戻ることも困難である。 このため,2002年4月,公営住宅法が改正され,ハンセン病療養所退所者については,入居要件(単身者,所得)が緩和された。ただし,優先入居制度の有無,保証人の要否等については,各地方自治体の判断に委ねられており,対応にばらつきが生じている。各地の退所者の会では、各自治体に対してこれらの改善のための交渉を行っているところがある。 (1) 在園保障の意義 熊本地裁判決は、ハンセン病療養所の在園者の置かれた状況について、次のように述べる。 「被告国は、少なくとも、原告らの大半が入所した昭和30年代以前においては、退所させることをほとんど念頭に置かないで、患者を隔離してきたのであり、患者らは、いったん入所すると、家族や社会と切り離され、療養所外の生活基盤を失い、退所することが極めて困難状況に置かれ、その結果、多くの入所者が、療養所を生涯のすみかとして暮らさざるを得ず、現実に、入所者の大半が、退所することなく、生涯を療養所で過ごしているのである。」 在園保障の問題とは、この熊本判決が指摘するように、国の強制隔離政策によって「終のすみか」となった療養所における在園者の生活及び医療を、国の責任でいかに実質的に保障させるかというものに他ならない。 (2) 在園保障の基本原則 この在園保障要求の基本原則は、平成13年12月25日付ハンセン病問題対策協議会における確認事項第2項に求められる。 すなわち、同項は、「入所者が在園を希望する場合には、その意思に反して退所、転園させることなく、終生の在園を保障するとともに、社会の中で生活するのと遜色のない水準を確保するため、入所者の生活環境及び医療の整備を行うよう最大限努める」と定めている。 前述のように、国の強制隔離政策の結果、療養所は、在園者にとって「第2の故郷」となり、「終のすみか」となった。にもかかわらず、国が、在園者の意思に反して退所・転園させることがあれば、それは「第2の強制隔離」に他ならない。そこで、統一交渉団は、確認事項第2項前段の終生在園の保障を強く求め、勝ち取った。 一方、終生在園を勝ち取っても、療養所内での生活・医療水準が空洞化しては、真の意味での「終生在園保障」とはいえない。そこで、統一交渉団は、確認事項第2項後段において、「社会の中で生活するのと遜色のない水準」の確保条項を勝ち取った。 これら条項が、すべての在園保障要求の基本原則となる。 (3) 在園保障のための交渉 13の療養所の在園者は、1951年2月、患者の処遇改善を目的に、全国組織である全患協を結成した。結成以来半世紀に渡り、全患協は、国に対して、療養所における治療体制の整備などを強く求め、処遇改善を勝ち取ってきた歴史を持つ。 この歴史的経緯をふまえ、厚生労働省との交渉においても、まず、全患協の後身である全療協が例年通り単独交渉を行った上、次に、全療協を含めた統一交渉団が、在園保障交渉を行う。 このように、在園者自らが主体的となって、在園保障の実現に力を注いでいる点が、在園保障交渉の大きな特徴と指摘できる。 (4) 各年度の要求項目と獲得点 各年度における在園保障に関する要求項目と獲得点は、概略、次の通りである。 ア 平成14年度要求(特に、「三交替制の試行」) 平成14年度は、平成13年7月23日付基本合意書および平成14年1月28日付基本合意書において確認された国の法的責任に基づき、各施策の要求実現を開始した年になる。 統一交渉団は、療養所におけるC型肝炎の被害実態の開示を求めたほか、不自由者棟における看護士による三交代制勤務の実施やケースワーカー配置のための予算措置を強く求めた。 その結果、厚生労働省から統一交渉団に対して、各療養所における肝炎感染率が開示された。また、各療養所において、三交替制の試行が始まるとともに、ケースワーカについて予算措置が取られた。 イ 平成15年度要求(特に、「三交替制実現のための人員要求」) 不自由者棟における3交代制の試行開始をふまえ、三交代実現のために、実質48名の増員を求めた。 また、国の国立病院を独立行政法人化する政策導入をふまえて、国立病院と療養所の勤務を併任する医師が、今後も併任について支障がないことの確認を求め、その確認を得た。 ウ 平成16年度(特に、「C型肝炎対策」) 統一交渉団は、在園保障の要求の中から特に、医療問題に絞った協議の場の設置を求めた。 また、夜間看護が大幅に立ち後れている現状をふまえて、看護助手の夜勤対応を可能にするような省令の整備、さらに看護士の抜本的な増員を実現するために、予算措置を行うように強くもとめた。 特に16年度は、統一交渉団は、厚生労働省に対して、療養所において立ち後れているC型肝炎対策の充実を強く求めた。 その結果、厚生労働省は、療養所内に肝炎患者数が多いことが強制隔離政策の被害であると特定することはできないものの、社会内に比べて療養所内の感染率が高いことは事実として間違いないと回答した上で、肝炎の唯一の根治治療であるインターフェロン療法を実施するための予算措置を講ずるとともに、専門医を招聘するための予算措置を講ずることを約した。 さらに、厚生労働省は、統一交渉団の要求に応じて、肝炎の定期検査の頻度を各療養所毎に調査することを約すとともに、肝臓学会のガイドラインに従った定期検査を周知すべく各療養所に要請文書を送付した。 (5) 今後の課題 療養所では在園者の高齢化が進むとともに、療養所医療の空洞化が進みつつある。統一交渉団としては、在園保障の基本原則に従い、療養所内での医療体制の整備をさらに強く求め続ける必要がある。 一方において、療養所内の医療体制を補完するもののとして、療養所外部の医療機関に委託して行う治療(委託治療)が行われているものの、介護員の人員配置や差額ベッド代金の負担など解決されなければならない課題が少なくない。 今後はこの委託治療の拡充・充実を図ることが求められており、例えば、委託治療先の医療機関と統一交渉団との間における定期協議会の開催等を求めていく予定である。 (1) 真相究明事業に関する国の責務の根拠 国は、2001年7月基本合意書(第三項)において、熊本判決で認められた法的責任をふまえて、ハンセン病問題に関する真相究明事業を行うことを約束した。 また、同年12月ハンセン病問題対策協議会確認事項(第四項)で、真相究明と再発防止の提言を行う検証会議を設置することを約束した。さらに、国会で厚生労働大臣が、ハンセン病問題の検証を、第三者機関に委託して、国の責任で行うことを約束した。 (2) 検証会議 @ 検証調査事業に関する実施要領(資料参照) 1)目的 ハンセン病患者に対する隔離政策が長期にわたって続けられた原因、それによる人権侵害の実態について、多方面から科学的、歴史的に検証を行い、再発防止のための提言を行うこと 2)構造 @)各界代表の14名の委員で検証会議を構成し、最終報告書を提出する A) 検証会議の下部研究機関として20名の研究者から成る検討会設置 3)ルール・・会議の公開、国の資料開示と報告書尊重義務、プライバシー保護 4)運営・・・日弁連法務研究財団(第三者機関)に事業委託する 5)期間・・2002年10月〜2005年3月 B 検証の方法 1)検証項目と担当委員の決定
(検証会議最終報告書目次参照) 2)特別調査報告書の作成 @)被害実態調査報告 約400名のソーシャルワーカーがボランティア調査員として協力し、調査に同意した、国立療養所入所者、退所者、私立療養所入所者、家族に対して調査票による面接調査を行った。これによる回答書841通については、社会学専門家の協力を得て、量的、質的分析を行い、被害の全体像を明らかにした。 A)胎児標本調査報告 各地の国立療養所に保管されているホルマリン漬け胎児標本114体について、各形状と保管状況を検証し、測定値と写真により記録化した。標本のほとんどが、入所者妊婦が園当局に堕胎・早産を強制されて娩出した胎児・新生児であり、このような標本を作製した理由・経緯(生産児を死亡させた可能性がある)につき、ハンセン病学、法医学、病理学、法的見地等から検討し、遺体の取り扱いに関する今後の方向性につき提言(検察への届出、埋葬)を行った。 3)各界への資料開示要求書・照会書を利用した全国的資料収集 4)検証会議の開催(18回) @)国内すべての国立ハンセン病療養所(13カ所)を訪問し、関係者から証言聴取と歴史的施設の検証を実施した。 A)東京の会議場で報告書作成に向けた討論のための会議 5)旧日本占領時代の韓国・台湾のハンセン病療養所を訪問し、証言聴取と施設見学 6)私立ハンセン病療養所2園を訪問し、証言聴取と施設見学 7)最終報告書起草委員会の開催 8)検証会議運営に関する打ち合わせ会議の開催 B 最終報告書 1)2005年3月1日、厚生労働大臣に最終報告書を提出した。大臣は報告書の内容を尊重することを約束した。 2)最終報告書は資料集を含め全部で約1500頁の分量となった。内容はCDにも収録して公表し、要約版も作成された。また、最終報告書の全文は日弁連法務研究財団ホームページに掲載中である。 3)最終報告書で検証会議が要請した「再発防止のための提言」の項目は次のとおりである。 @)患者・被験者(臨床研究対象者)の諸権利の法制化 A)公衆衛生等政策決定過程の科学性・透明性を確保するシステムの構築 B)人権擁護システムの整備 C)正しい医学的知識の普及 D)人権教育の徹底 E)被害の回復(社会復帰支援、差別偏見根絶、等) F)啓発のための資料保存・開示 G)公衆衛生のための予算措置の原則 H)提言具体化のために行動計画を策定して実施状況を監視するために、各界代表委員から成る「ロードマップ委員会」の設置 →国は、2005年度中に同委員会を設置すると約束した。 (3) ハンセン病資料館 ハンセン病にまつわる偏見・差別・排除・人権侵害の歴史を伝え、病気そのものの正しい理解を広めるため、1993年6月25日に財団法人が寄付を募って開館。開館に際しては財団が国にいったん寄贈し、国から委託を受けた形で運営してきた。 全国のハンセン病療養所や、国内外の関係機関から数多くの資料を収集し、展示している。展示以外にも、入所者による語り部活動、園外各所での講演、資料館だよりの発行、シンポジウム・講演会・映画会等の開館記念行事、ハンセン病の国際的ネットワークであるIDEA・アメリカ・中国・韓国・フィリピン・インドなど世界各国の研究者や研究機関との交流などの活動も行っている。図書室では、各療養所自治会発行の機関誌や回復者の手記・学術論文など、約5000冊の蔵書を閲覧できる。 2001年5月の熊本判決を受け、「総理大臣談話」において、「ハンセン病問題の早期解決に向けた取り組みの一つ」として、ハンセン病資料館の拡充が約束された。 これに従い、厚生労働省は2002年にハンセン病資料館施設整備等検討懇談会を設置して検討を行い、ハンセン病問題啓発活動の中核となるべく、大規模な資料館施設拡充計画(2007年に新資料館開館予定)を立て、準備しているところである。 (1) 基本合意の成立 前記のとおり、国は、入所歴なきハンセン病患者・元患者(非入所者)についても誤ったハンセン病政策による被害者であることを認め、2002年1月28日、全原協と厚生労働省との間で、入所歴なき原告に対する謝罪と和解一時金の支払い等を確認した基本合意が成立するに至った。 この基本合意書中、五項2には「遺骨の引き取り等、その他の事項については、別途協議する。」と謳われているところ、同月30日、熊本地裁の弁論手続の中で、原告弁護団と被告国との間で、「基本合意書五項2に定める『その他の事項』には、入所歴なき患者・元患者らに対する社会生活支援金支給等を含む恒久対策を含むものである」ことが確認され、弁論調書に明記された。 (2) 非入所者給与金制度実現までの長い道のり 非入所者は社会内において地域社会から排除され、または自らを社会から隔離し、十分な医療も受けられずに、生活全般、人生全般にわたる苛烈な被害を被ってきた。その被害の深刻さと過酷な生活実態は、療養所に隔離され社会復帰した退所者と全く同様のものであった。2002年4月から退所者給与金制度の実施を獲得していたことに照らしても、これに準じた非入所者給与金制度の早期創設は必要不可欠な課題であった。 しかしながら、非入所者給与金制度の実現に至るまでには、この基本合意成立後、3年もの長い年月を要した。 2002年1月の基本合意成立後、協議の進展が全くみられず、2003年1月の協議会がこの問題で決裂した後、ようやく同年4月に非入所作業部会が設けられるに至ったことは前記のとおりである。 2003年4月の第1回非入所作業部会では、非入所原告らが、社会内で被ってきた苛烈な被害と過酷な生活実態を訴え、健康局長は、「平成16年度概算要求に乗せるよう最大限努力する」と明言するに至った。 その後、厚生労働省が給与金制度の必要性とその金額検討のため生活実態調査の実施を要求し、2003年5月から6月にかけて非入所者の生活実態調査が行われた。その調査結果は、非入所者のハンセン病発症による就学、就労をはじめ生活全般にわたる過酷な被害実態と現在の生活の厳しさを如実に浮かび上がるものであった。しかし、厚生労働省はなおも制度実現に向けての前向きな検討を怠り続け、同制度の平成16年度予算での実現は不可能となった。 その後も統一交渉団は、法的責任に基づく原状回復義務としての施策、平穏で安定した平均的水準の生活を営むことができる施策の実現を求め、交渉を続けた。その結果、2004年3月の平成15年(2003年)度協議会において、ようやく2005年度の制度実施が確認され、同年8月の平成16年(2004年)度協議会において制度内容についても合意に達し、「厚生労働省は、平成14年1月28日付基本合意書を踏まえ、裁判上の和解が成立した入所歴のないハンセン病患者・元患者に対し、平穏で安定した平均的水準の社会生活を営むことができるように、平成17年度から、…非入所者給与金(仮称)制度を創設する」旨が確認され、2005年4月から制度が実施される運びとなった。 (3) 非入所者給与金制度の内容と法的根拠 非入所者給与金は、非入所者と同じ年齢・性別・地域の一般国民の平均所得額と非入所者の平均所得額の差額を支給基準額としている。ただし、「法的責任に基づき、平穏で安定した平均的水準の社会生活を営むことができるように」との趣旨に則り、低所得者(非課税者)には低所得者加算、生活困窮者には生活保護相当額の援護金加算があるなど、低所得者に厚い制度設計となっている。逆に、退所者給与金制度と同様、一定以上の所得を有する場合には所得制限が設けられている。 2005年4月、補償法施行規則が改正され、同施行規則5条2項として、「廃止法により予防法が廃止されるまでの間に、ハンセン病を発病した後も相当期間日本国内に住所を有したことがあり、かつ、国立ハンセン病療養所等に入所したことがない者であって、国との間でハンセン病に関する裁判上の和解…が成立しており、かつ、日本国内に住所を有するものに対し、その者の生活の安定等を図るため、厚生労働大臣の定めるところにより、非入所者給与金を支給すること。」との条項が付け加えられ、これが非入所者給与金制度の根拠規定となっている。なお、制度の具体的内容は、厚生労働省告示(国立ハンセン病療養所等非入所者給与金支給規程)において定められている。 (4) その他 社会内の医療体制の整備・充実など、その他の恒久対策についても、実現が強く求められている状況は退所者と同様であり、今後も引き続き取り組みが必要である。 厚生労働省は、ハンセン病患者・元患者に対し、法的責任に基づく終生在園保障及び「社会の中で生活するのと遜色のない水準を確保するため、入所者の生活環境及び医療の整備を行うよう最大限努める」ことを約束している。 しかし、全ての療養所で入所者は減少し続けており、このような状況の許で、「社会の中で生活するのと遜色のない水準を確保」していくことは容易ではない。厚労省の約束が果たされるべきことは当然であるが、それが如何にして果たされるのかの道筋が見えない限り、入所者らの不安は解消されない。 療養所の将来構想の問題が、協議会の議題に取り上げられたのは、2004年8月の第9回協議会が最初である。 全国13の国立ハンセン病療養所の内、最も入所者数の少ない奄美和光園の入所者数が70名を割るという事態を受けて、入所者数が著しく減少した場合においても、療養所を終の棲家として維持するためには、現時点から長期間な展望の下に、将来構想を具体化し、実行していくことが求められるからである。 将来的に、国立療養所の統廃合を選択肢の一つとして考慮している厚生労働省は、当初、将来構想を議題とすることに難色を示したが、統一交渉団の強い要請を受けて、奄美和光園に関する作業部会を設置することを受け入れた。 奄美和光園では、医師定員3名が充足できず、園長の個人的な努力によって医療が支えられており、また入所者自治会も執行部を構成できないまま休会の状態となっている。 奄美和光園のある鹿児島県名瀬市でも、奄美和光園の将来については関心が深く、奄美和光園の敷地に国立の医療センターを招致して医療機関の存続を希望するなどの提案もなされている。 現在、作業部会においては、奄美和光園の外来診療の充実と福祉施設の併設構想の是非等について、協議中である。 2003年11月7日、熊本県の「ふるさと訪問事業」によって同県小国町の「アイレディース宮殿黒川温泉ホテル」に宿泊予約した菊池恵楓園入所者が、予約者が元ハンセン病患者であることを知った同ホテルによって宿泊を拒否されるという事件が発生した。 これに対して、熊本県は県知事名での抗議文をホテルに届けるとともに、再考を促すも、ホテル側は「他の宿泊客に迷惑がかかる」と宿泊拒否の態度を変えなかった。11月18日には、この事件の経緯について県知事が記者会見を行い、マスコミ報道によって広く社会に知られるところとなった。 世論の厳しい批判を受けたホテル側は、11月20日に総支配人が菊池恵楓園を訪問して自治会代表らと面談し、「謝罪文」を交付しようとした。しかし、その「謝罪」は、宿泊拒否を総支配人個人の判断の誤りとし、予約時にハンセン病元患者であることを告知しなかった熊本県の担当者に責任を転嫁する内容であったため、自治会側はこの「謝罪文」の受け取りを拒否せざるを得なかった。 ところが、この経過がマスコミによって、「自治会による謝罪拒否」と報じられたことを契機に、自治会や入所者個人宛に誹謗中傷の手紙、電話、FAXが多数寄せられるようになり、インターネットの掲示板にも、差別・偏見に基づく夥しい意見が書き込まれるようになった。 この事件は、ハンセン病元患者の名誉回復が未だ不十分であることを示す一方、名誉回復の過程が進行しつつあることをも示している。らい予防法廃止以前、あるいは熊本判決以前であれば、このような宿泊拒否がマスコミで大きく報じられ、世論の批判を浴びることもなかったし、その問題解決に行政が積極的に動くこともなかった。2004年2月、熊本県は同ホテルに対し、旅館業法に基づく4日間の営業停止処分を行う方針を固め、同ホテルは廃業している。 しかし、「謝罪拒否」に対して寄せられた誹謗中傷は、ハンセン病問題の根の深さを示すものでもあった。 極端に悪質なものは別として、多くの誹謗中傷に特徴的なのは、元患者が宿泊拒否されたことには同情するが、元患者側が「謝罪拒否」という形で自己主張すると激しい非難を投げつけるという態度である。このような態度の根底にあるのは、医療や福祉を、劣った者に対する施しとみる視線であり、これこそがハンセン病患者・元患者に対する差別・偏見の根源ともいえる。 従来、ハンセン病患者・元患者に対する差別・偏見の解消を目的として行われてきた「啓発活動」は、ハンセン病が遺伝病ではない、あるいは感染力が弱いといった医学的知識の普及を中心としてきた。これに加え、熊本判決確定後は、日本のハンセン病患者・元患者は、誤った隔離政策の犠牲者であるという事実を広く知らせることに力点が置かれてきた。こういった活動の必要性、重要性は今後も決して喪われることはない。しかし、アイスター事件の経過は、それだけでは差別・偏見の根本的解消が実現しないことを示している。 ハンセン病患者・元患者に対する差別・偏見の根本的解消には、ハンセン病固有の問題を超えて、医療・福祉観それ自体の変革が必要である。患者の権利を医療・福祉政策の基本理念と位置付け、施しとしての医療・福祉から基本的人権の実現としての医療・福祉への転換を目指さなければならない。 2002年4月に発足した退所者給与金制度による給与金受給者数は、以下のように推移している。 2003年5月1日時点 1276名(うち新規退所111名) 2004年5月1日時点 1385名(うち新規退所135名) 2005年5月1日時点 1395名(うち新規退所140名) 但し、2004年までの数字は、支給決定者の累計であり、この間に死亡、再入所によって不支給となった者も含まれている。2005年の数字は、その不支給となった者を除いた、実際の受給者の数字であり、支給決定者累計は、この間の不支給者約50名程度を加えた数字となる。 予防法廃止後、退所者給与金制度が発足するまで、当時唯一の社会復帰支援策であった退所準備金制度の適用を受けて退所した者は10名に満たなかったと言われている。それに比較すれば、この退所者給与金制度が社会復帰促進に果たした役割は非常に大きい。 しかし、制度発足から1年の間に支給決定を受けた人数に比較すれば、その後に支給決定を受けた人数は僅かである。在園者の平均年齢が77才を超えていることを考えると、この数字が今後大きく変動するとは思えない。現在の制度の許で、退所可能な条件のある者は、ほぼ退所してしまい、これから退所者が出るとしても散発的なものにとどまると考えられる。 このような状況で、今後の社会復帰促進策は以下の3つの視点が必要である。 第一に、現時点で社会復帰している退所者が、再入所を余儀なくされる状況を招かないよう、現在の退所者給与金の水準を保つことである。もちろん、社会情勢の変化によっては退所者給与金の水準向上も検討されるべきであろう。 第二に、退所者が療養所を入院施設として利用できる制度を整えることである。 いまやハンセン病は稀少疾患であり社会内には症例を経験した医師が少ないこと、退所者も自らのハンセン病罹患歴を率直に説明するのに抵抗があること等から、療養所は退所者にとって最も安心してかかれる医療機関である。ところが、現行制度では退所者は療養所の外来診療しか利用できず、入院が必要になると再入所するしかない。再入所となれば退所者給与金の受給資格が喪われ、社会内での生活が維持できなくなる。このような現行制度の許では、退所者は入院の必要があっても通院で我慢することによって病状悪化の危険を背負い込むか、社会内での生活を断念して再入所するかを選択するしかない。このような状況は、今後、退所を検討する入所者にとっても、退所を決意するための大きな妨げになっている。この状況を制度的に解決することが、再入所防止になるとともに新たな社会復帰の促進に繋がる。 第三に、療養所自体の社会復帰を視野に入れることである。 現時点の療養所入所者の多くは、現実には退所することなく生涯を終えることになるであろう。しかし、隔離政策による被害回復のためには、入所者個人が退所できないとしても、可能な限り社会との接点を増やしていかねばならない。また、入所者数が多く療養所自体が一つのコミュニティーとして成立していた時代とは異なり、入所者数が減る一方の今日においては、療養所が社会に対して開かれていくべきことはむしろ必然であろう。療養所の入所者が、社会の一員として生涯を終えることのできる将来構想を検討すべきである。療養所の将来構想については、先述のとおり厚生労働省との交渉がようやく始まったばかりである。 国立療養所多磨全生園におけるハンセン病に対する診療の誤りのために重篤な後遺症を残したとして、ハンセン病元患者が国を訴えた損害賠償請求に対し、東京地方裁判所は、2005年1月31日、元患者側の主張を全面的に認め、国に5000万円の損害賠償を命ずる判決を下した。 前項で述べたとおり、療養所は入所者のみならず退所者にとっても最も安心してかかれる医療機関であること、しかも療養所本来の役割であるハンセン病医療に関する医療過誤であること、多磨全生園が国立療養所中最大規模でセンター的な位置づけを持つ療養所であることを考えれば、まことに救いようのない状況に思える。 判決は、担当医師らの診療行為を、「末梢神経症状への対症療法に終始し、原因疾患に対する一切の治療を怠ったものであり、およそ合理性がない」と非難する一方、そのような合理性のない診療が行われるに至った原因を、「らい予防法が国立療養所に日本におけるハンセン病の診療活動をほぼ独占させたことにより、日本におけるハンセン病医学の研究及び診療が、外部からの批判にさらされる機会や、新しい情報を積極的に取り入れる機会の乏しい閉鎖的な環境の下にとどまった結果、その歩みを停滞させてしまったという法制度に由来する構造的な問題がその背後に横たわっていたものと考えられる」と指摘する。 この訴訟で問題にされたのは1981年頃から1992年頃までの期間におけるハンセン病医療であるが、ハンセン病問題に関する検証会議の被害実態調査報告書では、ハンセン病以外の一般医療でも様々な過誤あるいは事故があったことが語られている。当時、療養所入所者に対する医療は基本的に全て療養所でまかなわれていた。外の社会の一般的な医療を知らない入所者にとって、療養所の医療を批判する視点を持つことはできない。そのような閉鎖的な環境が医療水準を低下させ、医療過誤の原因となることは、全生園事件に関する東京地裁判決が正当に指摘するとおりである。 今日においては、療養所外の医療機関への委託治療が広く行われており、療養所の閉鎖性は解消されたかに見える。その一方で、侵襲性の高い治療や検査はほとんど委託治療となり療養所医療の空洞化が進んでいる。ハンセン病の後遺症や永年受けてきた差別・偏見の影響から外部の医療機関受診に抵抗感を持つ入所者は多く、療養所医療の充実を願う声は強い。 しかし、医療が高度化・専門化した今日においては、療養所内で全ての医療分野をまかなうことは不可能である。委託治療を抜きにした「療養所医療の充実」はあり得ない。 療養所医療の充実のために最も重要なのは、委託による専門的治療の必要性を的確に判断し、委託先から戻ってきた患者の経過観察を的確に行うプライマリ・ケア医の確保である。さらにリハビリテーション、ターミナル・ケア等の需要がこれに次ぐであろう。いずれにせよ、療養所入所者の疾病構造に対応し、そのニーズを充たす方向での充実を目指すべきであり、総花的な取組はなし崩し的な空洞化を招くに過ぎない。 療養所の医師と委託先医療機関が情報を共有し、それぞれの専門性を発揮することによってこそ、入所者の生命と健康は守られる。 ハンセン病隔離政策が永年継続したことの原因究明、その被害実態調査及び再発防止策の提言を厚生労働省から委託された「ハンセン病問題に関する検証会議」は2005年3月、最終報告書を発表し、患者・被験者の諸権利の法制化、政策決定過程における科学性・透明性を確保するためのシステム構築、人権擁護システムの整備などを内容とする再発防止策を提言した。また、この提言には、再発防止策を具体化するために「行動計画」を策定し、実施状況等を監視することを任務とする「ロードマップ委員会」の設置することも含まれている。 厚生労働省は、ハンセン病問題対策協議会において、検証会議の提言を尊重することを繰り返し約束しており、「ロードマップ委員会」についても平成17年度中に設置することを明言している。 検証会議の提言する再発防止策はいずれも重要であり、早急に具体化し、実現に向けての取組を始めなければならない。 【参考資料】 ・「癩予防ニ関スル件」(1907年) ・癩予防法(1931年) ・らい予防法(1953年) ・廃止法(1996年) ・熊本判決 ・熊本判決要旨 ・総理大臣談話 ・政府声明 ・ハンセン病補償法(2001年) ・補償法の各規則(退所者給与金条項) ・2001年7月22日付基本合意(司法解決についての合意) ・2001年12月25日付確認事項 ・2002年1月28日付基本合意(遺族・非入所に関する合意) ・謝罪広告 ・中学生パンフ ・検証会議最終報告書 |