ハンセン病のたたかいと勝利

(自由法曹団物語・第1次原稿)

 

   【目次】

立ち上がった13人

日本の強制隔離政策

未曾有の人権侵害

訴訟の広がり

運動の広がり

訴訟の進行

国の応訴態度

杉山判決

国の控訴断念

判決確定後の動き

残された課題

 

 

立ち上がった13人

 1998年7月31日、国立ハンセン病療養所である星塚敬愛園(鹿児島県鹿屋市)と菊池恵楓園(熊本県合志町)の入所者13人が、国を相手取り熊本地方裁判所に国家賠償請求訴訟を起こした。これが、「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟(略称「ハンセン病国賠訴訟」)の始まりだった。

 ハンセン病について強制隔離を定めた「らい予防法」はすでに1996年に廃止されていた。ハンセン病はらい菌による感染症であるが、これがうつりにくい病気であることはすでに戦前から知られていた事実であった。にもかかわらず、わが国はハンセン病についての強制隔離政策を長く続けてきた。「らい予防法」の廃止はこのことを前提にした措置であることは明らかだった。

 しかし、法廃止にあたって、国は強制隔離が間違っていたとはしなかった。当時の厚生大臣の謝罪の場面はあったが、法廃止が遅れたことだけをわびるものだった。いつまでに廃止すべきだったかは明らかにはされなかった。国が強制隔離政策をとってきたことに対する責任は何ら明確にされなかった。強制隔離を受けた者への賠償は全くなかった。

隔離の壁を越えて社会に復帰するにはすでに多くの者が高齢に達し、またハンセン病特有の後遺症をかかえていた。隔離によって家族から切り離された入所者を引き取る親族はなく、入所者等の多くには子どももいなかった。社会には、まだまだハンセン病に対する根強い偏見と差別が存在した。何らかの手厚い援助がなければ、社会復帰はおよそ望めなかった。

1998年3月、国はようやく社会復帰策を明らかにした。療養所からの退所を望む者には合計で150万円を支給すると言う(後にこれは250万円に引き上げられた)。しかしその後は何の補償もない。これで退所を決意した者はわずかだった。

入所の継続を希望する者には在園を保証するという話もあったが、療養所の統廃合を含めた療養所の将来構想の話も出てきていた。

およそ90年にわたる強制隔離により辛酸をなめさせられてきた者にとって、この「らい予防法」廃止は、何ら新しいものをもたらさなかったに等しかった。

だが、裁判を起こすことは容易ではない。何よりも入所者は国立療養所の中で国費に支えられて生活していた。国に対して裁判を起こすことができるのか。裁判をしたら園から追い出されると本気で思っていた者も多かった。そういう中で、13人が立ち上がった。孤立を恐れず、人間としての誇りをかけた提訴だった。

 

日本の強制隔離政策

 わが国で最初にハンセン病に関する対策が講じられたのは、1907年の「癩予防ニ関スル件」という法律によるものである。それ以前、わが国では放浪するハンセン病患者もあり、これらの人々を救済していたのは、主に外国人の宗教家などであった。何ら救済措置を取らない日本政府への海外からの批判も強くあった。国はこうした事情を背景に、ハンセン病を文明国にあるまじき「国辱」であると捕らえていた。1907年の法は、こうした放浪する患者を警察的に取り締まるという意味を強く持っていた。

 この法律に基づき、全国にハンセン病療養所が作られていった。

 1916年には、療養所の所長に対して懲戒検束権が与えられた。所長は裁判手続によらず自由に療養者に対する懲戒を実施できた。各療養所には監禁室が設置され、極めて恣意的な処分がなされた。

 特に、療養者たちが恐れたのは、群馬県草津町にある栗生楽泉園の「重監房」と呼ばれた拘禁施設である。設置は1939年。厳重な施錠がなされ、光も十分に差さず、冬期には零下17度にまで気温下がった。ここには、全国の療養所で「不良患者」とみなされた者が送られてきた。監禁されると十分な寝具や食料も与えられず、記録によるだけでもここに収容された92人のうち14人が監禁中または出室当日に死亡した。

 療養所は社会と完全に隔絶された治外法権の収容所となっていったのである。

 1931年には、新たに「癩予防法」が制定された。この年は日本が15年にも及ぶ戦争に足を踏み出した年であるが、「癩予防法」もまたファシズムを思想的背景にして、「民族浄化」の理念のもとにハンセン病を根絶するという目的を持っていた。この法律により、放浪する患者のみではなく、すべてのハンセン病患者が収容されることとなった。わが国のハンセン病絶対隔離政策がこの法律のもとで確立されていった。

 この絶対隔離主義を背景に、全国的には「無らい県運動」が展開された。全国で大勢の患者が駆り立てられた。国民の身近で行なわれたこうした強制収容は、否が応でも多くの国民に対し、ハンセン病が恐ろしい伝染病であるとの恐怖心を植え付けた。

 終戦後、ハンセン病療養所内の空気を一変させる重大な出来事が二つあった。一つは、ハンセン病の特効薬、プロミンに代表されるスルフォン剤の登場である。劇的に症状を改善させるこの薬は、ハンセン病を「治る病気」にした。

 もう一つは民主主義である。戦争が終わると、わが国でも民主主義の運動が広がった。それは療養所内にも及んだ。様々な改善要求が患者の側から出され、多くの患者は未来に明るい展望を見ていた。強制隔離を定めた「癩予防法」の見直しを求める声が沸き起こってきたのも当然のことだった。

 1947年、基本的人権の擁護を基調とする日本国憲法が制定された。本来であれば、このときに、人権を無視した不合理な絶対強制隔離政策は根本から見直されるべきだった。

 しかし、国の政策に変化はなかった。国は1950年ごろには、すべてのハンセン病患者を入所させる方針を打ち立て、強力な強制収容を進めた。弁護団はこれを「第二次無らい県運動」と呼んだ。これにより、わが国のハンセン病患者のほとんどが療養所に収容された。多くの療養者の願いをよそに、国はむしろ強制隔離を強化する規定を持つ新「らい予防法」を旧「癩予防法」の改正案として国会に上程した。

 1953年、多くの患者の命をかけた反対運動にもかかわらず、「癩予防法」はその政策の基調を維持したまま「らい予防法」に改正された。「らい予防法」は、民主主義を渇望し、自主的に活動を始めた患者らに対する治安維持的な意味合いも持っていた。患者らの闘争は、広く社会に知られることもなかった。

 この新法の制定にあたっては、「近き将来本法の改正を期する」とする参議院厚生委員会の付帯決議がなされた。しかし、実際に法が廃止されたのは、これから43年もの時を経た、1996年であった。

 

未曾有の人権侵害

 この90年に及ぶ強制隔離政策のもとで、ハンセン病者に対してなされた人権侵害は他に類例を見ないほどに深刻なものだった。ハンセン病者は療養所に隔離されただけではなく、種々の深刻な人権侵害を受けた。次にあげるのはその被害の一端である。

(強制作業)

 ハンセン病療養所は、「療養所」は名ばかりの強制収容所であった。医療スタッフも設備も乏しく、生活介護者もない中で、重症患者の看護や身の回りの世話は軽症の患者が担わなければならなかった。園内のあらゆる生活の整備が患者の手に委ねられた。伝染の恐れのない軽症患者の収容はまさにこうした所内の労働のためであったと言ってよい。ハンセン病の症状としての重い感覚障害を持つ患者らはこうした強制作業のために、手足に疵を作り、化膿させ、いともあっさりと「切断」を宣告されて、指・手・足を切断され、あるいはその機能を失っていった。

(断種・堕胎・嬰児殺)

 また、療養所では子どもを産み育てることも許されなかった。園内の結婚は認められていたが、多くの療養所では男性が断種をすることが結婚の条件あるいは夫婦舎への入居の条件とされた。「誤って」妊娠したりすれば堕胎が強要された。妊娠後期になっていても堕胎は敢行され、生きて産まれてきた子どもはその場で窒息させられ、あるいはそのまま放置されて殺された。こうした堕胎・断種は1948年までは全く非合法に行なわれていた。1948年には、なぜか、重要な議論もなく、優生保護法にハンセン病条項がもうけられ、その後は「合法」の衣をまとって行なわれた。

 国のとった「らい根絶策」はまさに病気ではなく病者の根絶策であり、子孫を残すこと自体が許されなかった。いのちの未来が無残に奪われていった。

(偏見・差別)

 国がハンセン病を強制隔離の必要な恐ろしい伝染病であるとして施策を推し進めたことは、ハンセン病に対する正しい知識を覆い隠してしまい、国民に強い偏見を植え付けた。家族の一人がハンセン病者の烙印を押されて療養所に収容されると、家は派手な消毒を受け、家族は村八分にあい、親族の結婚話が破談にされるなどの差別を受けた。家族の生活を守ろうと、病者と絶縁する家族も多かった。

 よしんば、快復して療養所を出て社会生活を試みても、この偏見・差別を恐れて、時には家族にさえも自己の病歴をひた隠しにして、ひっそりと社会で生きていくよりほかない地位に置かれた。

 

訴訟の広がり

(弁護団)

 長い間、法律家はこの問題を放置してきた。「らい予防法」廃止の間際、ようやく九州弁護士連合会は、星塚敬愛園の入所者であった島比呂志氏からの手紙をきっかけにこの問題に取り組み始めた。

 裁判を起こすことになったとき、弁護団は全九州の弁護士に代理人になることを呼びかけた。これに応じた弁護士は145人にのぼった。

 この問題に向き合った時、弁護団の弁護士は一様に被害の深刻さに、驚きを禁じ得なかった。それは、「何としてもこの裁判に勝つ」という決意に直結していった。

 弁護団は、提訴にあたって、二つのことを宣言した。

一つは、この裁判を3年で解決するということ。原告はいずれも高齢に達していた。全国の療養所の平均年齢は70歳を超えていた。時間がなかった。

 もう一つは、原告を全国で500人にすること。当時全国の一三の国立ハンセン病療養所の療養者数は概算で5000人と言われていた。この裁判は単に裁判に勝って賠償金を獲得するだけではなく、強制隔離の被害を受けた者の可及的な人権回復と今後の生活保障が問題となっていた。これを実現するためには、広範な国民的支持が必要であるし、そのための運動主体の確立は必須のことだった。少なくとも療養者の一割の原告が必要だと弁護団は考えた。

(原告団)

 当初「500人の原告団」という目標は困難なものに思われた。提訴を歓迎しない療養所の入所者自治会もあり、園内の雰囲気は、裁判に冷ややかであるように見えた。園の周りの者にさえ提訴を内緒にする例が数多くあった。

入所者らが提訴をためらうのにはいくつも理由があった。園を追い出されないか。名前が知れて家族に迷惑をかけることにならないか。世話になっている国に対して裁判はできない。請求額である1億円にこだわる者もいた。

原告団、弁護団は、この裁判は、強制隔離政策を行なってきた国の責任を問うものであること、長い隔離の歴史に苦しめられたハンセン病元患者らの名誉を回復し人間として復権するための裁判であること、HIV訴訟で確立された匿名訴訟の方式を取っていて、名前が外に出ることはないこと、在園を保障させ、今後の生活を権利として確保するためにもこの裁判が重要であること、などを各園での説明会で繰り返し繰り返し話をした。こうして提訴を重ねていくごとに着実に原告は増えていった。

 原告らが在園する療養所も、星塚、菊池の2園から、奄美和光園(鹿児島県名瀬市)、宮古南静園(沖縄県平良市)、長島愛生園(岡山県邑久町)へと広がっていった。園を退所して社会で生活している退所者も原告に加わった。1999年3月には、大島青松園(香川県庵治町)の大量提訴があり、邑久光明園(岡山県邑久町)からも原告が出た。熊本地裁の訴訟は西日本一帯の国立療養所をカバーする大型訴訟になっていった。

(東京へ、岡山へ)

 他方、熊本地裁に提訴した原告らは、他の地域の療養所入所らに訴訟を起こすことを呼びかけていた。弁護団も、他の地域の弁護士に働きかけを行なった。

 こうして、1999年3月26日に東京で、同年9月22日には岡山で、同種の訴訟が提起された。三つの訴訟の弁護団は、互いに連絡を取り合い、同年秋には全国ハンセン病訴訟弁護団連絡会を立ち上げた。三つの訴訟は、それぞれがカバーする地域に従って、西日本訴訟、東日本訴訟、瀬戸内訴訟と名づけられた。西日本訴訟は瀬戸内3園といまだ提訴者のなかった沖縄愛楽園を含む西日本8園をカバーした。東日本訴訟は、関東、東北の五園をカバーした。瀬戸内訴訟は西日本訴訟と共存しながら瀬戸内3園をカバーした。

(沖縄からの大量提訴)

 西日本訴訟が大型訴訟としてさらに飛躍的に発展したのは、1999年12月に沖縄愛楽園(沖縄県名護市)の入所者ら、沖縄の退所者らの爆発的な大量提訴が始まってからである。

 沖縄のハンセン病療養所は、強制隔離に苦しめられただけではなく、不幸にも戦火に見舞われ、ハンセン病元患者らは二重の苦しみを受けていた。沖縄は、全国的には発病率の高い場所でもあり、多くの人が強制隔離の被害を受け、差別や偏見に苦しめられていた。この地域に裁判の情報が広がるにつれ、その後次々に大量の提訴者が現れた。

(熊本判決前までの全国の原告数)

 こうして、訴訟の輪は確実に広がっていき、2000年5月11日の熊本地裁での判決前までには、西日本訴訟589人、東日本訴訟126人、瀬戸内訴訟64人、全国で合計779人の大原告団が出来上がっていた。目標の500人をすでに凌駕していた。

 

運動の広がり

 最初の提訴の時から、運動をどう作っていくかは、重要な課題となっていた。

 熊本には、水俣病訴訟やHIV訴訟の支援などの大衆的裁判闘争の経験があった。水俣病では、労働組合や各種団体のつながりを通じて支援を広げていった。HIV訴訟ではむしろそうした団体に頼らない個々人の支援の輪が広がっていった。

 ハンセン病問題に関しては、一方で多くの人がいまだ偏見を持ち、正しい問題情報を有していないという現状があり、他方で早くからこの問題に関心を持ち取り組んできた人たちもあった。支援団体は、原告団や弁護団が肩入れをして、一つの支援団体を作っていくという方式ではなく、各地に様々な色合いの様々な支援組織が立ち上がっていき、これを大きく緩やかにネットワークしていくという方式が取られた。この中に、従前の水俣病の支援のルートも含まれていった。これは水俣病訴訟での支援の方式とHIV訴訟での支援の方式の中間に位置しつつ、そのどちらをも包含していく新しい方式だった。

 支援の会は、まず最初に熊本、鹿児島、大分などの地域に次々に立ち上げられた。宗教団体などの支援の輪もこれに加わっていった。1999年6月には、これらをネットワークするものとしてハンセン病訴訟支援全国連絡会議が設立された。

 以後数々の集会、学習会がこれら各地の支援の会によって開催されていった。

 そして、2000年12月には結審前1000人集会、2001年5月10日には判決前夜2000人集会を、大きく成功させるまでになった。

 各地の支援団体は、ハンセン病問題の解決を国に要請する自治体決議要請行動に取り組んだ。熊本県ではすべての自治体に呼びかけを行なった。これに応えて多くの自治体が要請決議をあげていった。

 また、支援団体が全国で取り組んだ、熊本地裁結審後の裁判所に対する公正判決要請署名は、判決前までに13万筆を突破した。

 支援団体の存在は、原告らを大きく励ました。これまで社会から疎外されて生きてきた原告らにとって、一般の多くの市民が自分たちの運動を支援し、共に泣き笑いしてくれるというのは新鮮な発見だった。原告らは一つ一つの行動に参加し、多くの支援の人たちと出会うことによって、自分たちの要求の正しさに対する確信を深めていった。

 さらに、入所者の組織である全療協(全国ハンセン病療養所入所者協議会)も、2001年春までにこの裁判に積極的に取り組む方針を確認した。

 

訴訟の進行

 「3年で解決する」という目標を定めた弁護団は、これを可能にする訴訟日程を設定し、これに従って訴訟行為を進めていった。

 1998年7月31日の提訴以来、2001年1月12日に結審するまでのおよそ2年半の間に、15回の弁論と、1回の検証と、6回の出張尋問を終えた。

調べた原告側証人は、責任論の専門家証人3人、損害論の専門家証人1人計4人。強制隔離政策を明確に違法と断じる専門家の証言はこの訴訟の大きな流れを決した。

原告本人尋問を行なった原告は24人。8回に及ぶ原告本人尋問の内訳は、法廷で3回、法廷外で1回、原告の自宅で1回、大島青松園、長島愛生園、星塚敬愛園、奄美和光園の各園でそれぞれ1回ずつ。そこで語られた強制隔離の被害の実態は、弁護団の当初抱いていたイメージをはるかに超えるすさまじい人権侵害の現実だった。

 裁判官が直接療養所に出向き、隔離の現場で被害者の話を聞いたことの成果は大きかった。特に、最初の園での本人尋問となった大島青松園は、高松から厚生省の船で小一時間揺られていく小さな島に存在する。この尋問に杉山裁判長は自ら出向いた。小一時間の船の行程はまさに隔離の行程だった。療養所のほかには取り立てて何もない小さな島はまさに隔離の島だった。この小さな島は、裁判長に強制隔離の強烈なイメージを植え付けた。これは、その後の訴訟進行に大きな影響をもたらした。

 被告国は、当初、被告側で調べる証人はないと言っていたにもかかわらず、2000年7月になって急に証人を申請すると言い始めた。証人の特定は9月まで引き伸ばされた。すでに7月の時点では、10月までに証拠調べを終了し、11月と12月に一度ずつ弁論が予定されていた。弁護団は11月10日までに最終準備書面を提出し、12月8日には結審ということで準備を進めていた。被告の強引な割り込みで、この予定が大幅にずれ込むことが予想された。

しかし、裁判所は、国の証人尋問を許容しつつ、10月と11月に被告側の3人の証人尋問を押し込むことで12月結審の可能性を残した。11月10日の尋問は朝9時30分に開始され、終了したのは午後7時15分だった。その後進行協議も行なわれたため、最終終了は午後8時を回っていた。裁判所はすでにこの時、原告らには早急な問題解決と人権回復が必要であることを十分に理解していた。さらに、来年3月に転出が予想された裁判長は、判決を自らが書くことを決意していたのだ。

ただ、被告が東日本で行う被告側証人尋問(12月12日実施)の調書をも証拠にしたいと申し出たことで、結審は翌年1月12日となった。

弁護団は12月8日を事実上の結審とし、この日大部の最終準備書面を提出し、弁論を展開した。そして1月12日に補充の書面を提出し、補充の弁論を行って、ようやく結審となった。

 1月12日に結審したのは、1次から4次提訴までの127人だった。1次提訴から2年5ヶ月余。異例のスピード結審となった。

 

国の応訴態度

 弁護団が展開した主張の要旨は、国が行なってきたハンセン病に対する強制隔離政策は1907年の政策の当初から必要ないものであり、1947年の日本国憲法の施行により違憲・違法なものとなり、この強制隔離政策により、ハンセン病元患者らは、深刻な全人格的な人権侵害を受け続け、この不法行為は「らい予防法」が廃止された1996年まで続いていた、というものである。

 これに対して国は、まず隔離は1981年まで必要だったと主張した。1981年というのは、ハンセン病に対する「多剤併用療法」と呼ばれる治療法が確立した時期を言う。確かにハンセン病治療に関する医学的知見は戦後大きく進歩した。「多剤併用療法」によれば後遺症も残さず、再発の恐れもなく、ハンセン病を完治させる。しかし、プロミンに代表されるスルフォン剤単剤でも完治する人は大勢いた。スルフォン剤の投与で感染力は決定的に力を失った。社会状況の変化を背景に新たな患者の発生はごくわずかな人数となってきていた。国の主張は、例外的な難治性の症例までをも完治させる治療法が確立されなければ、伝染性があろうがなかろうが隔離政策は解除されないというに等しかった。国の主張の中には、隔離によって奪われる人権への配慮はみじんもなかった。

 また、国はこの事件に20年間の除斥期間の適用を主張した。提訴の時から遡って20年を経過した事項については損害賠償の請求を許さないという民法の規定を本件にも適用せよというのである。国は、国中のほとんどの患者を隔離し、自分の手中に管理しながら、これらの人が裁判を起こせなかった不利益をすべてこれらの人の負担に押し付けようとしていた。そして証拠調の範囲を過去20年間に限定させることで、強制隔離政策の事実そのものが明らかになることをも妨害しようとした。しかし、原告の主張は、国の絶対隔離政策による国の行為は1996年まで続く一体的な行為であるというものである。行為が完了するのは「らい予防法」が廃止された1996年である。行為が完了しない以上、除斥期間の適用はない。

 さらに、国はこれらの主張に付随して、人間として容認できない数々の主張を行なった。

 「所内作業は強制ではなく、患者の慰安と健康増進を目的としたものだった。」

あるいは、「断種・堕胎は同意に基づくものだった。国立病院で子どもを産み育てることができないことは当然である。子どもが産みたければ園を出て行けばよかったのだ。」

「ハンセン病に対する差別・偏見は古来から存在するもので国の政策とは無関係である。」

 これらの主張は当然のことながら多くの患者・元患者の怒りを呼んだ。原告の中には、「らい予防法」廃止を見て、これからはのんびり余生を送ろうと思っていたのに、この主張を見て黙っていられなくなった、と提訴を決意した者もいた。

 この上さらに、国側の証人尋問において、証人となったある厚生官僚は、「原告の請求が認められるようであれば、療養所における処遇を見直さなければならない」と証言した。これは、裁判を起こせば園を追い出されるのではないかとの心配を抱いてきた原告らに対する恫喝であった。同じく国側の証人となったある療養所所長も同様の考えを示した。

 これに対して裁判長は、この療養所所長に対し次のような尋問を展開した。

 裁判長 「裁判を受ける権利というのはわかりますか?」

 証人 「はい、わかります。」

 裁判長 「裁判を受ける権利というのは、裁判をしたその結果により何ら不利益を受けないということを言うのではありませんか?」

 証人 「そうです。しかし、集団の中で生活しているので自治会の対応があったりして現実としてはいろんなことが起こり得る。」

 裁判長 「裁判の結果によって処遇の枠組みを不利益にしたりすることに賛成ですか?」

 証人 「賛成ではありません。」

 裁判長 「もしそういう(不利益を課すような)動きがあったらあなたは反対するということですか?」

 証人 「そうです。」

 原告本人尋問においては、国側の代理人の尋問は露骨だった。

 「あなたは自分で生活費を出していますか?」

 「医療費を出していますか?」

 「1億円の請求の明細は何ですか?」

 「国に面倒みてもらって生活しているくせにこの上国に何を要求するのか」と言わんばかりのこれらの質問に、原告の誇りは傷つけられた。

国は判決後、強制隔離政策については謝罪を行なったが、こうした原告の誇りを傷つけるような応訴態度についてはいまだ一片の謝罪もない。

 

杉山判決

 2001年5月11日の杉山判決は、ほぼ全面的に原告側の主張を認めたものとなった。弁護団は裁判長に敬意を表し、この判決を「杉山判決」と呼んだ。

 判決は、隔離の必要性については、1953年の「らい予防法」は、「制定当時から既に、ハンセン病予防上の必要を超えて過度な人権の制限を課すものであり、公共の福祉による合理的な制限を逸脱していたというべきであ」り、遅くとも1960年には「その合理性を支える根拠を全く欠く状況に至っており、その違憲性は明白となっていた」。さらに、これを1965年に至っても放置し続けた国会議員の行為も違法であり、「国会議員の過失も優にこれを認めることができる」と判示した。除斥期間の適用も認めなかった。

 強制作業についても事実を認めた。

断種・堕胎については、「被告の右主張は、入所者らの置かれた状況や優生政策による苦痛を全く理解しないものといわざるを得ず、極めて遺憾である」とまで言い切った。判決の中で、一方当事者の主張を単に斥けるのではなく、それを主張すること自体「遺憾である」と批判することは異例のことである。

差別・偏見についても、これは国の政策が新たに生み出したもので、それまでに存在した差別・偏見とは質を異にすると指摘し、政策はさらにこれを助長、維持したとした。

また、この判決によって処遇の見直しは行なわれるべきではないということをあえて述べている。

 さらに杉山判決は、原告らの被害を、「人として当然に持っているはずの人生のありとあらゆる発展可能性が大きく損なわれ」た人格そのものに対する被害であると評価した。

 ある原告は、杉山判決を「愛の判決」と呼んだ。ある原告は、「ようやく人間として認められた」と顔をあげた。

 

国の控訴断念

 5月23日、小泉首相は熊本の判決に対する控訴断念を表明した。5月25日の控訴期限の経過によって歴史的判決は確定した。

 裁判史上稀有とも思えるこのような勝利を勝ち得た力はどこにあったのか。

幸運もあった。誕生したばかりの小泉政権は自民党内に強力な基盤を持たない一方で、異常とも思える高支持率に支えられており、国民感情を無視できないといった政治状況があった。しかし幸運だけでは勝利は呼べない。

政治問題に持ち込まれるという意識を早くから持っていた弁護団は、判決の前から国会ローラーや政党ヒアリングを行い、あるいは個別に国会議員と接触を持ち、この問題をアピールしていた。4月には、国会内で超党派の議員懇談会が誕生した。判決は明確に国会の責任を認めており、これらの議員の動きが重要性をもち始めていた。

 判決直後の厚生労働大臣との面談では、厚労大臣が控訴反対に動く感触をつかめた。

原告団・弁護団は、判決直後、こうした有利な条件を正確に見極め、控訴断念を求める運動を展開することを方針として確定し、次のような行動を展開した。

@ まず全国に国に対する控訴断念要請を呼びかけた。これに応えた手紙、FAX、Eメールなどが、続々と首相官邸や各大臣宛てに届いた。ある原告は不自由な手で渾身の思いを込めて内閣総理大臣宛てに手紙を書いた。

A 首相との面談を申し入れた。5月21日からは首相官邸前で面談申入れの行動を展開した。これらの行動は、入所者団体である全療協との共同行動としても組まれた。全国から多くの原告と支援者が首相官邸前に集まった。原告の中には生まれて初めて飛行機に乗って東京に出てきた人もあった。みんなここが正念場と感じていた。

B さらなる国会ローラーも行なった。必要があれば個別の議員に何度も会った。政策決定に影響力を持ちそうな議員には積極的に働きかけた。

C 丁度国会は会期中であり、議員も積極的にこの問題を国会での質問で取り上げた。原告らはこれを傍聴席で見守った。

D マスコミにも積極的に働きかけた。マスコミはこれらの行動を連日積極的に取り上げた。大半のマスコミは国は控訴を断念すべきだといった論調で国民に対し情報を発信した。圧倒的に広範な国民は、この報道に触れ、原告を支持した。

E 国への大きなとどめとなったのは、5月21日の全国一斉大量提訴だった。東京での動きと連動して、弁護団は全国各園に入った。勝訴判決に確信を深めた多くの入所者・退所者が、控訴断念のための決起の呼びかけに応えて、続々と提訴を決意した。まだ未確定の判決を守ろうと多くの人が立ち上がったのだ。5月21日の提訴は、全国で923人の提訴となり、このニュースは各紙一面で報道された。原告の数はそれまでの倍以上となった。被害者自らのこうした主体的な決起は、さらに多くの人々の心を動かした。

 この問題を無視できなくなった小泉首相は、5月23日、ついに原告らと面談し、その直後控訴断念を表明した。

 原告団・弁護団は判決後2週間という短い期間に、適切な時期に適切な行動を組み、国を控訴断念へと追い込んだ。国民の圧倒的な支援なしにはこの結果は勝ち取れなかっただろう。これは、まさに原告団の勇気あるたたかいと、これを支えた広範な国民世論の圧倒的勝利だった。

 

判決確定後の動き

 原告団・弁護団は、訴訟の早い時期から、この問題の全面解決の四つの柱を設定していた。@謝罪、A賠償、B恒久対策、C真相究明である。

 判決確定後の動きは、大きく分けて、謝罪・賠償問題をめぐる司法解決と、恒久対策・真相究明をめぐる厚労省交渉の2本立てとなった。だが、この2本は密接に関連し絡み合っていた。

 国は控訴断念後、賠償問題の解決のために、ただちにハンセン病補償法の策定に取り掛かった。この法律は6月15日に制定され6月22日施行となった。これは、国の隔離政策のすべての被害者に補償を行なうものとするもので、その意味では高く評価できるが、他方その狙いは、原告団の運動に対する牽制でもあった。国は、補償法により、残っているすべての裁判が取り下げられることを企図していた。しかし、全面解決要求をかかげてきた原告団が一時金の支給だけで解体するわけにはいかない。何よりも多くの原告は、補償法による「補償金」ではなく、国の責任を明確にした上での「賠償金」の支払いを求めた。そうして、この問題の解決のために、司法解決の道を選択した。

 これについては法務省との交渉を通じて内容が煮詰められ、7月16日、東京地裁が基本合意の内容を和解勧告し、翌日厚労大臣がこれの受け入れを表明し、7月19日、熊本地裁で最初の和解が成立するに至った。7月22日には、原告団と厚労大臣との間で、この基本合意が正式に調印された。以後、熊本、東京、岡山の各地裁で次々に和解が成立していった。

 基本合意は、@国は謝罪を行なうこと、A杉山判決に従った一時金支給を行うこと、B国の法的責任に基づいて恒久対策を行なうこと、という三つの柱を確認している。これにより、司法解決のルールが確定した。

 しかし、残されている問題もいくつかある。中でも重要な問題は、遺族原告と、入所経験のない原告である。7月27日、解決をしぶる国に対して、熊本地方裁判所は、いずれの原告も賠償の権利を有するとの所見を表明した。しかし9月11日国は和解拒否を表明した。ただちに原告側は判決態勢に臨み、現在訴訟活動を進行中である。

 他方、6月29日の第一回協議を皮切りに、厚労省との継続協議が7月までに3回持たれた。協議は、原告団、弁護団、全療協からなる統一交渉団として進めている。当初、国は、各政策が国の法的責任に基づいて行われるべきことについての確認をなかなか明確にしようとしなかったが、これは、前述の基本合意の中で明確に確認されることとなった。

 協議は、謝罪・名誉回復、在園保障、社会復帰・社会生活支援、真相究明の四つの作業部会に分かれて進められている。中でも、これまでの退所者の社会復帰支援策はあまりにも貧しいものであり、これでは事実上隔離が維持されるとの批判を免れなかった。この協議を通じて国がどのような社会復帰支援策を打ち出せるかが、隔離主義からの脱却の試金石となる。

 しかし、交渉団からの要求に対する国の抵抗は根強い。明らかに厚労省はここで判決に対する巻き返しを狙っている。

 現在、原告団・弁護団はハンセン病問題の全面解決をめざして、最後の壁を果敢に突き崩そうとしている。

 

残された課題

 司法解決は、多くの原告の和解成立を達成し、大きな山を越えた。しかし残された遺族原告、入所経験のない原告の賠償問題での、もう一つの山を越えなければならない。

 厚労省との協議に移っている全面解決の課題もまた、近く山場を迎えることになるだろう。

 さらに、真相究明の課題とも関連して、朝鮮や台湾の旧植民地で行なわれた隔離政策の問題がある。日本での急激な解決への動きは、韓国でも注目され、韓国でこの問題に取り組む団体との交流も始まっている。

 国を全面解決に向けて追い込んでいくたたかいはさらに引き続いており、原告団・弁護団はさらに団結を固めて困難に立ち向かっている。

 このたたかいの中心には、多くの自由法曹団員がいた。団員は、これまで自由法曹団が築き上げてきた大衆的裁判闘争の経験に多くを学びながら、さらに独自の手法を展開し、ハンセン病元患者らの人間性を取り戻そうとするたたかいの歴史的勝利に貢献した。今後残された課題についても、国民の幅広い支援に依拠しながら、全面解決に向けて歴史を切り開く運動を担っていく決意を固めている。