「らい予防法」違憲国賠西日本訴訟・この1年
弁護士 国 宗 直 子
1 はじめに
1998年7月31日に最初の提訴を行ったハンセン病訴訟(「らい予防法」違憲国賠訴訟)は、2001年1月12日に結審した。判決期日は5月11日と指定された。
今回結審したのは、1次から4次提訴までの127人。1次提訴から2年5ヶ月余のスピード結審となった。
ハンセン病は、感染力も弱く、発病もしにくい病気であることは以前から知られていた。日本では、ハンセン病を遺伝病だと思ってきた人もいると聞くが、感染・発病が家族内に限られる例が比較的多く、他には容易には感染しなかったという事実がその裏づけになっている。にもかかわらず、厳しい強制隔離政策が取られたことは、従前からのハンセン病患者に対する差別の存在を抜きには考えられない。そして、国の強制隔離政策は、この差別を強固なものとしていった。
戦前では、ファシズムの嵐の中、この強制隔離政策が「民族浄化」として位置付けられた。熊本県の本妙寺の刈り込みに代表される患者の強制収容は、国民の中にハンセン病に対する強い恐怖心を植え付けた。
基本的人権を高らかに歌い上げた日本国憲法が制定されたとき、本来であれば、人権侵害性の強い当時の「癩予防法」は見直した上廃止されるべきものであった。すでに、アメリカではプロミンという特効薬が開発され、戦後すぐから日本でも使用され始めた。ハンセン病は感染(うつ)らないだけでなく、治る病気にもなっていた。しかし、国は何らこれを見直さず、逆に、強制隔離は必要という立場から、1953年、多くのハンセン病患者の身を挺しての反対闘争を押し切って従前の強制隔離政策をそのまま引き継ぎ、「らい予防法」を制定した。強制収容は戦後も引き続き行われていた。
日本の強制隔離政策は、すべてのハンセン病患者を隔離する絶対隔離政策であった。感染のおそれのないものも、あるものも、区別なく収容された。
また、日本の強制隔離政策は、患者を隔離し、死に絶えるのを待つといった終生隔離政策でもあった。このため、ハンセン病療養所は「療養所」とは名ばかりのお粗末な医療しかなく、職員も不十分な中、患者が患者を看護する、施設内の労働を担うといった強制作業が課され、子孫を根絶やしにするための断種や堕胎も平然と行われた。
この信じられないような人権侵害の法律「らい予防法」が廃止されたのは、実に戦後50年以上も経た、1996年4月1日であった。
しかし、今なお、すでにハンセン病の治癒した方々が、長い強制隔離政策のために、現在も療養所を離れることができず、ここで暮らしておられる。その数は、全国13の国立療養所で約4500名と言われている。また、後遺症が軽く、運良く療養所を退所した方々も、社会での偏見・差別のため、ハンセン病療養所にいたという過去の経歴をひた隠しに隠し、社会の影にひっそりを息を詰めるようにして生活されている。
ハンセン病国賠訴訟は、率直にこの「らい予防法」の違憲性を問い、この法律のもとで被害を受けた人々の権利の回復をめざすものである。
従前、人としての正当な扱いを受けてこなかった原告らにとっては、これは人間回復のための裁判でもある。
2 裁判の大きな広がり
国立の療養所の中に暮らしながら、国を相手取って裁判をするということは容易なことではない。さらに、戦後の衛生状況の改善で新患者発生数が激減しており、今療養所に折られる方々は極めて高齢である。療養所の平均年齢はすでに70才を大きく超えている。しかも、これらの方の多くは、ハンセン病の後遺症のために、重度の身体障害者である。こうした方々が、裁判を決意するには、多大なエネルギーを必要とする。
1998年に最初に熊本地裁に提訴したとき、原告はわずか13名だった。弁護団は原告の高齢であることも考え、「3年以内に解決を」と考えていたが、国を動かすにはこれはあまりに小さな集団だった。私たちは、当初療養所の入所者数の1割以上の原告が必要だと考え、全国で500名の原告を獲得することを目標にした。それはとても困難な目標に思えた。
ところが、提訴を重ねていくたびに、原告は私たちの予想を超えて次々と増えていった。原告の最高齢は90歳を超えている。この訴訟は、強制隔離政策により、全人生を破壊された人々の最後の怒りの叫びである。
翌1999年には、東京と岡山でも裁判が起こされた。私たちは、熊本での訴訟を西日本訴訟、東京を東日本訴訟、岡山を瀬戸内訴訟と呼んでいる。全国で提訴が可能となったことで、原告拡大は一層進んだ。目標の500には2年足らずで到達してしまった。
500名に到達した時点で私たちは、新たな目標を1000名とした。
私たちは、解決の力を着実につけてきている。
3月5日現在、各訴訟の原告数は次のとおりである。
西日本訴訟 508名
東日本訴訟 126名
瀬戸内訴訟 36名
合 計 670人
西日本訴訟では、さらに3月9日に第13次提訴を行うことにしており、これにより、全国の原告数が700名を超えることはほぼ確実である。
(※ 3月9日の西日本での提訴で全国の原告数は707人となった)
3 運動の広がり
あまりに長い間当然のごとく隔離政策が行われてきたために、多くの国民はこれを既成事実として受け止め、被害の実態について知らない者も多いと思われる。そうした中で、各地で原告らを支援する動きが起きている。
九州では、この問題の解決を国に要請する自治体決議も次々にあげられている。熊本での裁判の結審前後に全国で集められている公正判決を求める署名は、すでに11万人分が裁判所に届けられた。しかも、この署名用紙は、必ずしも熊本の支援団体が作成したものではなく、各地で工夫して作られた様々な書式の署名用紙である。運動の広がり方が、既成の団体を通じた上位下達のものではないことがよくわかる。
熊本では、昨年12月8日、結審を前にした1000人集会を開催した。地元熊本のほかにも大分や鹿児島から多くの支援の人が詰めかけ、この集会は成功した。判決前集会には2000人を集めようと、今各地の支援が懸命に取り組んでいる。
4 この1年の裁判の進行
(2000年)
1月28日 第8回弁論 犀川一夫主尋問
3月 3日 第9回弁論 犀川一夫反対尋問
3月14日 原告本人出張尋問(原告番号6番)
5月11日 第10回弁論 青木美憲証人尋問・原告本人尋問
6月15〜16日 大島青松園(香川県)出張尋問
7月10〜11日 長島愛生園(岡山県)出張尋問
8月 8〜9日 星塚敬愛園(鹿児島県)出張尋問
9月 4〜5日 宮古南静園・退所者原告本人尋問期日外尋問(熊本地裁)
9月22日 第11回弁論 菊池恵楓園原告本人尋問
10月 5〜6日 奄美和光園(鹿児島県)出張尋問
10月20日 第12回弁論 被告側証人3人主尋問
11月10日 第13回弁論 被告側証人3人反対尋問
12月 8日 第14回弁論 双方最終準備書面提出(最終弁論)
(2001年)
1月12日 第15回弁論 結審(4次提訴までの127人)
特徴的なのは、昨年1年間を通じて極めて密に証拠調べが行われたことである。原告らが高齢であることを考慮し、早期の結審をめざしていた弁護団の要請に裁判所はよく応えてくれた。
被告国は、当初、被告側で調べる証人はないと言っていたにもかかわらず、7月になって急に証人を申請すると言い始めた。証人の特定は9月まで引き伸ばされた。すでに7月の時点では、10月までに証拠調べを終了し、11月と12月に1度ずつ弁論が予定されていた。私たちは11月10日までに最終準備書面を提出し、12月8日には結審ということで準備を進めていた。被告の強引な割り込みで、この予定が大幅にずれ込むことが予想された。しかし、裁判所は、10月と11月に被告側の3人の証人尋問を押し込むことで12月結審の可能性を残してくれた。ただ、被告が東日本で行う被告側証人尋問(12月12日実施)の調書をも証拠にしたいと申し出たことで、結審は1月12日となった。
私たちは、12月8日を実質的な結審とし、この日大部の最終準備書面を提出し、弁論を展開した。そして1月12日に補充の書面を提出し、補充の弁論を行って、ようやく結審となった。
この1年、西日本訴訟弁護団は、休む間もなく走り続けてきたという感じがする。ひとつの尋問期日が終わると、すでに次の尋問の準備が始まっており、さらにもうひとつ先の尋問の準備を始める、といった具合だ。しかし、この困難は裁判所とて同じであったろう。裁判所は積極的にこのテンポで進めていただいた。
次は5月11日、判決である。終始積極的にこの裁判を進めていただいた熊本地裁杉山コートに、90年に及ぶわが国未曾有の人権侵害であるこの事件への、正当な判断をくだしていただきたい。
5 これから
5月11日に判決が出されたら、私たちは、この問題についての解決をただちに国に迫っていこうと考えている。
一昨年から、私たちは「全面解決要求骨子」を発表し、裁判でめざしている解決はこれだと言ってきた。その柱は四つある。
1 責任の明確化と謝罪
2 名誉回復措置と損害賠償
3 恒久対策
4 真相究明と再発の防止
1及び2、さらに4の一部は現在進行している裁判の中でも実現が試みられている。しかし、4は今後にも課題を残さざるを得ないし、3に至っては、訴訟の結論だけでは実現の困難な今後の医療保障や生活保障の内容を含んでいる。そうなると、これは国の決断による制度的な手当が必要となる。
これまで、国の強制隔離政策に苦しめられてきた人たちに、せめてこれからは平穏な心安らぐ毎日を送っていただきたいのだ。
また、第2陣、第3陣と続けて判決をとっていくような時間的余裕はない。高齢者には1日1日が貴重なのだ。
このためには、何としても5月11日の判決は、全面解決に役立つ判決でなければならない。そして、判決後私たちがどのような運動を展開するかが、最後の勝負を決していく。
療養所の入所者の方々は、「らい予防法」の下におかれながらも、戦後待遇改善を求めて厚生省とのいくつものたたかいを乗り越えてこられた。私たちは、このたたかいに学びつつ、さらに公害弁連が数々の公害・薬害訴訟で培ってきた経験に依拠しながら、国の責任を追及するこのたたかいをたたかい抜いていこうと思っている。