ハンセン病西日本訴訟
弁論終結と今後の課題
弁護士 国宗直子
1998年7月31日に最初の提訴を行ったハンセン病訴訟(「らい予防法」違憲国賠訴訟)は、この1月12日に結審した。
今回結審したのは、1次から4次提訴までの127人。1次提訴から2年5ヶ月余のスピード結審となった。
この間、15回の弁論と、1回の検証と、8回の出張尋問を終えた。
特に昨年は、原告本人尋問が、法廷で3回、法廷外で2回、原告の自宅で1回、そして西日本の各地の4つの園(大島青松園、長島愛生園、星塚敬愛園、奄美和光園)でそれぞれ2日ずつをかけて行われた。さらに結審間際になって申請された被告国側の証人尋問も行われ、9月、10月には、1月に証人尋問期日が2度も入った。
これらの日程は弁護団にとっても容易ではなかったが、何よりも熊本地裁が大きな負担を負いながら、早期解決の原告側からの要請に応えて、これらを消化していったことは注目に値する。
最終弁論は事実上結審の結審となった12月8日に行ったが、その前夜、熊本市内では結審前1000人集会を大きく成功させていた。
ハンセン病に対する絶対隔離政策は、感染力・発病力の弱いハンセン病を、重大な伝染病のように扱い、患者に対して無用な強制隔離を行ってきたものであり、一たび療養所に収容されると、よほど軽症でありかつ外見から後遺症がわからないような場合でなければ、療養所を出て行くことはできまなかった。
特に、注目しなければならないのは、この絶対隔離政策が、基本的人権の擁護を高らかにうたった日本国憲法施行後も、何ら見直されることとなく1996年まで続けられていたことである。
ハンセン病患者に対する差別の歴史は古いが、国がこの病気を隔離しなければならない「恐い病気」として喧伝したことが、この差別を一層強めることになった。
このため迫害は家族にも及び、運よく療養所を出られても病歴をひたすら隠して、世間を恐れながら生きることが余儀なくされた。
療養所の中では、貧困な予算を補うために強制作業が課され、断種・堕胎までが強行された。強固な差別・偏見のため多くの入所者が家族とも断絶されてしまった。
現在療養所の入所者の平均年齢は70歳をはるかに超えた。この中には、60年以上の長きにわたって、療養所暮らしを余儀なくされている方も数多くおられる。4年前、強制隔離政策の根幹であった「らい予防法」は廃止されたが、すでに高齢にある入所者の方々の社会復帰は事実上不可能である。
日本国憲法下で、直接国の政策によって、これだけ長期にわたり人権侵害が行われ、放置され続けたのは、他に類例がない。
ハンセン病西日本訴訟は、こうした国の責任を明らかにするために3人の専門家証人の尋問を行い、国の責任を矮小化しようとする国の主張を当初から圧倒してきた。
国はこの裁判で卑劣にも除斥期間の主張を行っている。自らが被害者を閉じ込め、その人生のすべてを封じ込めてきながら、「権利行使をしなかった」と言って原告らの主張を退けようというのである。このような国の主張を断じて許してはならないし、また司法がこれに追随することを許してはならないと思う。
判決期日は、今年の5月11日午前10時に指定された。
現在熊本地裁で進めている裁判は、個々人への賠償を求めるものだが、原告らの要求はこれに留まらない。すでに高齢でかつ後遺症を抱えているハンセン病療養所の入所者の生活及び医療は、制度として明確に保障されたものではない。しかも多くの入所者は、政策によって子どもを持つことを許されず、家族とも絶縁状態におかれているために、頼るべき家族のない状況にある。こうした入所者の今後の生活や医療の保障、退所を希望する者の退所後の生活の支援等、新たな枠組みによる制度的な保障が何よりも重要である。
これらのことは、国の長年の政策が誤っており、その誤りを正すために取られる特別の政策として行われなければならない。
現在、原告団及び弁護団は、こうした入所者に共通する要求を実現し、この問題についての全面解決を図るために、春に出される熊本地裁の勝利判決をてこに、全国民的な運動を展開し、国に解決を迫っていくことを当面の重要な課題としている。
これまでに、熊本、東京、岡山の三つの裁判所に、596名にのぼる多数の原告が提訴している。提訴は今後も引き続く。これは、人生を失わされた人たちの、人としての正当な叫びである。施行から半世紀を経た日本国憲法の真価が、21世紀に問われようとしているのである。