旅行記 「ラトヴィア歌と踊りの祭典」


 
 

                    山 本 徳 行

                    (社)全日本船舶職員協会理事
                    スウェーデン王国名誉領事


 九州地方の梅雨明けが報じられた7月8日早朝、 ラトヴィアの首都リガで開催される 「歌と踊りの祭典」 に参加する為、 福岡空港から成田へ向かった。 成田からはヘルシンキ経由でフィンランド航空でリガに行く行程であった。 今回は日本・ラトヴィア音楽協会の4週年を記念しての行事で、 メンバーは早稲田大学グリー・クラブ OB とご夫人が主体、 参加者は総勢43名の団体旅行であった。 福岡空港からは羽田、 名古屋、 成田への各航空会社による同時間の出発便が多く、 搭乗機は先発機の発進を滑走路付近で待機したため出発が20分ほど遅れた。 飛行中、 成田空港への延着が放送されたので国際線への乗り継ぎ時間が気になった。 到着後、 指定の集合場所に足早に赴いたが、 グループの姿は見えなかった。 早々に搭乗手続きを済まし、 探し当てた控え室に辿りついたが、 結団式には間に合わなかった。 しかし、 グループと合流出来て安堵した。

 私は北欧を何度か訪問したが、 フィンランド航空を利用するのは始めてで、 機内サービスに興味があった。 満席に近い機内は殆どが日本人客で、 日本人のキャビン・アテンダントの案内で4人掛けの中央座席の指定席に落ち着いた。 搭乗中、 見覚えのある美人の若い女性が目に付いた。 彼女は家内の隣席に座ったが、 名前を思い出せなくて、 他人の空似ではと声を掛けなかった。 私の隣席はヨーロッパ陸上選手権に参加する若いアスリートだった。 彼は好感の持てる青年で、 長旅の機中、 話しが弾み退屈しなかった。 彼はサラリーマンだが、 会社の特別の配慮で日々の練習や遠征に出かける幸せを感謝していた。 私は惜別の情を禁じ得なかったが、 感謝の気持ちを好成績で応えるよう激励し、 彼の選手権での活躍を期待しヘルシンキ空港で別れた。

 フィンランド航空の機内食は他社に比べ少し見劣りし食欲をそそるものはなく、 私はビールとワインを追加注文し、 飲み物だけで腹を満たした。 窓際でない為外景を眺めることは出来なかったが、 飛行ルートから想像するとシベリア上空を経由しヘルシンキへの飛行は乱気流にも遭遇せず10時間余りの空の旅は甚だ順調であった。 ところで、 ヘルシンキへの着陸間際になって、 気になっていた若い美人に行き先と旅の目的を聞いたところ、 外国系の商社に勤務するキャリヤー・ウーマンでマーケット・リサーチの為フィンランドを訪問することが解った。 彼女と正面から顔を合わして話すうち、 数年前、 北九州で彼女に会った私の記憶が蘇った。 時を同じくして彼女も以前勤めていたスウェーデンの機械メーカーの社長と私の会社を訪問したことを思い出し、 偶然の再会をお互いに喜び、 短時間ではあったが話しが弾んだ。 実に思わぬハプニングであったが、 奇遇のお陰で、 私の記憶力も衰えてないことを確認して安心した。 美人のキャリヤー・ウーマンとは再会を約束してヘルシンキ空港で別れた。

 ヘルシンキ空港では入国査証と厳格な手荷物の検査を終え、 BALTIC-AIR のローカル機に乗り換え2時間有余でラトヴィアの首都リガ空港に到着した。 ここでもハプニングがあった。
 私は今回のグループ旅行に参加する際、 終始、 ツアーと行動をともにしようと思い、 ラトヴィアの旧知の友人へは連絡をしなかった。 空港内で荷物を受け取り出口に向かったところ、 リガ訪問の度にお世話になる、 将にその旧知の友人であるリリエ夫妻が歓迎の花束を持って出迎えてくれたのには驚いた。 日本大使館で私のリガ訪問を調べて空港に駆けつけたとの事だった。
 リリエ夫妻と堅い握手を交わし、 お互いの健康を確認し2年ぶりの再会を喜び、 出迎えのボルボに乗って近況を話しながらホテルに向かった。 再会の印に本年度の 「歌の祭典の記念コイン」 とフレッシュなリガの野苺の差し入れを頂き感激した。 いつものことながら、 ご夫妻の親切な歓迎に心から感謝した。

 首都リガで宿泊したホテル・エルザベスは今年3月に新築した四つ星のホテルで、 広い浴室と清潔な部屋、 ベットも幅広で寝心地も居心地も満点であった。 難点は館内を含め、 全室禁煙で、 喫煙者の私にとっては少々不便であった。 又、 レストランは少し狭く、 私達グループだけで満席になり、 朝食時は他の団体との同席を余儀なくされた。 しかし、 バイキング方式の朝食は豊富な食材で、 特にデザートのフルーツは新鮮で品数も多く満足するものであった。 残念ながら、 和食は準備されてなかった。 宿泊中、 中曽根弘文−日本ラトヴィア友好議員連盟会長にホテルのロビーでお会いし挨拶を交わしたが旅行の目的は聞かなかった。 私の部屋と同じフロアーの廊下の片隅で厳重な警戒をしていた私服の SP によると、 グルジアの大統領夫人の特別警備だと話していたので、 どうやら、 VIP も利用するホテルのようだった。

 リガ到着の夜は長旅の疲れで熟睡できると思っていたが、 時差の関係だけでなく新たに購入した WORLD CALL の携帯電話により、 夜中に日本からの再三の着信で起こされ予期せぬ事態となった。 WORLD CALL は日本国内と同様に特別な操作をしなくても世界中の主要国に容易に通信可能で大変便利である。 心療医学によると、 人間はサーカイディア・リズムという、 生体リズムをもっているようだ。 朝目覚め、 夜は休むという生体現象で、 ほぼ24時間の周期で生活している。 便利な通信手段は、 便利であればあるほど、 このリズムを乱す引き金になる。 よく効く薬には副作用があるのと同じように、 便利な通信手段にも副作用があることに、 注意を要する。

 7月10日リガでの生活の始まりである。 早めに朝食を済ませ観光ガイドを依頼した旧知の元留学生ターヤをホテルロビーで待った。 彼女は私がお世話した留学生のうち、 日本滞在が長く、 最も親しく印象深いラトヴィア学生で一年半ぶりの再会である。 今年7月ラトヴィア大学を卒業して、 観光ガイドをしながら今秋から大学院へ入学したいと離日前メールがきていたので、 彼女の夢実現の為、 入試に合格するよう激励した。 約束の時間より少し早めに来た彼女の顔を見たとたん、 久し振りに自分の娘に会うような心境になった。 細身だが笑顔が素適な彼女は、 丁寧な挨拶、 流暢な日本語で、 話しぶりは日本留学中より逞しくなり、 随分と成長した感じを受けて嬉しくなった。 早速、 大学卒業のお祝いに日本から持参した記念品とお土産を渡すと、 大変喜んでくれた。 彼女の卒論に協力いただいた関西学院大学の池田裕子さんから預かった編纂誌を手渡すと大変感謝していた。 日本人の気持ちを理解する素晴らしい国際人になった彼女の成長を、 私は心から喜び、 将来、 ラトヴィアと日本の国際交流に献身的な貢献をしてくれることを確信した。

 ホテルで彼女と旅行社の搭乗員を交え綿密な打ち合わせをして、 予定通り大型バスで市内を周遊した後、 世界遺産のリガ旧市街地を3名の日本語ガイドの案内で、 グループに分れて観光をした。 ガイド達は流暢な日本語で歴史的背景や芸術的建築物を年代を交えながら丁寧に説明し、 土産物店にも案内してくれて、 そのガイド振りは素晴らしい出来栄えで感心した。

 10日夕、 在ラトビア日本大使館のご好意により、 日・ラ音楽協会と日本大使館共催のレセプションをラトヴィア政府要人、 音楽関係者を招待して日本大使館で催した。 先ず岡田臨時代理大使にご挨拶したが、 体調不良にも関わらず出席いただいて恐縮した。 パブリスク前ラトビア共和国外務大臣には今春授与された感謝状のお礼を申し上げた。 彼は聡明で品格があり政府のリーダーの一人として、 前途を嘱望されている若きエリートである。 昨年、 来日の際お会いしたが、 ファッションモデルと見違えるような夫人が印象的だった。 レセプションは岡田臨時代理大使、 パブリスク前外務大臣 (現ラ・日議員連盟会長)、 加藤日・ラ音楽協会専務理事の挨拶で始まり、 外務省、 文化省、 音楽関係者をはじめ、 幅広い分野から多くの出席者をお迎えし、 総勢100名を越す参加者となり盛大であった。 レセプション会場で、 2年前私がリガを訪問した際、 歓迎会を催してくれた元留学生の一人で、 日本大使館に勤務しているザイガに久し振りに会った。 ラトヴィア大学を卒業後就職し、 結婚した彼女は身重で産休中であったが、 私に会うため特別に出勤していた。 私は感激し、 嬉しさのあまり妊婦服に包んだ大きなお腹を優しく撫でて安産を祈った。 彼女は再会を大変喜んでいた。 日本に留学中、 戸畑祇園山笠、 小倉祇園太鼓の祭りに、 私がプレゼントした 「ゆかた」 を着て参加し、 末吉前北九州市長に和装美人だと褒められた経験の持ち主だ。

 レセプションは旅行団の混声コーラスやラトヴィアの招待者の素晴らしい合唱で盛り上がり 「歌の祭典」 の前夜祭の感がした。 日本大使館の皆様にはお寿司をはじめ、 盛り沢山の料理や飲み物の準備、 ホスト役として協力して頂き心より感謝した。

 7月11・12日、 昼間はルンダーレ宮殿とスイグルダに観光に出かけた。 ラトヴィアにはロシア皇帝時代からの宮殿や遺跡が多く維持・管理だけでも相当な費用が必要だ、 特にルンダーレ宮殿は長い年月をかけて修復を施し・現在も進行中であった。 観光立国を目指しているとは思えないが、 膨大な経済的負担に耐えて歴史的遺産を修復・保存するラトヴィア共和国及びラトヴィアの国民の熱意に敬意を表する。 在日ラトヴィア大使館でもパンフレット等で宣伝しているが、 私達も積極的に口コミで宣伝して日本からも多くの観光客がラトヴィアを訪れ経済的な支援になればと切望する。

 11日夜は旅行の目的の一つである、 「踊りの祭典」 に出かけた。 会場の運動公園には臨時の観客席と、 メイン・スタンドの反対側には出演者が待機する広大な設備が仮設され、 規模の甚大さに驚嘆した。 地元の友人の話に依ると、 今年は特別に参加者が多く、 出演者数1万数千人、 観衆約3万人が祭典に参加するとのことだった。 会場の周辺には、 祭りをあしらったTシャツを主体に衣料品から身飾品、 ビールを含む飲料水、 アイス・クリームやスナック類等の夜店が立ち並び日本のお祭り広場と同様な光景だった。 色とりどりの民族衣装を着た出演者達は、 最終の打ち合わせをしたり、 本番に備え踊りの練習をしたりして周辺は観衆も含め、 大勢の人達で賑わっていた。

 緊急事態に備え、 救急車、 テント張りの仮設ベッド、 消防車等が万全の体勢で周辺に待機していた。 祭典はリガ全市を挙げてバックアップしていることを窺わせる情景であった。 踊りの祭典が始まる頃には、 観客席はメイン・スタンド、 仮設スタンド共に満席となり、 周辺の空き地にも立ち見の観衆が詰めかけていた。

 踊りは22時から3万人を超える大観衆が見つめる中で開始され、 ラトヴィア全土から参集し、 特に選ばれた団体で、 特色のある民族衣装の老若男女が一緒にリズム良く踊る様は言葉では語り尽くせないほどの圧巻だった。 数百人の集団が交互に広大なグランドに出場し、 音楽に合わせて一糸乱れぬ踊りを披露し、 退場の際には全力疾走で場外に立ち去る機敏な動作には圧倒され、 活気あるオーラを感じた。 ライトを手にした優雅な女性のダンス、 松明を持った勇壮な男性の踊り、 最後は踊りながら人文字を作ったり、 さまざまな模様を描いたり、 実にファンタスティックな見事なシーンに感激した。 ラトヴィア人の素晴らしいリズム感と強靭な体力・熱意に驚嘆した。 5年ぶりに見る踊りの祭典は想像を絶する壮大なイベントであった。

 12日の夕方、 ラトヴィア共和国の外務大臣から正式な招待状を拝受し、 外務省前から送迎の大型バスに乗って 「歌の祭典」 場前の広場に特設された外務省主催のレセプション会場へと向かった。 ラトヴィア特有のけたたましいサイレンを鳴らすパトカーの先導で市内を全速で駆け抜け会場の野外音楽堂に、 通常だと一時間以上掛かる距離だが、 半時間余りで到着した。 大型テント張りの会場には、 盛り沢山の料理と数多くの飲み物が準備され、 各国外交官も出席されており、 ベンケ外務次官夫妻をはじめ多くの要人から歓待された。 歌の祭典が始まる前の予期せぬ盛大なレセプションは、 ラトヴィア政府の祭典に賭ける熱意を感じた。 外務次官夫妻に歓迎の謝礼を述べたところ、 次官から、 私が実施してきたラトヴィア学生の日本への短期留学受け入れに対し感謝された。 彼は将来のラ・日国際交流の更なる活性化を強調し、 協力を要請されたので、 私は可能な限り尽力することを約束した。

 特に、 外務次官夫人とその父親はロータリアンであったことから話が弾み、 国際ロータリーを通して子供達の国際交流の推進や日本への留学生の受け入れ等を真摯に話し合い、 とても有意義で楽しい時を過ごした。 微力ではあるが、 私のラトヴィアへの情愛が実ったことを実感し支援の継続を心に誓い、 ロータリーの4つのテスト:「1. 真実かどうか 2. みんなに公平か 3. 好意と友情を深めるか 4. みんなのためになるか」 を思い起こし実践することにした。

 野外音楽堂の特設シートは全て指定席で、 舞台の裾からすり鉢状の丘の上まで階段状に設置されていた。 数万人の観衆を誘導する若い学生風のボランティアが各ブロックごとに配置され丁寧に自席まで案内してくれた。 森に囲まれた野外音楽堂は、 自然を愛するラトヴィア人が誇りに思う歌の祭典の舞台だと聞いていたが、 将に一大イベントを催すに相応しい素晴らしい場所だった。 激しい夕立の為、 開演が少し遅れたが定刻には5万人の観客席は殆ど埋まり、 丘の周辺の屋台には数千人を越す立見の観衆が群がり、 飲食をしながら開演を待っていた。 21時半まえ、 舞台の雛壇に色とりどりの衣装を纏った1万2千人の合唱団が入場し、 いよいよ 「歌の祭典」 の始りだ。 中央のひときわ高い式台に指揮者が登場して、 タクトを振ると、 太鼓の音と共に600人のブラスバンドの演奏で、 森を揺さぶるような歌声が響き合唱が始まった。
 壮絶だった。 これが、 砲火を交えずラトヴィアが独立を勝ち取った平和の大合唱だったのだと改めて聞き惚れた。 次から次に指揮者が演台に上り素適なハーモニィの大合唱と舞台で繰り広げられる踊りの数々に感銘し、 これぞ世界に誇る合唱大国ラトヴィアだと再認識した。 延々と歌い続ける雛壇の合唱団、 次々に舞台に登場する踊りの集団と合唱隊、 熱気に包まれた観衆も共に大合唱して、 夜空に響き渡る歌声はラトヴィア人の情熱と平和を謳歌する強烈な愛国心だと感じたのは私一人ではあるまい。

 ラトヴィアの歌の祭典は1873年、 民族全体の愛国心を駆り立てるものとして始まり5年毎に行われて今年で24回目を迎える歴史ある祭典である。 135年前に始まったこの祭典は二つの世界大戦中も絶えることなく継続された由緒ある祭典だ。 135年前と言えば、 日本では明治6年、 江戸から移行した明治の初期で、 ラトヴィアの第1回歌の祭典は、 薩摩藩が起こした西南戦争 (1877年) より4年も前である。

 ソビエト連邦の支配下に入った第二次世界大戦後も、 レーニンのスローガン 「芸術は人民のものである」 のもとで、 「全てのコルホーズ (集団農場) や工場には合唱団がなければならない」 と解釈して、 ラトヴィアはソ連の諸々の圧力を受けながらも、 合唱だけは特別に寛大な処遇をうけ、 途絶えることなく今日に至り、 益々盛大になったと言われている。

 今年は独立90周年記念を祝して開かれた歌の祭典で、 クロージング・コンサートに出席した大統領は 「歌がラトビア人を纏めて来た」 と祝辞で述べられたが、 将に国を挙げての一大イベントである。

 大統領は 「ラトヴィア人は第1回の歌の祭典で民族意識が生まれ、 この祭典によって歴史を描き私たち民俗を未来に向けて一つにするためにある。 5年毎に祭典に集い、 一つの声で呼吸し、 一つのリズムで鼓動する心情を共有しよう。 手を取り合って民族意識を感じ伝統を守り、 そして、 互いに喜び、 希望や勇気、 愛の心情を吹き込み合おう。 私たちの団結は歌の力にあり、 5年後の祭典まで祖国に責任を持ち、 皆で力を合わせて頑張ろう」 と力強い祝辞が述べられた。

 記念すべき年の 「歌の祭典」 に参加し、 多くの方々と交友を深め、 加えてラトヴィア外務省の特別な配慮で開かれた祭典場でのレセプションに招待され、 VIP 並みの待遇を受けたことは、 ラトヴィアの子供達や学生を支援して来た私にとって、 長年の草の根ボランティア活動が報われた証でもあり、 至福の至りであった。

 オーロラビジョンで映しだされる合唱団の人々は、 生き生きした表情と身体全体でリズムを取り、 歌が好きで楽しみながら合唱している様子が鮮明に伝わってきた。 午前1時過ぎの終演まで、 4時間近く歌い続ける大合唱に感嘆すると共に、 夜空に余韻を残すフォルテでのエンディングに感動し、 静かに消え入るような最後のシーンに胸が熱くなった。 素晴らしい、 グレート、 世界一の歌声をありがとうと叫びながら、 興奮冷めやらぬ会場をあとにした。 改めて 「歌がラトヴィアを纏めて来た」 の大統領の言葉が実感できた素晴らしい 「歌の祭典」 だった。(平成20年7月末記)