なぜ僕(管理者西尾)が大東で指揮をしているのか?Part1
1990年のいつ頃だったか・・・
当時仲の良かった大東高校2年生・Gさんより電話があった。
「部員が14人しかおらんねんけど、コンクールに出たいねん。」
「そら無理や。規定で最低人数15人やし。不可能や。」
「そうか」
そして後日また電話があった。
「フルート2人(1人は助っ人)クラ4人ホルン2人ペット2人ボーン1人ユーフォ1人チューバ1人打楽器2人!これでどや!」
「いけるけど、曲何すんねん?」
「そこやがな。なんかいい曲あらへんか?」
既存の曲では、そんな編成では不可能だと断ったんだが、
「なんとかしてぇなぁ。そや!編曲して!」(←めっちゃ簡単に考えてる!!)
「うん。いいよ」(←めっちゃ簡単に答えてる。これがはじめの一歩)
初めての大東高校
曲目は、「亡き王女のためのパヴァーヌ」にしました。
この曲は「ボレロ」などで有名なラヴェルの作曲で、
元々はピアノ曲だったのだが、ラヴェル自身のオーケストラアレンジがよくしられていました。
ところで当時の3年生は4月で引退していたので、
実際は2年生7人と新入生7人(1年生)のみで構成されていました。
指揮者はOBの杉村君に決まっていましたが、ある日Gさんから電話がありました。
「よーわからんねん。いっぺん教えに来てぇやぁ」
「うん、いいよ」
さすがに部外者なので緊張したし、ちゃんと顧問の松田先生(通称まっさん)にも挨拶しに行った。
部室ではみんな大歓迎してくれた。
そして合奏でも真剣だったし、みんな僕の解説にちゃんとメモをとっていた。
そりゃ自分で編曲した訳だし、指揮法・指導法も独学だけどやってたし、
みるみるサウンドが変わっていった。
はっきりいって杉村君の立場は無かった。
「本番も代わりに振ってぇやぁ」と言われたが、さすがに悪いと思って断った。
そして1990年のコンクールは・・・
1990年7月XX日に行われました。
B編成の部に出場しました。
結果は・・・銅賞(ようするに参加賞)でした。
僕の部屋の留守番電話に、全員から泣きながらのお礼の言葉が寄せられました。
その時のテープは、まだ残っています。