#6256/7701 連載 ★タイトル (CKG ) 98/ 4/ 5 16:55 (113) ●『続・権力の陰謀』私の生い立ち 〜小説の前〜 ヨウジ ★内容  私は7人兄弟の末っ子で私だけが戦後に生まれた。父は海軍の軍医だか衛生兵 だか知らないが、そういう立場で戦地に行っていたようだ。父が無事に帰還した から私は生を授かることができた。父は個人経営で化学薬品を作り新聞社等大手 の会社に納めていたようだ。取引先から川村デパートと言われ、「川村に頼めば 何でも持ってきてくれる」と重宝がられていたと兄から聞いた。釣りに凝ってい て宴会の席で手品をして見せ皆を笑わせる茶目っ気のある社交的な人であったと も聞いている。しかし、その反面「子供には優しかったが私には冷たかった」と 母が何度もこぼしていた。昔流の亭主関白だったのかも知れない。良く外で酒を 呑んできて母を困らせていたようだ。7人も子供を抱える母にとっては苦労の多 い有り難くない父であったようだ。  その父は私が5歳の時にこの世を去った。入浴中脳溢血で突然倒れたのだ。体 格は良いが酒呑みなので高血圧だったからだ。父は何日間かは家で病床にあった ようだ。幼い私には何も解らなかった。ただ、父の枕元で母が突然「洋ちゃん」 と言って私を抱きしめ泣きだした時の光景を覚えている。私にはその意味が解ら なかったが、母が泣いたので私も貰い泣きした。物心ついてからそれは父の臨終 の瞬間だったのだと解った。葬式の白黒写真には兄姉達の中に笑みを浮かべた幼 い私の姿が写っている。きっと兄姉が皆帰り集まり嬉しかっただけなのだろう。 45歳の母と北海道の大学に行っていた次男以下皆学生の7人の子供を残し父は 他界してしまった。  長男が父の仕事の後を継いだ。それからは何をどのようにしてやってきたのか は私は知らない。若くして一家を背負い込んだ長男の苦労と仕送りが途絶えた次 男の苦学と7人の子供を抱えた母の苦労が想像できるだけだ。私が良く覚えてい るのは幼稚園の優しい女の先生と、小学校低学年の時の遅番早番に別れた登校と コッペパンに脱脂粉乳の給食と、高学年の時の尊敬できる立派な先生と、毎日近 所の子供が沢山集まってありとあらゆる遊びをした楽しい日々のことなどだ。  中学校時代は湘南に住んでいた兄(次男)の元で育った。子供ができなかった 兄の子供代わりとして、そして甘えん坊だった私にとっては親離れという意味も あった。兄から厳しく勉強を教えられ、余り覚えが悪いとでこぴん(おでこを人 さし指で打たれること)され涙を流すことが度々あったことを覚えている。小学 校時代は虚弱体質で病気ばかりしていたが、中学時代にまた腎炎が再発し、とて つもないだるさと塩分の制限に苦しんだ一時期があった。そういうこともあり、 また味噌っ粕のせいか成績の余り良くない私だった。  中学三年になり受験のため東京の母の元に戻った。愛情の注ぎ先を取り戻した 母は喜んだ。私の身体を心配し良く世話をしてくれた。東京の中学は程度の高い ところへと知り合いに頼んで住民票だけ移しわざわざ遠方へ通った。優秀な人が 多く一緒に通学した友達もお金持ちのお坊っちゃんでしっかりしていて皆優秀だ った。私は気後れし良く解らず後に付いて行った。人間的にもまだしっかりして おらず、その上家が貧しく予備校に入ることもできず、さりとて回りにアドバイ スしてくれる人もなく、どうにかしょうと頑張ってはいたが思うような勉強はで きなかった。それで昭和40年都立高校の寒い合格発表の日は失望の日となって しまった。結局、私は他の高校の二次募集で合格しかろうじて浪人を避けた。  高校に入り学問の面白さを知った。数学と理科系の科目に興味を持った。勉強 し新しいことを知ることが面白くてしょうがなかった。教科書に書いてない真理 にも思いを巡らせた。「どうして」「どうして」の問いを発し続けた。高校に入 り成績は上になった。しかし、思春期の苦悩に安眠できにくい環境から来る睡眠 不足が重なり、高校1年の一時期入院生活を強いられた。ノイローゼになってし まったのだ。夜に初めてその古く薄暗い病室に入った時、いかにも精神病院的で そう思うと皆どこか様子がおかしいのではないかと思った。しかし、話をして見 ると皆普通の良い人たちばかりだった。運動不足で日に当たらないから顔色が悪 く外面的にそういう先入観を持つからに過ぎなかった。私のベットの隣は高校中 退のA君だったが可愛く母性本能をくすぐるような人だった。東大卒の人もいた。 私は頭の良い人には特別な興味を持っていたのでどうして病気になったか話しか けた。この人もまた穏やかで良い人だった。画家の人もいた。この人は面倒見の 良い人だった。反対隣のスポーツ刈りの人とも上手くやって行けた。その人は私 が風邪を引いて熱を出している時に汗を出せば治るからと優しくふとんを頭から 掛けてくれた。勉強が遅れるのは嫌だったので病室でも数学等好きな科目の勉強 も続けた。スケッチブックに車のデザインを描いたり、画家の入と隣のA君と三 人で近くの公園に絵を描きに行ったり、看護士の人も交え卓球をして汗を流した り。このづる賢く機敏な看護士の人と、やたらとカットをするのでラケットで打 つとピンポンがとんでもない方法に飛んでしまうこの二人の人には適わず、いつ も悔しい思いをしたものだったが、しかし毎日昼休みの一日で一番楽しい一時だ った。  こうしてこの3カ月間は楽しく有意義に過ごすことができた。決して無駄では なかった。こういう病気になったからこそ解ったこともあった。病気になったこ とのない人には病気の人の気持ちは解らない。一昼夜転げ回る程の腹痛を経験す れば人の腹痛も理解できるようになる。心の無理から起こる病気も同じだ。病気 に限らず人には様々な苦労がある。苦労無しで育った人には人の苦しみは理解で きない。人への同情とはそれに似た経験を自分もするところから来るものだ。 かくして16歳の私はまた元気とやる気を取り戻した。退院後母に連れられ高校 に戻った時に担任の先生に「(太って)好男子になったね」と褒められたことを 今でも良く覚えている。  学問の面白さを知った私は大学へも行きたいと思った。それで母にこのことを 話した。しかし、母からは冷たい返事が返ってきた。母の細腕だけで成り立って いた我が家にそんな余裕があるはずはないが、学生の私には理解できなかった。 「大学なんか行かなくても皆立派にやっているよ」という母が憎らしく思った。 湘南の兄に相談しても冷たく「国立に行け」と言われるばかりだった。大学進学 は諦めるよりなかった。数学の先生に進学のことを聞かれ行かないと答えたらと ても残念がっていたのを覚えている。  この頃は兄姉は皆独立し母と私の二人暮らしだった。母は一時期知り合いの家 へお手伝いに行くことで生計を立てていた。私の家は昔風の作りで古いが広かっ たので、母はいつしかその内の幾つかの部屋に手を入れ間貸しすることで生計を 立てるようになった。とても人に貸すようにはできていなかったが、安いので結 構長く住んでくれた人がいたようだ。皆良い人が住み、引っ越し後も長い間手紙 のやり取りをしていたようだ。ただ、時々母の苦しそうな姿を見た。何枚もある 領収書のようなものを眺め数えながら「島原に借金があるから」とこぼしていた。 昔父の仕事を継いだ長男が集金のお金をオートバイに積んでいて落としたのだと 言う。地名でなく何か会社の名前らしいが具体的は「島原」が何の名前かは聞か されなかった。とても多額の借金で十年以上も掛かって母一人で返済していたよ うだ。落とした長男は結婚して一番裕福な生活をしていたのに一銭も出さなかっ たということだ。結婚して(長男は)変わったと母はもらしていた。私はその頃 より兄と義姉を憎むようになった。その借金がなかったら私は大学に行けたので はないかと。  私は大手電気メーカーに就職した。品質管理の仕事に携わった。良い先輩に恵 まれ心が明るく変わって行った。思春期の性的な悩みも解消した。人前でも話せ るようになって行った。積極性も出てきた。医師から一生治らないと言われた慢 性腎炎も健康法をマスターし根治させることができた。暗い思春期から抜け出し 目の前の視界が広がった。これは私の社会的な目覚めだった。この頃より通勤途 上や眠る時間も惜んで小説を夢中に読むようになった。また学生時代にはほとん どできなかったスポーツもやるようになった。私の中に自主性が芽生え始めた。 自分で考え行動する人間に変わって行った。心が一種の束縛から開放され本来自 分が持っていたものが表に出たとも言える。ここから私の真の勉強が始まった。 好奇心と真理の追究。私は社会生活の中で世界について思いを巡らすようになっ て行った。何にでも興味を持った。そしてそれが何故なのかを日々考えながら生 きるようになった。  思考力はこの後の長年のソフトウェア技術者としての苦しい経験の中でも養わ れた。コンピュータは社会のあらゆる分野に応用されるから、私の考える範囲も 多分野に及んだ。これが思考力強化に役立った。元々理数系が得意な私にはこの 仕事はある面で向いていた。  そしてこの後は●連載パソ通小説『権力の陰謀』へと繋がる・・・                                 ヨウジ