#2702/4530 連載 ★タイトル (CKG36422) 93/ 1/16 22:26 ( 89) ●連載パソ通小説『権力の陰謀』 23.陳情書U ★内容  次第に就職も難しくなり、また、帝都職員及び帝都警察官による嫌がらせが絶えずあ ったので、邪魔されているという意識が、信一の心から消えることはなかった。 昭和 59年7月から60年7月の間失業し、60年8月やっと鞄喧M事務センターという会 社の契約社員となり、目黒にある潟Xーパーアルゴリズムという会社の派遣社員として 働いた。 しかし、職場での自分に対する扱いから、また言い触らされていると感じ、 また、その嫌がらせも続いていたため、信一は一仕事が終わった昭和60年12月で退 職したのだった。  昭和61年1月、信一は新宿にある潟Iートビジネステックという会社に就職。 暖 かく迎え入れられ、入社早々からリーダとして重要な仕事を任された。 しかし、ある 時点から急に皆から冷たくされるようになった。 仕事自体は非常に順調に進んでいた のだが、最後の半年で外注が納めた物件の大量の誤りを、信一一人で対応するよう上司 に仕向けられてしまう。 通常、物件の部分の担当者が、あるいは外注先が最後まで責 任をもって対応することになっているのだが、上司は外注先に味方し、信一1人でやら ざるを得ないよう仕向けられたのだった。 コンピュータのある大森とユーザ先の市ケ 谷の間を行き来する多忙な日々が半年続くが、なんとその一番大変な時期に、2〜3人 の男が大森のその職場に嫌がらせに来ていたのだ。 大森へ通う電車の中でも、信一が 疲れて眠りかかっているときに、ある女性(私服の帝都または帝都警察の職員)が「今 ごろ良くなろうだって」等の明きからにそれと分かる言葉を吐いては下車して行くとい う類のことも続いていた。 会社からの辛い扱い、多忙そして得体の知れない人間たち からの嫌がらせの3重苦のなかでの半年だった。 仕事自体は納期通りに終わったが、 信一はかつてない最大のダメージを受け、この後2〜3年心身の不調が続くのだが・ ・・。  潟Iートビジネステックはその仕事が終わった昭和62年7月で退職した。 信一は 同7月、出来たばかりの小さな会社に就職したが、出勤途上の街頭で「お前を助けるた めの会社だ」、「架空の仕事だ」、「ここにいれば迷惑かけないでいいや」、「大人し くしているか」等の言葉を言われていた。  昭和63年1月、信一は品川の潟_イナミックウェアへ就職した。 最初から告げ口 されているようだった。 最初からまともに扱われず、期待もされず仕事も何も与えら れなかった。 一方、通勤途上での帝都警察による、手をかえ品をかえた嫌がらせがあ った。 京浜東北線が何の事故もないのに止まったり遅れたりし、信一は何度となく会 社を遅刻した。 電車が遅れて駅に着いた直後、誰かに連れられて、乗務員が訝しそう な顔で信一の側を通り過ぎるということも度々あった。 退社時、暗くなりかけた会社 から品川駅に向かう途中の向かい側の歩道に、白い自転車を横に置いた2人の帝都警察 官が直立不動で立って、信一の方を見ているということもあった。 出勤時、品川のい つも通る横断歩道の横手で若い制服の帝都警察官がかったるそうな顔で小型の白バイに またがって、じっと信一の方を見ているということもあった。 また、退社時会社のビ ルの真前に何の事件もないのに、ワゴン車のパトカーが赤いランプを点滅させて、十人 位の帝都警官・婦人警官がものものしく警戒していたのでびっくりしたこともあった。  信一は、そういう底知れない恐怖を感じながら、ストレスを受けながら会社勤めして いたのだった。 同年4月、信一は恵比寿事業所に転勤となり、新しい所属でまじめに 働いていたにも係わらず、上司より皆の前で「だから言っただろう」とか「こしゃくな 」とか等の言葉で度々怒鳴られ手荒に扱われ、新しい所属では一ヶ月とおらず退職して しまったのだった。 その会社の最後の出勤の日、信一は一般社員より「帝都警察に言 われちゃ、どうしようもない」という呟きを耳にした。 結局、この会社も表と裏から の公権力による圧力で駄目にされてしまったのだった。  やっとの思いで就職しても、執拗な嫌がらせで退職に追い込まれるという不幸な繰り 返しに疲れ、信一はつくづく世の中が厭になっていた。 だから再就職の意欲が湧かず 、昭和63年5月から10月の間は、パソコン通信で見つけた会社から仕事をもらい、 在宅プログラマーとして働いた。 買い物で外へ出たとき以外は、嫌がらせを受けずに 過ごせた。 しかし、忘れ去ることはできなかった。 この仕事は時給のほんのアルバ イト程度の仕事だったから、生活は赤字でそう長くは続けられなかった。  昭和63年11月、信一は浜松町にあった潟Wャパンソフトウェアに就職した。 派 遣はしないという約束だったが、翌年1月より大崎の品川電算開発鰍ニいう会社へ派遣 となった。 また、知らない会社での肩身の狭い毎日だった。 だが、また告げ口され ているらしく、冷たい扱いだった。 そこの上司からこんなことも言われた。 「汚れているだろう」 「あいつが悪いって皆んなが言えばいい」 通勤途上及び昼休み外に出たときの嫌がらせは相変わらずであった。  平成元年3月、こういう不幸から解放されたい一心から帝都の下田知事宛に『陳情書 』を郵送した。 そして信一は、返事がないか、または、こういう状況がなくならない かをじっと待った。 だが、状況は悪化はしても良くはならなかった。  同年4月頃、信一の会社で全社員による会議があり、突然社長より「経営不振のため 営業権を4月20日付で知り合いの会社に譲渡する」という主旨の話しがあった。 後 日、信一は直属の上司よりどうするかと聞かれたので、「譲渡先の会社への移籍を希望 する」と返事したのだった。 「ついては、譲渡先の会社との面接が近々あると思う」 と伝えられ待っていたが、譲渡時期の4月20日を過ぎても何の連絡もなかった。 会 社はからっぽになり、残務の社員に聞いたところ、上司は別の会社に転職したとのこと だった。 他の社員の行き先も含め、この事件の真相は分からなかった。 この後、派 遣先の品川電算開発鰍ゥら神田のネットワークシステム開発鰍ニいう会社に派遣された 。 その直後、品川電算開発鰍フ経営者より社員になることを勧められ、自分の会社が そういう状況だったので、それを受け入れ品川電算開発鰍フ社員として、引き続きネッ トワークシステム開発鰍ノ通った。 その会社は初め暖かく迎え入れられたかに見えた が、段々、周囲の扱いが冷たくなり、「もうこれ以上いても良くならない、また酷い目 に会う」と考え、同年5月末で品川電算開発鰍退職したのだった。 勿論、この間に も、浜松町や大崎や神田への通勤途上で、帝都職員と制服の帝都警察官による嫌がらせ は相変わらずだった。 こんなこともあった。 帰宅のため最寄りの駅から歩いて自宅 近くに来たとき、車のクラクションとヘッドライトの点滅に、ふと前方に目を上げると 、そこにパトロールカーが止まっていたので、信一はドキッとした。 また、街頭で「 やっかい払いして」という男の声を聞いた。 信一は結局、これらの会社で自分の身の 上に起こったことも、公権力の圧力による追い出し作戦だったのだと思った。                                    ヨウジ                       初版 93-01-16