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東郷隆 『最後の幻術』
歴史短編小説の読みどころ
2002/08/30 |
歴史時代小説9編がおさめられた短編集である。初めて読んだ作者であるが出版社が「新人物往来社」だけあって、歴史全般に相当の博識な方と見えた。全体に和漢混淆の記録文体と文献の適度な引用により虚構ないまぜの世界を展開して飽きさせない。実在の人物同士、作者の創造上の人物の組み合わせの妙、そこから生まれる意外性は歴史小説を読む醍醐味でもあり、ミステリー愛好者にも通ずるものがある。
果心居士が幻術を持って秀吉の心胆をさむからしめる「最後の幻術」、逢魔が刻に物の怪に襲われるという奇事異聞で偏屈者の滝沢馬琴を揶揄する「通り魔」、媚薬をもって花魁を口説こうと、大失態を演じる大店の若旦那の艶笑小噺「イモリの黒焼き」、若い時分、放蕩無頼の英一蝶が経験した妖異譚「耳きり」、太田蜀山人、山東京伝、蔦屋重三郎らが左甚五郎作の張り形を趣向に大名を金づるとして郭で遊ぼうとするこれも艶笑キワモノ「こりゃ御趣向」、高師直と塩冶判官の確執に絡めて吉田兼好の賢しらぶりを皮肉る「艶書代筆」、武田勝頼の無能と家宝大事の作法を通して下級武士の悲哀を描く「楯無」、松の廊下刃傷事件にかかわる人々の悲劇を描く「枝もゆるがず」、奇天烈な剣法を持って辻斬りと決闘する貧乏浪人の「髪切り異聞」。よく知られた怪異譚、江戸中期の戯作者たちの風流譚、武士道哀話の三つのテーマで編纂されている。
歴史、とくに正史は英雄偉人のあとづけであるから、そこで端役となった人々は埋もれ忘れられただ古文書の片隅にわずかな記述が残されているに過ぎない。そこにスポットライトをあて、作者の創造力で生き返らせる。この短編集はそんな面白さがある。歴史小説の常道でもある。
ただし、私のような歴史エピソードに暗い輩にとって、本筋がまずよくわかっていないところから出発するのだから、この「実はこうなのだ」という論法に「なるほど」と膝を打つ境地にいたらない、といささかひがみっぽくなるのである。さらに言えば文中、たとえば冒頭、「打刀の栗形に吊るした打飼袋を取って焼飯をひと握り口にした」とさらりとした記述がある。意味がわからないとなると大いに気になって、「打刀」「栗形」「打飼袋」と広辞苑を引く、しかし、全体イメージがつかまえられない。いたるところそんな風だから、勉強にはなるけれど面白さに夢中になる手の小説ではありませんでした。電車内で読むとわからないままに読み飛ばすことになる。
奇想天外さでぎょっとさせてくれた「最後の幻術」、忠臣蔵はよく知っていただけにその裏話「枝もゆるばず」の2編はよかったが、さてどこまで楽しめるかとなると、歴史物の素養の程度と好みの問題ですね。
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伴野朗 「陰の刺客」
たまには剣戟小説も
2001/2/26
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伴野朗の作品は「五十万年の死角」すら読むチャンスがないまま、なぜか際立つ作品にお目にかかったことがなかった。今回「陰の刺客」という作品を読んでみたが、結構楽しめました。「アヘン戦争」を舞台として、捌き方によっては重厚な仕上がりになったと思われるが、しばらく前に日本でもベストセラーになった中国の作家、金庸の武侠格闘風であり、また往時の山田風太郎忍法帖の様式を踏んで、気楽にしかも興味深く読める娯楽作品である。
アヘン厳禁論を剛毅一徹、実行に移す林即除。これを阻止せんとする清朝内腐敗勢力と英国政商ジャーディン・マセソン商会が、次々と放つ第一級暗殺者の幻妖奇怪な殺法の数々。対するは紅顔の美青年、大塩平八郎門下エリートの必殺居合術。
こうなりますと堪えられません、見せ場たっぷり、一対一のカッコイイ剣技が披瀝されるわけです。「一対一じゃなく多勢でむかえ」なんていう奴は、読む資格が欠落している野暮天ですな。小説ならではの、イマジネーションの極致。これは映画ではいけませんや。かつて市川雷蔵がご存知眠狂四郎、円月殺法を演じるにあたり、原作者である柴田錬三郎に尋ねました。
「先生、円月殺法は右回しでしょうか、左回しでしょうか?」
柴錬、応えて曰く「そんなこたぁ、考えたことがねぇ」
しかし、「アヘン戦争」については正直、中学生の歴史で教わった程度しか理解していない。
今さらながら、圧倒的戦力を背景に欧米列強がアジアに対して進めた帝国主義侵略を思うとき、同様に我が国が直面した未曾有の国家的危機をよく回避したと、これを他山の石とした当時の政治的リーダーたちの傑出ぶりには驚愕する。
そういう意味でも常識が磨かれる内容のいい作品でした
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貫井徳郎 『慟哭』
ドンデンガエシが巧く決まった本格謎解きミステリー
2003/05/05 |
白装束に身を包み、トラックを連ねて迷惑を省みない宗教団体がいる。執拗にタマちゃんをとらえようとする宗教団体がいる。クローン人間を誕生させたという宗教団体もいる。なんとなく薄気味が悪い世の中になったものだ。
幼児誘拐殺人事件の背景に、悪魔にいけにえを捧げることで救済が得られるとする狂った神の教義があったとすれば、これはいかにも新興宗教全般を誤解させることにもなりかねないきわどいテーマだ。しかし、オーム真理教といういかがわしい教団の猟奇的連続犯罪が実証されるとやはり悪魔を崇拝するような現実遊離の狂気的集団が日本にも存在するということなのだろうと思わざるをえない。だからこの『慟哭』を読み終えて、この小説のドンデンガエシの核になっている犯罪者の心理を推測して、まさかそんなことは現実にあるわけがない、だからつまらない小説だと単純に批判的には言い切れないものがある。
これは「本格謎解きミステリー」である。つまり読者を最後まで煙に巻いてストンと追い落とすのが作者の腕の見せ所とされるジャンルの小説である。
にもかかわらず、警察小説としても読み応えを感じさせるところがある。また新興宗教のもついかがわしさの分析という点でも関心をひきつけるものがある。
しかし、じっくりと読めばそれらは作者の仕掛けた巧妙なワナのためにある飾り付けに過ぎない。結局警察組織や新興宗教教団を描写したところに著者の深い洞察や批判精神があるわけではなく、むしろ皮相的解説にとどまった内容でしかないことが理解できる。本格謎解きであるからそれでいい。しかも背景が現実とまったく乖離しているわけではない。この微妙な折り合いを評価したい。
そして………
腕の見せ所であるドンデンガエシはうまい!あざやか!
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