リチャード・ノース・パタースン 『サイレント・ゲーム』
我が国でも司法制度改革の柱の一つとして刑事裁判の審理・評決に一般の国民が参加する裁判官制度の具体化が進んでいる。刑事事件のうち重大事件について、無作為に選出された一般市民が裁判官と対等に評議を行い、有罪・無罪や量刑を判断する欧米の陪審員制度と似た司法制度だ。ただ「国民参加」と魅力的なキャッチフレーズがあって日弁連なども積極的なのだがどこかに諸手をあげて賛成できない気持ちがある。心配性になるのは海外の名作法廷ミステリーをよく読んでいるからである。
2003/12/25

法廷ミステリーのジャンルはもちろん日本にもいい作品はあるが、圧倒的に海外物に分がある。被告がシロであるのかクロであるのかの決定的証拠がないところを前提に、検事と弁護士が裁判官を相手にするというより、日本の制度にはない陪審員たちを真正面に相手取りまことしやかの状況説明に手練手管を弄するのだ。正しい判断を行うことができるかどうか、その人品骨柄から疑わしい一般市民が登場し、彼らの心証がどう転ぶかで人の運命が決定されるのであるから、そこにスリリングなドラマが生まれる。

かつて高校時代、スポーツの花形選手としてこの町のヒーローになり、しかし、恋人アリスンを殺害したという容疑が晴れぬまま追われ、今、弁護士として成功したトニーが故郷に帰ってくる。当時のライバルであり親友であったサム、今、高校の教頭職にある男が女子高生暴行殺人の容疑で告訴された。そのサムの妻スーから依頼され、その弁護を引き受けたからだ。自分が被った冤罪事件と似ている
本人は無罪を主張し、状況証拠はクロを示唆するが、トニーの立論によりサムの殺人を立証できる物的証拠はないことが裁判の過程で明らかになっていく。検事側はサムが卑劣漢であり、教職に奉じるものとしてはあるまじき性的嗜好の持ち主であることを立証し、陪審員の印象を殺人者へと誘導する。トニーはサムに一片の疑念を抱きながらも、したたかな弁護士であり、陪審員に対してかつての黒人の友人を真犯人であるかに思わせる情況を作為する。などなど、法廷における丁々発止のやりとりが圧巻で、このあたりが「法廷ミステリー」の本物といえるところだろう。ラストにはアリスン殺害事件をふくめ幾つかの真相が明らかになるがその因果に無理がないところも好感できる。
これを縦軸とすれば横軸にトニー・アリスンとサム・スー二組のカップルの四角関係的恋愛模様、トニーとサムのスポーツを通じての熱っぽい友情が詳細に書かれるが、屈折した情念がひそむ輻輳した交情があって、それが全体ストーリーと融合されているため、とってつけた上滑りの青春ドラマとは違い、この横軸も読み応えは十分にある。
本著を読んで、日本に導入されようとしている裁判員制度へ不安がますますつのることになったのだ。そして、教訓「弁護士はどんな犠牲を払っても優秀な奴を雇うに限る」


ロバート・ゴダード 「一瞬の光のなかで」
なるほどこれが「ゴダード」か
00/05/20

ロバート・ゴダードの作品は「閉じられた環」を初めて読んでいささかがっかりしました。ともさんからはその時に「惜別の賦」のお薦めがありましたが、機会のないまま、「一瞬の光のなかで」を読むことになりました。ゴダードスタイルを英国新本格とでも呼ぶのでしょうか、謎の提示が真っ正面から行われ、状況の変化が複雑に深まり、合理的に解決される。上質、流麗な筆運びが大変魅力的でした。翻訳者がいい文章にされています。翻訳もの良し悪しは翻訳者の腕にかかるところが大きいのです。ただ主人公がひどく女性にだらしない男性で歯がゆくなるんですが、そこはミステリー特有の人工的枠組みの中で謎を構成するからなのでしょう。「閉じられた環」でもそうでしたが「一目惚れ」で女に騙されるのです。こんな騙され方をすると恐いですね。中年の男性のみなさん、注意しましょう。
英国のミステリーはラヴゼイもそうですが気品が高いような気がします。歴史の浅い米国と違って背景を時代を遡って奥深いものにできることとか、階級社会につきものの伝統、文化など独特の香りが行間に漂っているところに読み応えがでてくるのでしょう。

本格派と言われるミステリーは謎解き中心ですからどうしても「絵空事」になりがちです。ミスディレクションの手法に感心するのも良いのですがそのトリックの新奇さ・巧妙さだけが印象に残り、本来の小説として面白さが欠ける場合が多い。ミステリーマニアになら勧められるが、私の周囲の人には薦める自信がないのです。つまりネタバレ・種明かし、そのものを語るしか方法がない。私の興味を引きつけるものがあるとすればそれはプラスアルファの背景にいかに厚みが備わっているかという視点になります。

この作品は写真術の発明という興味深い裏面史を縦軸として完成度の高い作品と言えます。。
ところで先般のバスジャックは様々な深刻な問題を提起した事件でしたが「人命の重さ」に関してアメリカ的感覚との大きな乖離を痛感させられます。興味のある方にはディーヴァーの「静寂の叫び」をお薦めします。

ロバート・R・マキャモン 『魔女は夜ささやく』
これミステリーとしての評価は高いのかしら?
2003/11/17

私の友人に猛烈に読書量の多い男がいて、彼が言うには北上次郎氏の書評が的を射ているため、その評価の高い作品は必ず目を通す。その北上氏が朝日新聞紙上でこのマキャモン作『魔女は夜ささやく』を「父と子の小説であり、青年の成長小説であり。年上の女性との恋愛小説で」「なによりも素晴らしいのはこれが見事なミステリーである」とつまり「脱ホラーの新生ミステリー」と評価するのが目にとまった。『スワンソング』という悪魔降臨によるハルマゲドンと生命の復活を描いたホラー小説が印象に残る作家である。

アメリカ南部、既成都市から隔離された開拓地。迷信深い共同体に魔女が出現し、殺人、放火、悪魔との淫行三昧でこの社会は崩壊寸前にある。人々はその女を拘留し、ただちに火刑にせよとわめき立てている。開拓地の創設者でこの村の大ボスは村人たちの離散をおそれ、(この共同体において彼がきわめて粗暴な絶対者なのだから普通はこの場合、すぐさまリンチにかけるべきと私は思うのだが)なぜか公正な裁判を求め、町からよぼよぼじいさんの判事をよぶ。判事に同行するのがたよりなさそうな若者の書記である。

血も凍るような恐ろしい呪い、陰々滅々と闇に閉ざされた村人の恐怖感が描写されると期待したのは間違いであった。あるいは疫病の蔓延、自然災害の多発などによる社会不安に対する集団的ヒステリーを綿密に描くでもない。著者は決してそのムードを意図しているのではない。色ぼけ、欲ぼけのかたまり、粗野で、品性のない開拓民同士の狂騒、喧噪の渦に加え、真面目くさった老判事と純粋無垢な若者のやりとりなどむしろ読むものの笑いを誘う。日本的には落語風に貧乏長家の化け物騒動といったイメージに近い。むしろ開拓時代の素朴なエネルギーの暴走を感じることになります。

「父と子の小説」といわれると、それは読み間違いではないかと思われる節があるのだが、むしろ世知に長けた老人と純粋一本気な若者との心の交流というべきであろう。ただし、このテーマにしろ「年上の女性との恋愛」にしろ小中学校の学芸会といった程度の月並みなものであってとりたてておもしろいとは思えないのである。
「見事なミステリー」と北上氏は賞賛するが、ミステリーファンからすればその指摘を受ければ、ただちにこの女は怪異、超自然現象を引き起こすような魔女ではなく合理的作為の結果魔女にされている被害者であると推定してしまうものだ。興味半減。またそのトリックも底が浅く、しかしそれは決して著者の力点とするところではないのだ。的はずれな評価は著者にとって迷惑であろう。読者にとっても読むべき的をはずされる。

そうではないのだ。
未知のアメリカ大陸、それ自体が巨大な魔物であり、そこに足を踏み入れたものが感じる恐怖と不安、それを乗り越えるにはきれいごとの勇気だけではすまないだろう、とてつもない腕力と貪欲と性欲、人間の欲望をむき出しに、ときには常軌を逸した破壊、無法行為も必要になろう。いっぽうで創造がある。法と秩序が自然発生的に求められるのだ。この溢れかえるエネルギーと究極にある安寧への祈り。人間の愚かしさと智恵。狂信と信仰心とは紙一重。これらが渾然として躍動する共同体を戯画的に描写した、大人のための残酷寓話として楽しめたのである。