宮本昌孝 『風魔』

「風魔一族」。忍法小説に時折見かける、らっぱ集団である。実際、小田原北条家につかえ、北条軍団の系列下でゲリラ戦、攪乱戦、諜報戦を得意とする武装集団だったようだ。『北条五代記』には武田勝頼軍をさんざ悩ませた黄瀬川の戦いが紹介されている。そこでは頭領の風魔小太郎について、身の丈七尺二寸、筋骨隆々として、眼は逆さまに裂け、牙四本が剥き出ているというから、さながら魔人と言ったところか。家康が関東を制圧した頃には盗人集団と化し、小太郎は処刑されたという説もある。

2006/05/03

宮本昌孝はこのどこまでが史実か伝承かわからない人物に新しい命を与えた。
身の丈七尺の巨躯、南蛮人と見紛ごう異相、桁外れの迅さと膂力。深山を駆け、幽谷を疾る
小太郎の人物を超人的な戦闘能力を持つ武人であると同時に天衣無縫の自由人、明るくさわやかでまっすぐな好漢として一貫させている。時代は北条氏滅亡から徳川家康が征夷大将軍になるまで、風魔小太郎の半生を描いている。
風魔の小太郎、風神の降臨ともいえるとてつもない破壊力をもった肉体。肉体だけを武器にそれが専守防衛である。友人、愛人、恩人、知人と風魔一族が被る災厄に対してのみ発揮される。

日本人は昔から弱いもの、愛するものを命がけで守ろうという人物に拍手喝采を惜しまないものだ。その人物は他人から受けた恩義を忘れはしない、他人との約束を決して反古にすることはない。そして悪いヤツをたたきのめしてくれる弱いものの味方なのだ。悪いヤツは力があってたいがい金銭欲、色欲、名誉欲、権力欲の塊である。弱いものの屍を累々と築くことになんのためらいもない、一般的にはそんなヤツである。
ご存じ水戸黄門も悪いヤツを叩きのめすのだがあれは「印籠」の力である。「印籠」にひれ伏すお馴染みのパターンが毎週高視聴率を維持しているのは日本的だが、よく考えてみると、あのストーリーでは悪いヤツは誰が見ても文句なしの極悪非道だからたとえ権力をバックにしただけの老人の裁きであっても違和感を持たないのかもしれない。

小太郎の敵は水戸のご老公流儀の線引きはできない。単純な極悪非道ではない。つまりそれなりの理由があって、小太郎の周囲を非道に加害するものたちである。読者はその理由の根源にある時代性に興味を引かれるのだ。
これは著者が三年を費やしたと言われるだけにまさに時代小説の本格派である。緻密な時代考証を下敷きにして、練りに練った組み立てが光る傑作である。
小太郎が守ろうとする人々、それはある時は北条家であり、ある時は足利将軍の血を引く古河公方・氏姫、年老いた風魔の頭領、武田のくの一、そして中央の覇権争いに巻き込まれた関東の諸大名など多数の関わりが小太郎の周囲に発生する。この関わりにからめて、微妙に史実とおもわせる味わい深い叙述が詳細に展開される。戦国時代の群雄について、知るところは武田信玄、織田信長、豊臣秀吉、石田三成、徳川家康らいずれも京都周辺の歴史であった。東国はせいぜい北条一族の命運までであった私は関東全土の主立った武将、国持ちらを俯瞰した史実に、それは京周辺にある覇権争いに巻き込まれた地方政治史なのだが、これほどまでに劇的な離合集散、合従連衡、裏切りと背信、骨肉のお家騒動の数々があったのかと、目を見張る思いだった。丹念に色濃く描かれた関東全土の争闘を背景にした風魔小太郎である。背景にぴたりとはまった超人・小太郎が疾風のごとくここ全域を駆け抜ける。だから守らねばならない人たちがどんどん増えることになる。この虚実融合のなんと巧みなことよ。

名君あり、暗君あり。名将、知将、猛将と誰が敵やら味方やらわからなくなるほど魅力的な脇役が多数登場する。風魔一族乗っ取りをたくらむ裏切り者・湛光風車。武田信玄のくの一忍者部隊、梓衆の頭目・沙羅と抜け忍・笹箒。豊臣秀吉の間諜機関の統帥・曾呂利新左衛門。真田最強の忍者・唐沢玄蕃。海賊・神崎甚内。家康の腹心・伊賀の服部半蔵。秀忠の忠臣・剣客小野次郎右衛門。そして最凶の敵・柳生又右衛門宗矩。
悪辣な奴らが多いが、どこか小太郎の人柄に惹かれ、愛嬌を残しているところで、この物語の組み立てに花をそえている。

宮本昌孝の傑作時代小説には 『ふたり道三』 があった。人には守るべき道がある。しかし下克上の乱世に一国の覇者たりえる絶対の必要条件は、人倫の道を切り捨てる、特に親殺し、子殺しを断行できる「梟雄」の性根。これが全編を一貫するモチーフであった。陰の極致であろう。今回『風魔』では同じ乱世を描いて陽の極致である。

凄いバトルシーンが連続するぞ。特に下巻にいたれば数ある時代小説でも滅多にお目にかかれない壮絶な戦闘に圧倒されます。風魔の小太郎、巨体の割には茫洋とした風情、心根が絵に描いたような善人であるから血みどろの凄惨な死闘であっても余韻には痛快、爽快、清爽の気が満ちること間違いなしである。

辻原登 『花はさくら木』

「京・大坂を舞台に、即位前の女性天皇・智子内親王(後桜町)、権謀術数の田沼意次が活躍する」
「時は宝暦十一(1761)年、大君は前年に襲職したばかりの十代将軍家治、天皇(すめらみこと)は百十六代桃園の御代である」

「花はさくら木、人は武士」なんて少し前なら時代錯誤もはなはだしい言い草だった。ところが武士道精神が再評価され、『国家の品格』が大ブレイクする今日的状況では現実味をおびて、なるほどとの気分はたかまっている。「京・大坂を舞台に、即位前の女性天皇・智子内親王(後桜町)、権謀術数の田沼意次が活躍する」
「時は宝暦十一(1761)年、大君は前年に襲職したばかりの十代将軍家治、天皇(すめらみこと)は百十六代桃園の御代である」

「花はさくら木、人は武士」なんて少し前なら時代錯誤もはなはだしい言い草だった。ところが武士道精神が再評価され、『国家の品格』が大ブレイクする今日的状況では現実味をおびて、なるほどとの気分はたかまっている。そこで女性天皇即位問題、朝鮮外交上の難題勃発、抵抗勢力を排した改革路線の断行と冒頭の30ページでこの三つを並べられれば、なんだこれは時代小説に名を借りて小泉政権を皮肉っただけの俗流小説ではないか。

2006/05/09

富国論・国家論・金融論の正論を重商主義者田沼意次がこんなトーンで語るにいたっては、経済学入門である。文芸で経済・政治評論を気取ったかに読者を啓蒙するつもりかと、うろんな目つきになってしまうのはやむをえまい。

「富というものは、米でも金銀・財宝でもなく、暮らしに便利なものの豊富さのことだ。それを作り出すものは何か。農民と商人の年々の労働だ」
「人々に、自由に自分の利益を追求させる。市場が自ずと需要と供給の均衡、適切な価格を決めてくれる。貨幣はいずれ紙になる」
「お上のやるべきことは三つ。国防と司法と公共設備の維持」
「それがしは鴻池と組もうと思う。大坂に強力な中央銀行をつくる」

ところがどうだ、著者は読者が眼を白黒させるであろうことは百も承知、それも仕掛けのうち。これなども上質のユーモアである。読み始めたら意表をつく面白さにびっくり。さらに切れ味の鋭いストーリーの展開に夢中にさせられる。理屈抜き、徹底した冒険・ロマンで楽しませてくれる。しかもさりげなく言うべき気持ちを匂わせているところが、まったくもって巧妙である。

朝鮮渡来の武装集団対田沼意次配下の隠密剣士団の死闘、朝鮮よりもたらされた超常現象を見せる宝玉、漢美術の至宝・「清明上河図」の因果、大阪大商人の娘・菊姫の出自にまつわる大秘事となれば、これは紛れもない「伝奇時代小説」でもありうる。実際、荒山徹顔負けの仕掛けと、活劇シーンがふんだんにある。

辻原登は始めて読むのだが、純文学の方かと思っていた私のイメージとはまるで違った作風であって、これは娯楽性たっぷりの時代小説の掘り出し物ですね。ただし、名匠の手になるからくり仕立て、極上の寄木細工といったところか。

皇太后から下働きの女、将軍から商人にいたるまで貴賤、階級の別なく今の我々が使っている口調で粋な会話させている。読みやすさだけではない、違和感なくすんなりと読ませる著者の才覚は現代との同時代性を滲ませている。

時代は爛熟して、駘蕩とした、めったにない幸福が日本列島を支配していた。幸福の中心は京都だった。

「徳川の平和」、これを著者はパックストクガワーナと読ませる。「幸福」「平和」この思索的、哲学的概念を無造作に取り扱うのも著者のしたたかさであろう。言葉を紡いで語られるこの「平和」の描写はまるで絵画を観るごとく写実的である。
冒頭からそうだ。山川、池と樹木に囲まれた都の自然美を俯瞰し、フォーカスすれば仙洞御所の美しい庭園。遊びたわむれる女院、内親王、女御たちのみやびやかな情景がまるで金銀に彩られた数曲一隻の屏風絵のように描かれる。
そして巨万の財をなした豪商たちによる絢爛とした醍醐の花見風景。スポンサーに恵まれた風流人たち、与謝蕪村、円山応挙、上田秋成ら中期文化の中心人物らが田沼とともに島原にて贅を尽くす廓遊びはまばゆいばかりである。
ただ、いわゆる「庶民」の姿はない。「庶民」に代わるもの、それは隆盛の極み、大阪の経済活動そのものである。これがやがては幕藩体制の基礎をくつがえす勢いである。内親王、田沼、風流人たちが京より大坂へ船で下る。その両岸に望む物資流通の活況。内親王が観る大坂の雑踏、人形浄瑠璃の喧噪。この勢いの絵巻物風な描写には圧倒されます。
「不易と流行」という言葉がある。一方にはこの国の自然、伝統、精神の美しさ、清らかさを変わらぬものとしてたたえ、一方で変えなくてはならないとする勢いをたたえる。
西欧流儀の論説にてこれを主張する向きは多いが、恋と友情と冒険を充分堪能できる小説でもって、そこはかとなく語りかける著者の感性、その感性こそが日本人らしさだろうと、私は好ましさを感じるのだ。

五月連休中に読むのにとてもふさわしい作品だった。
ついこの童謡を口ずさんでいた。
甍の波と雲の波
重なる波の中空を
橘かおる朝風に
高くのぼるや鯉のぼり
実にさわやかな読後感である。
限りなく高い青空に、薫風を腹いっぱいにおさめて悠然と泳いでいる。洗練された優美な品格と漫然と力に流されず、凛然として流れを乗り切る勢いがある。鯉幟は日本文化の象徴である。



福井晴敏 『Op.ローズダスト』

国家の体をなさなくなった日本。憂国の野心は世論を巻き込みそのメルトダウンを加速。劇場型で進行する国家転覆の大陰謀。2006年、戦場と化した東京。劇画的細密描写が描く空前の日本沈没。

国際的陰謀・謀略小説はよく読むのだが、このジャンルでは構想の奇抜さ、犯罪のスケール、バイオレンスの過激さなどいずれも海外の作品にはかなわないと思っていた。この常識を覆す凄い作品だ。

特に大都市の物理的な破壊をここまで徹底的に描いた小説は空前ではなかろうかと正直なところびっくりしました。

2006/05/24

冒頭、赤坂TBSに隣接する14階建てのビルで高性能爆薬が炸裂する。この描写力に圧倒されます。一瞬の爆発状況をまず起爆装置の作動開始を顕微鏡的に観察するところから始まります。閃光が熱線が爆風が閉鎖空間をみたし、それが徐々に膨張し、駐車場の車、壁、柱鉄骨をなぎ倒していく。外壁から外へそのエネルギーは噴出し、そのあと、惨状を上空から俯瞰する。ここまでを何十もの絵コンテの積み重ねを見ているかのように錯覚させる描写力なのです。まるで現場に居あわせたようにクラクラとめまいを催します。バーチャルリアリティ型小説とでも呼べばいいのでしょうか。とにかくこの調子で最新鋭兵器の超重量級バトルが畳みかけるように連続するのです。

それから唐突に50年ほど前にみた映画『ゴジラ』の記憶が甦ってきました。
東京湾から上陸する巨大怪獣、とてつもないエネルギーで橋梁、ビルディング、鉄塔など誰もが知っている建造物を破壊します。アンギラス、ラドン、モスラなどとの死闘、警察、自衛隊との戦闘。とにかく見せ場がたくさんあって、この破壊シーンに夢中になって目が離せませんでした。その時代、時代を代表する建造物が崩壊する工夫も面白かった。円谷特撮の映像リアル感を充分楽しめました。

彼らは帰ってきた。『北』(北朝鮮を指します)の脅威を身にまとい、自らを生み出した者たちに復讐の刃をつきつけるために。

ゴジラの破壊力だって自らを生み出した文明への復讐って理屈が当時はあったような気がします。
この国の罪の審判のために、選ばれた戦場ー臨海副都心

とこのゴジラは
臨海副都心を灼熱させ
すべてを押し流して泥の海へ沈
めるのだから凄い!!

ただし、子供だましの怪獣戦争ではないよ。
今の日本の現状をなんとかしなくてはと憂国論を熱っぽく語る人物を登場させています。あの自衛隊の青年将校たち『亡国のイージス』の叛乱分子と似たトーン。言を左右にするマスコミに踊らされる政治家。硬直化した官僚機構。アメリカにやられっぱなしの経済界。民主主義のぬるま湯につかり、批判だけは口にするが何も行動しない、愚民と化した国民大衆。中国、北朝鮮の軍事的脅威が高まるにもかかわらず、平和ぼけし、危機管理能力を喪失した日本と、
ここまでは先日読んだ村上龍の寓話的小説『半島を出よ』であり、我々の仲間だってときには酒の肴で口にする現実に存在する憂国感情です。

大量破壊兵器を所有し、日米同盟を離脱、新しい日本を築こう。と、うかうかすると読者がその気になりかねない高揚感がでてくるのは著者の筆力ですね。次に、そのためには東京を多少、テロの破壊にさらすぐらいの逆ショック療法もいいではないかとされると、過激さもここまで進めばいささか、待てよと言いたくなる。でも、グッとこらえて、まぁいいか。バーチャルリアリティーから目をさまして、これはたかが冒険活劇小説なんだと割り切る。この波瀾万丈を楽しむことにするのがエンタテインメント好きの常識的感覚というものだろう。

ところがものわかりのよい年寄りでも「割り切る」ことができないところがでてくる。
登場する若者たち。ミサイルなんて二、三発くらっても死ぬことはないような超人的戦闘員。
ひとつの言葉、ひとつの命、ひとつの希望を共有した二人の少年

彼らは仲間同士の愛、友情や命を至高のものとしてこれを「熱く熱く語る」。美しき人間たちだ。ただし、それを貫徹させるために臨海副都心を焦土とするというこのねじれた発想はいけませんね。戦火の犠牲になる不特定多数の生命に無関心である輩にはしょせん愛だ友情だ命だなどと語る資格はない。まして新たな国家のビジョンをかたる言葉など持ちえないでしょう。結局、馬鹿な大人が作り出した「この国の状況」を全否定し、過激にキレるのをカッコイイと持ち上げているだけ。うさんくささが後味を悪くしています。

「たかが冒険活劇小説」であればよかったのに。