ウィリアム・ランデイ 『ボストン、沈黙の街』
すべりだしは興味を覚え、途中で退屈し、結末に唖然とする
2003/11/03

著者のウィリアム・ランデイはこの作品の舞台であるボストンに生まれ6年間検事補として公職についたことのある作家でその経験を活かした長編第一作である。

ボストン大学を母の介護のため中退し、事件らしい事件の起こりようのないのんびりしたメイン州の田舎町に戻ったベンは父のあとをついで警察署長になっている。
まずのどかな田舎警察と市民の日常がいい雰囲気で描かれる。ここは西部劇にある平和な地域の善良な保安官のイメージで現代警察とは思えないのだが、これもアメリカの一断面なのだろう。
ボストンの検事補がここで殺害されベンは犯人と目されるギャング団のボスを追ってボストンへ乗り込むのだが、経験不足のお人好しの田舎者が麻薬、殺人、暴力と百鬼夜行の大都会で、しかも癒着、保身、裏切り、強い仲間意識の警察組織のなかで翻弄される。まじめ一辺倒で真実に迫ろうとする主人公についつい同情してしまいます。
これも知らなかったことだがボストンにもかつてのニューヨークハーレムと同様、私の抱いていた汚い、危険、腐ったイメージと同じ地区があることに本当かしらと驚くのだが、作者の履歴はそれが真実だと証明しています。

しかし、新米の田舎の若造がベテラン相手に右往左往するストーリーはハリウッド製警察映画ではよくあるパターンで、新鮮みには乏しい。警察内部にある犯罪組織とのなれ合いにしてもこれを描いたものならうんざりするほどのものがある。捜査は進展しないし、事件そのものにも読み手が興奮するような緊張感は期待はずれである。「疾走する新世代ミステリ」「驚愕のラストまで一気読み!!」とあるがこれはずっとあとのほうになって事件が思いもよらない方向に転換してからである。
たしかに思いもよらない方向転換をするのだが、さていよいよ真犯人と動機の謎ときに近づくにつれ、私は期待感よりも不安感が増してきたのである。推理小説の価値はラストの工夫にある。それが光っていれば途中のお粗末は目をつぶってもいい。私はそう期待していたのだが。
犯行の動機が昨年発表されたある作品に似ているがまさかそうではないだろう。トリックがこれも著名なミステリーにあるプロのミステリー作家なら二度とは使えない大トリックではないだろうなと。そしてその通りになってしまいますともういけません。
最後のサプライズも「それをやっちゃぁおしまいよ」と私は読みながらつぶやいていました。不愉快なだけの「驚愕の結末」ですが「新世代」とはこれを不愉快と感じない世代を指すのであろうか。

蛇足ですが、表紙のデザインをみてください。これは善良そうな風貌をしており主人公としか思え得ないのですが、主人公は白人なのです。装丁の姿勢も無責任ですね。


R・D・ ウィングフィールド 「夜のフロスト」
たまにはドタバタ喜劇も
2001/09/09

エディー・マーフィが主演する「ビバリーヒルズコップ」はちょくちょくテレビ放映されるのを見るが、痛快です。この手のコミカル警察ものは厳格な統制下にある組織に関わらず、破天荒な主人公が規則破りを続け、上司をオチョクリしつつ事件を解決するのが魅力なんですね。
R.D.ウィングフィールド、イギリスの脚本家になる「夜のフロスト」はすでに日本でも評価の高いフロストシリーズの三作目ですが、初めて読んでみました。風采の上がらぬコロンボ刑事をイメージさせるフロスト刑事が大活躍する吉本喜劇のようなものでした。

本部に頭の上がらぬ権威主義の署長、まじめで出世意欲旺盛な新米刑事などのこの手の警察ものに欠かせない脇役も登場、ツッコミとボケ、最近のバラエティー番組のいわゆるギャグを連発し、それがシモネタが多いものだから、事件の残虐性・複雑性には際立つものがあっても、その深刻さと関わりなく展開する底抜け漫才ぶりが読者をとらえているのでしょう。
こじつければ、どこにでもある大組織の硬直性に思いをはせるところでニヤリするところはあります。
「ビバリーヒルズコップ」にしても「コロンボ」にしても映画館で見る作品ではなく、テレビ放映かビデオで楽しむ、まぁそんな作品です

ウォルター・ワンゲリン 『小説聖書 新約編』
至高のミステリー 聖書
2002/12/09

20年も前になろうか、遠藤周作の『沈黙』を読んで、キリスト教義にある不可解な原理にまさに触れたような気がしたものだ。幕府の切支丹禁令下、その迫害にあい、無残な責め苦の中でキリシタンたちは「なぜ神は救いの手を差し伸べてくれないのか。なぜ神は沈黙されているのか」と苦悶の叫び声をあげる。もちろんキリスト者である遠藤周作としてはこの神の不実(わたしは不実であると思うのだが)に対してなんらかの肯定的解釈を示しているはずであるが、私にはさっぱり理解できなかった記憶がある。救い主の崇高な理念よりは殉教者たちの怨嗟の肉声に共感を覚えたのだ。
2年前に読んだアベカシスの『クムラン』ではイエスですら磔刑の苦痛のなかで「なぜ神は私を見捨てるのか」と絶望することが記されていた。これでは往生はできません。この神の子にして救われなかったとするこの小説に虚構としての面白さを感じたのである。
しかし、どうやら虚構と断定するにはそう単純ではないようです。『小説聖書 新約編』への私の関心はまさにそこにあったのだが、驚いたことにここでもイエスは「わが神よ、どうして私をみすてられたのですか」と叫ぶのである。聖書でもそうなっているなら、結局のところ神は不実なのではないかとの思いを改めてしたのです

が、作者はこの絶叫の意味を解釈していない。不実な神を信仰するキリスト教とは一体全体何なのであろうかと疑問を残しつつ、私としては消化不良のままで読了したことになります。
磔刑に処せられる直前の拷問、刑場までの血みどろの歩み、イエスの受けた肉体的苦痛、これを嘲笑する大衆、晒し者とされる精神的虐待、全編を通しては難解な会話で構成されているだけに、この描写だけがひときわ生々しく、とても印象に残りました。
これだけを取り上げても歴史上至高のミステリーは聖書であるとの言は間違いではない。「彼はわれわれの前を通り過ぎる。われわれの時代にとって見知らぬもの、謎として」ドイツ人神学者アルベルト・シュヴァイツァー。

不可解で悩み多きイエスに対してあのユダであるが、こちらのほうがはるかに判りやすく活き活きとしていることに驚かされた。私はユダという人間は金のためにイエスを売った軽蔑すべき対象とばかり勝手に考えていたのであるが、そうではなかったことに気づかされました。
私流に解釈すれば過激民族主義者ユダは旧約の神の教えを信じきっていた男であった。すなわちイエスこそはイスラエル民族の指導者であり、民族を弾圧するローマとそれにくみする堕落した聖職者たちと徹底抗戦し、終末戦争において完全勝利する役割をあたえられたメシアであると確信していた。その勝利の方法はあのモーゼがエジプトファラオに示した天変地異の壮大な奇跡でしかない。ナイルを血で染め、疫病をはやらせ、飢饉をもたらし、エジプト先鋭部隊を劫火で焼き尽くす。そして紅海を割り、自由の国家建設への大脱走。彼はいつイエスがこの奇跡を示すかと辛抱強く待った。しかし、肝心のイエスは動かない。そこで彼は考えた。イエスを窮地に追い込めば必ず奇跡を示してくれると。どの時代でもいるんですねぇ。機は熟した、ここで起爆剤となれば世の中はついてくると軽挙妄動に走る過激派は。ところが彼が期待する奇跡はおこらず、イエスは惨めな死をむかえ、彼は挫折するわけです。この気持ちわからないではない。