北方謙三 『水滸伝』第一巻曙光の章

時は北宋の末期、最後の皇帝徽宗治下。政治のことは宰相の蔡京にまかせて,日夜遊興にふけり,書画骨董の収集に熱中し,豪壮な宮殿,庭園,道観等を造営したりして,莫大な金銭を使った。その穴埋めのために,蔡京はあらゆる手段を用いて誅求を行い,人民を苦しめたので,浙江の方臘(ほうろう),山東の宋江はじめ各地で反乱が勃発し,政府はその鎮圧に手をやいた。

この史実を背景に108人もの英雄・豪傑が腐敗した国家転覆のために勇壮無比の戦いを挑みやがて破れていく大長編口語小説がいわゆる水滸伝である。施耐庵と羅貫中によってまとめられたという。『忠義水滸伝』とも標題する。

高校生の頃だったろうか原典を平易な文体で翻訳したものをよんだことがあった。個々の豪傑たちのエピソードがとてつもなくおもしろかったことと反乱軍が朝廷側に取り込まれてしまう終結のだらしなさだけが記憶に残っていた。一度きちんとしたものを読んでみたいと長いこと思っていたのだが、「三国志」は多くの小説家の手になるものがあるのに引き替え、不思議なことに「水滸伝」はないのだ。岩波文庫で吉川幸次郎・清水茂の翻訳本10巻があるが学究的読み方をするつもりはない。これは残念なことであるのだが吉川英治の『新・水滸伝』は4巻までで未完に終わっている。そこに登場したのが北方謙三版この『水滸伝』だ。

まだ十三巻目が刊行され、どこまで書き継がれるのやらと、全巻発刊されてから一気に読もうと思っていたのだがついに待ちきれずに読み始めた次第である。

北方謙三の作品を読むのはこれが初めてなのだが、国家転覆の大事業であるから一朝一夕にことが成就するわけではないことをしっかりと踏まえ、そのプロセスを語るリアルで緻密な構想力にまず驚かされる。現代の政治・経済感覚で全体構造がおさえられており、強大な軍事力と安定した財源、まずこの二つを確保していく戦略が具体化する過程から物語は始まっている。

反乱軍の核となるべき人材探索のために全国を流浪する花和尚魯智深。彼は?城県の役人宋江とともにある。闇の塩の道と呼ばれる非合法の物流ネットワークを中国全土に張り巡らし、軍資金を蓄積する大商人盧俊義。彼は東渓村の名主晁蓋と肝胆相照らす。
不正が世を覆い、悪が巷にはびこる。私利私欲をむさぼる権力者たち。苛政に苦しむ人々―。やがて大陸を反乱の戦火で覆い尽くす二人の頭目宋江と晁蓋、憂国の志士はまだ静かにそれぞれが寒村にあり、悪政に対する憤怒を蓄積している。

北方謙三が原典を換骨奪胎し根本的に再構築した作品といわれていても、私には比較することができないのだが、そんなことより一巻目からずっしりとした手応えを感じる。
2004/06/06



第二巻 替天の章

10世紀の半ば、北宋は太祖趙匡胤が開封に都を置いた。江南諸国と北漢をつぎつぎに平定し,太宗の初めに中国統一を成就し,君主独裁の中央集権体制を築いた。統一して数十年もたつと,社会のひずみが表面化してくるものだ。官僚と軍隊の数が年々増えて財政を圧迫した。そのしわよせが農民への重税となり,生活に苦しむ農民は流民や群盗となる。賄賂の横行があれば、優秀な官吏・軍人は高潔さが疎まれ、謀反の冤罪で追われる。さらに天才的技能の持ち主である商工業者、教育者、医師、薬師たちもそのためにスポイルされる。

水滸伝といえば「武人」の活躍とばかり思い込んでいるがそうではなく、もちろん「武人」が圧倒的に多いのだが、北方謙三の描く108人の英雄・豪傑は「民間人」にも重要な役割を与え、そのスペシャリスト達のそれぞれが有機的に機能して梁山泊となのる新国家における政治・軍事・民政の基幹を形成するというリアリスティックな構図がある。だから、超自然的怪異が混じるいわゆる伝奇小説的ファンタスティック世界を期待してはならない。

塩製造業者出身の花和尚魯智深、織物職人の息子・行者武松、元禁軍槍術教頭・豹子頭林沖、巡検視の青面獣・楊志、牢役人戴宗、医師安道全、薬師薛永。名前からしてひとくせもふたくせもある。彼らがなぜ現体制からはじき出されたのか。市民の日常生活の中で権勢,賄賂,暗殺,姦通など諸悪の被害者である彼らの生い立ちがひとりひとり個性的に生き生きと描かれる。そのエピソードはまさに衝撃的であり、劇的であり、読者は目をそらすことができないだろう。

人間技とは思えない力量を備えたそれら一匹狼の個性が大同団結する。シンボルは「替天行道」だ。天に替わりて道を行う。大義を奉じて命を惜しまず、腐敗混濁の世を糾すために男たちが集う。正、志、義、誠、信、潔、勇、情………。
この語感、たまらんなぁと、感動するオジサンがいるとしたら、なんというアナクロニズム!と少し前なら顰蹙をかったでしょうね。でも今はちょっと違うかもしれません。「ラストサムライ」「新撰組」「新渡戸・武士道」と武士道再評価の時代であります。失われた日本人の心と武士道をストイックに頭で考えるのもいいけれど、この『水滸伝』はきわめて浪花節的であり、通俗が一貫していて武士道などという言葉はもちろんないし、理屈ぬき、感覚で共感できるところが圧倒的にいい。

梁山湖の山寨は盗賊五千人の巣窟である。宋を敵として戦うためにはこれを第一の拠点とする必要があった。晁蓋、林沖ら数人、謀をもってここをのっとる。梁山泊に「替天行道」の旗が翻った。
こうなりますと一呼吸もおかず第三巻を読み始めることになりました。
2004/06/09

第三巻 輪舞の章
梁山泊の前に強大な敵が姿を現す。


当時の宋王朝は遊興にふける皇帝徽宗の下、政治は宰相の蔡京、軍事は禁軍大将高球ら国家腐敗の元凶である奸臣が牛耳る、財政軍事面でも脆弱な体制であったからそのままでは強靭な軍事力・組織力を有する新国家梁山泊の敵ではありえない。

敵が強大であればあるほど読者はそのストーリー展開に魅了されるものだ。北方謙三はここで現王朝の裏に「青蓮寺」と名乗る精強の謀略集団を登場させるのだ。総帥は袁明。精鋭の私兵特殊部隊を率いる。暗殺、諜報、撹乱、ゲリラ戦。梁山泊の資源、塩の道をたつための執拗な攻撃で見せ場は華やかに盛り上がる。

戦闘の工夫、これだけではない。袁明は現代の読者がなるほどとうなるような国家強化戦略を推し進める。国家繁栄の基礎は経済力にある。それを疎外しているのは弱体のまま肥大化する軍事、官僚機構にあると指摘し、あえて役だたずの官軍部隊を青蓮寺部隊でもって殲滅する。一罰百戒、意に背いた敗軍の将を残忍な処刑で市中の晒し者にする。有象無象の腰抜け兵力を生産活動に追い込み軍事費を捻出する。過酷な軍事調練、果敢な人材登用、果断な綱紀粛正、賄賂まみれの官僚を処断する。彼は無能な宰相をいや皇帝の首をすげ替えてでも現在の君主独裁の中央集権体制を維持し、これで国力を強化すべきとする冷徹な現実主義者だ。梁山泊がめざす中央集権を倒壊した後のユートピア民衆国家が色あせてみえる筋の通った国家観が開示される。池宮彰一郎であればここで現在の官僚政治を批判する主張を濃くするであろうが北方謙三はそうはしない、徹底した通俗の立場を貫くところで実に痛快な構図に仕上がっている。

梁山泊、と名乗ってもまだお話は三巻目であるからして規模は盗賊らの糾合一万の賊徒に過ぎない。官軍が弱体だとしても百万人、禁軍には童貫将軍の4万の精鋭、地方軍にも侮りがたい軍がいる。瞠目すべき大戦略が必要であろうと読者は期待に胸を膨らませるものだ。そこで………。

宋王朝の対外政策に触れておこう。宋は常に周辺の新興国家の圧迫を受けていた。北の遼である。遼に手を焼いた宋は和議を結び多額の銀と絹とを献上することによって兄弟の関係を結んでいる。西夏の侵略にも敗退し、これにも献上品を贈ることで和議を結んでいた。すなわち周辺諸国を対等の国と認めて和を結びしかも多額の歳幣をおくるという唐代にはなかった消極的ではあるが現実的な外交策を選択したのである。歴史的にはやがて東北地方に起こった女真族の金が遼を滅ぼし(1122),さらに南侵して,1127年都の開封を占領し,徽宗・欽宗らを捕らえて北に連れ去るという靖康の変がおこるのである。

この事実を踏まえ、北方謙三の梁山泊は宋の北に居住するこの遼を滅ぼすことになる女真族と同盟関係を築こうとする。北方はこのように壮大なスケールで物語を発展させる。
このあたりが原書「水滸伝」とは全く異なる発想なのだ。

魯智深はひとり蛮族・女真とコンタクトを求めて北へ消える。


第四巻 道蛇の章
三巻まで読むとどうしても原典「水滸伝」とどこが違うのかを当たってみたくなるものだ。


梁山泊の首領である宋江だが、少年時代に読んだ簡略本では共感できる人物とはとうてい思われなかった記憶しかない。中国文学に詳しい高島俊男著の『水滸伝の世界』(ちくま文庫)を参考にして、なるほどと納得したしだいである。

「弱いだけでなく、意気地なしである。腕が立たぬかわりに頭がいいのかというと決してそうではない。短慮で、血のめぐりがわるい男なのである。人格が立派かというと、これはまた決してそうではない。宋江のやることは卑劣で陰険である。見かけぐらいは立派かというと背が低くて色が黒く、さっぱり風采のあがらぬ男なのである」。やはりそうだったのか。絶対に英雄・好漢、大組織のリーダーにはあてはまらない人物なのだ。
北方謙三版の第一の面白さはこの宋江の人格を換骨奪胎し全く別の人物にしたてあげたところにある。

君主独裁を打倒する「替天行道」の志を至高のものとする革命児である。親を敬愛し、兄弟を慈しみ、同士への仁義、誠実を貫き、弱者への思いやりは篤い、男の中の男が宋江なのだ。そこでは今日のわれわれが見失った「人倫」が尊ばれる。ただ彼には「忠義」というあの忌まわしい観念はない。人材登用の妙、識見と大局観による判断力、決定した方針に対する責任感。自らの死を賭した戦さである、人命の重さと大量の死、この背反する過酷な現実に向き合う本物の勇気、カリスマ的吸引力など現代に通じるすぐれたリーダー像がそこにある。一方で彼はいたるところで見えてくる自身の弱さを隠さない。スーパーマンではない俗世界に生きる生身の人間の魅力があって、親近感もあふれる。このあたりの造形がハードボイルド作家の面目躍如たるところだ。

その宋江が第三巻末で妾の閻婆惜を兄宋清に殺害される。宋江の脆さが原因でもある事故である。殺害犯は自分であるとして逃避行が始まった。梁山泊運営を晁蓋に委ね、拳闘の達人、行者・武松を唯一の従者とする、人材発掘と民衆生活の現状把握を目的とした放浪の全国行脚である。

内容は違うものの「閻婆惜事件」は原典でも有数の劇的エピソードなのだ。北方『水滸伝』にはこれら原典のきらびやかなエピソードが形を変えて随所に取り込まれている。原典ではすべての著名なエピソードが梁山泊の帰趨とはかかわりない独立した話として完結しているのに対して北方版ではこれらに梁山泊対青蓮寺の抗争という次のストーリー展開の伏線としての重要な役割を与えている。
このサスペンスフルな仕掛けが第二の面白さである。

閻婆惜の母親・馬圭はもともと梁山泊側の間者であったと設定している。青蓮寺側は周到に殺害は宋江の手によるものとし、殺し方の残忍さを強調する目撃者をでっち上げる。馬圭の梁山泊に対する憎悪をかきたて、セックスをもって篭絡し二重スパイ、梁山泊要人の暗殺者に仕立て上げる。
一方宋江の従者には天衣無縫の恐るべき殺戮者・李逵が加わった。
次の展開がまちどうしいですね。

2004/07/13

第五巻玄武の章
北方・梁山泊のスローガン「替天行道」は原典「水滸伝」のそれとはかなり異なるのではないかと思いつつ………。


梁山泊の首領は宋江と晁蓋である。ここにやがて数万人の賊徒が結集する。108人の親分たちは宋江の主張する革命思想に共感するのである。それを書き表したものが檄文あるいはパンフレットの「替天行道」だ。その具体的内容は明らかにされないのだが、おそらく君主独裁の権力機構を打倒し、民の安寧と繁栄を希求する「民主」の政治機構を擁立せんとする主張を平易にしかも熱烈に語りかけている小冊子であろうと推測できる。
この「志」に無頼の輩、失意のインテリ、体制からドロップアウトした英傑、埋もれた才覚、失うものは鉄鎖のみという底辺にある大衆が涙し、共鳴し、字を読めないものも学び、このためなら命を投げ出してもかまわないとまで心酔することになるわけである。しかし、どう考えても画に描いたような政権構想にすぎないのだから「意気に感じた」程度では宋王朝を倒せるまでの民の力の結集はありえまい。この設定はいかにも無理がある。

原書の水滸伝にもこのスローガンがある。中国の思想で「天」とは世界に秩序を与える絶対的な力の根源をさす。その人格化された概念が宇宙にある存在としての天帝であり、天子=皇帝とは天帝の命を受けた現実世界の支配者である。天帝は天の命令を下して一つの王朝に天下の統治をまかせるのであり、この構造自体が「替天行道」そのものなのだ。したがって「替天行道」には王朝制度を覆すという発想はなく、逆に「天=天帝=天子」という絶対者のために「忠義」を貫く思想であり、国体護持の保守的思想なのだ。水滸伝はこのために忠義水滸伝とも称される。

高島俊男著『水滸伝の世界』を読むと原書にある宋江の狙いとは英雄・豪傑・知将を集め、力を誇示しやがて朝廷にこの軍団を高値で売りつけることにある。天子様の錦の御旗の下に帰順しようとは一笑に付すべきといおうか、いかにも次元の低い目的だ。戦後の少年時代に読んだ「水滸伝」の尻切れトンボで後味の悪さが残る印象であった理由はこの骨格にあったのだと思う。戦後の大衆小説家が本格的に「水滸伝」を取り上げなかったのもこの骨格の根本を変える発想がなかったからに違いない。
しかし当時の中国の時代性からすればこれは現実的な発想であり、匪賊、強盗の連中が結束することになるのもうなずけるのである。

ラストまで読まないと断定はできないのだが、このために北方版『水滸伝』の骨格は時代性を無視した作家のご都合主義だと言えそうである。歴史小説としては限界を感じる。

しかしだ。だからこそ、水滸伝を現代の読者にここまで楽しく読ませる物語に変えることができたのである。歴史小説ではない。北方の作り上げた独自の大長編冒険小説だと解釈すればご都合主義もいいではないか。その無理を一蹴してこのエンターテインメントを存分に堪能したい。
2004/07/04


第六巻 風塵の章
集団戦闘を楽しもう


第五巻から第七巻までは武松と李逵のふたりだけを供に従えた宋江の逃避行を軸として梁山泊の新たな展開が記述される。青蓮寺側の暗殺者として抱きこまれた馬圭の手引きによる青面獣・楊志の壮絶な死、女真族との同盟工作に失敗し囚われた魯智深がみずから手首を切り落とす決死の脱出、青州官軍にあって勇猛で知られる将軍、霹靂火・秦明の梁山泊への仲間入りなどページを繰るのがもどかしくなるような緊張のエピソードが連続する。

しかし、このあたりから新たに読み応えがでてくるのは梁山泊軍と官軍の全面戦闘の模様であろう。
第五巻では宋江ら三人が川辺の料亭で江州精鋭軍、なんと一万の軍勢に包囲される。冒険小説ならではだがスリリングに危機一髪の脱出に成功したのもつかの間、川の中州の隠し砦にたてこもる。地元盗賊三百人に守られて二万に達する江州軍・青蓮寺との集団戦闘が開始された。さらに官軍は宋江一人の捕縛のため、全体で五万と増員する。青面獣・楊志の率いる三千人の部隊、豹子頭林沖の騎馬隊五百、ゲリラ戦用の特殊部隊・到死軍そして頭目・晁蓋の率いる梁山泊の本軍は、猛攻を受けている彼らを遅れずに救出できるのか。ついに梁山泊軍と官軍の最初の激闘が開始された。
一般に戦記物といわれる小説ではヒーローの一騎打ちなどに目の覚める格闘シーンを楽しむことができる。ところが戦闘を組織化された集団全体の動きとして描写することに成功している作品は少ない。開戦前夜の虚虚実実の駆け引きや局地戦における奇手奇策の工夫はあっても同時進行しているはずの全軍の作戦行動表現にリアルな迫力に欠けるきらいがある。最近で言えば池宮彰一郎『平家』の源平合戦に特筆するものがあったが、おしなべてこれまでの戦記物ではその描写は平板であった。こんな感じ方をするようになったのは、おそらくは近年の特殊撮影技法が進歩したスペクタクル映画に見られる迫真の映像表現力と比較してしまうからだろう。
もともと原典「水滸伝」が英雄豪傑の銘々伝の寄せ集めであって、集団戦闘はあっさりした表現のようである。高島俊男著『水滸伝の世界』(ちくま文庫)によれば「特に後半の戦闘場面の連続になると、うんざりするほど(大量殺人)が繰り返される。『童貫の軍は大敗し、万余の人馬を失って三十里退いた』『全軍の三分の二を失った』といったようなぐあいである。それらはたいへんな殺戮にはちがいないが、あまり大量すぎて殺人らしくなく、描写もきわめて大ざっぱであるから人間が殺されてもいっこうに血のにおいもない。殺される人間の顔も名前もわからず誰がどう殺されたのやらもわからない」とある。

北方版『水滸伝』ではこの集団戦闘の迫力がこれまでの戦記物とまるで違う。主力部隊も騎馬隊、弓矢隊、歩兵部隊、水軍など役割の異なるいくつかの部隊がある。総力戦ともなれば牽制のための待機軍も必要であり、兵站の確保、本拠地を守る部隊、逆に敵の糧道を断つ部隊、撹乱戦のための特殊部隊も必要になる。敵味方ともいくつもの機能が統合的されて激突するのだがその全体像が目に浮かぶような巧みさがそこにある。個々の部隊長の個性が生み出す血と汗と砂塵にまみれた戦闘シーンの迫力、攻めまた退くと使い分ける軍師の判断の妙、それらを俯瞰する総帥の働きと北方はまさに戦いが組織戦であることを圧倒的筆致で描写する。読者は血まみれの剣を振るう戦闘の真っ只中にいると同時に戦況全体をみつめる総帥の対場に立ってこの激戦に参加することになるのだ。さらに読者はここに至る長いプロセス、将軍たちの半生をおもいやって、危うい勝利を得れば安堵し、とくに親しんできた英雄の死ともなれば胸を詰まらせることにもなるのだ。

梁山泊の拠点は梁山湖にある本拠地から東に二龍山、清風山、桃花山、北に双頭山、西に少華山と首都開封を囲む布陣で拡充された。一方、官は新たに冷徹な策士・聞煥章を青蓮寺に送り込み賊徒対策を強化する。各拠点での戦闘は激化し、放浪する宋江一行には絶体絶命の危機が迫る。そして第七巻へ。
2004/07/14

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