佐藤賢一 「カエサルを撃て」
猛々しさの勝利
99/12/19
今年最後のミステリーは佐藤賢一の「カエサルを撃て」になりそう。しかし「王妃の離婚」もいい。この人勉強家だな。
「カエサルを撃て」はガリア部族から見たカエサル・シーザーのガリア戦記です。よく書けている歴史ロマンはいつでも私達の知的好奇心を満足させてくれます。百科事典や歴史地図を眺めながら当時の権力争いを想像することは楽しいことでした。

部族間の統一を理屈ではなくむき出しの本能、獣性をもって成し遂げるガリアの英雄。ローマ旧勢力との葛藤に右往左往、インテリの劣等感から政策判断は優柔不断、しかし戦闘の天才カエサル。この対比が軸になって物語が進行します。
ガリア英雄の暴虐、殺戮、陵辱は敵味方の別なく繰り返され、このシーンは女性、若い人には耐えられないかも知れません。凄い。陽気にやってくれますが。

もちろんとりあえずの最終勝利はカエサルにあるのですが、作者はカエサルがそれまで持てなかった獣性に目覚めたことを勝因としています。ラストはそのカエサルがルビコン河をわたる決意をなすところです。計り知れない犠牲をともなうかも知れない未来に向かって決断を下す……その気持ちの複雑性と孤独感はよく理解できるこのごろです。


篠田節子 『コンタクト・ゾーン』
ド田舎の爺さま、婆さまたちとピカピカのシティ熟女との連帯。古きよき村落共同体の滅びの宿命に対するこの命がけの抵抗に声援を送ろう。
2003/05/31

管理された男性優位の社会で今を生きる女性、その自立を、ミステリー系女流作家のうち服部真澄は「しょせん抵抗しきれないが健気に」、桐野夏生は「性行為と暴力では対等で破滅的に」、篠田節子は「カリカリしながらもしたたかに」と描き分けているように思える。まもなく老後生活に入ろうとするサラリーマンベテランの立場からすると日本経済の再興のためには三番目の女性像を好ましく思えるのだがいかがであろうか。篠田節子『女たちのジハード』はその意味で拍手喝采に値する女の飛翔を書いた直木賞受賞作でした。本著もその延長にある。

東南アジアに位置し、群島からなる架空のテオバマル国。その国にあるバヤン島の高級リゾートゾーンに三人の日本人熟女がけたたましく到着する。金はありそうである。暇もありそうである。男がよだれをたらして寄ってきそうなナイスバディだ。しかもおつむのほうは空っぽのように見える。日本軍の占領下で虐待された過去をもつ現地民を前に、無神経な挑発的言動でふるまうこの三人に、実直な日本人青年ガイドはほとほと手を焼き、愛想をつかす。この三人トリオのブラックユーモア、ドタバタ観光騒動はいつまでも続かない。
テオバマル国にバヤン島独立の内乱が勃発し、高級リゾートホテルの観光客全員が虐殺されるのだ。命からがら逃げ出した三人が無人島でのロビンソンクルーソー体験を経て、ようやくたどり着いたのが山間部の寒村、古い因習にとらわれた閉鎖的部落のひとつである。宗教、習慣、生活の基礎がそれぞれ異なる複数の部族が共存しているバヤン島の現地民には「国家」などという概念は存在しない。よそものがわめきたてるバヤン独立の大義など文字通り他人事である。

著者は明らかに今ある国際紛争の根源的縮図をここで示している。だれが何のために起こしたかはわからないまま、内乱はこの貧しいが平和な共同体を血なまぐさい戦闘に巻き込んでいく。彼女たちにとっては異文化との接触であり、島民たちにとっては伝統文化と現代文明の対立の場である「コンタクト・ゾーン」と私は理解する。

著者の名作『弥勒』の再現である。呪術信仰が規律をたもつある意味で非効率な部族社会に対して、暴力的にでも合理主義の近代国家化を進めざるをえない国際化の激流は過酷であり、救いの見えない地獄図が展開される。資本主義と社会主義の対立が終焉した後、私たちが今経験している新たな対立の構図を寓話的に、今回は『弥勒』よりも具体的にわかりやすく描写しています。ただ、わかりやすいぶん、深みにはかけるのだが。
『弥勒』はまさに絶望の終章であったが、今回は知的で情熱家でスタミナのあるしぶとい女たちの部族民との交流、信頼関係の醸成、精神の成長と大活躍があり、またそれにもまして部族民の辛抱強さと長老たちの知恵がきらめき、黒澤明『七人の侍』のエンディングに通ずる百姓たちの祈りに似たラストによって、淡い光明が差し込む期待をいだかせてくれます。『弥勒』発表後、先のアフガニスタン、今回のイラク戦争と現実世界の対立がこれほど身近な危機として、大規模に深刻化してくると、アメリカ流の正義を受け入れられない文化には救いがないとされますと読み手にとってもやりきれませんからね。


篠田節子 「弥勒」
バーミヤーン大石仏の破壊に見る恐怖
2001/3/17

唐の僧、玄奘が求法の途上で立ち寄ったバーミヤーンにある世界最大級の石仏がイスラム原理主義勢力タリバンの手により破壊された。バーミヤーンの呼称もペルシャ語であるように、この地域の石窟文化はもともと東西文化融合の結晶であった。偶像崇拝を禁ずるコーランの教えに準ずるとは言え、この文化遺産を人質とする破壊活動の根源は精神文化の対立ではない。物質文明の進歩の過程では避けられない、人類業苦の顕れであり、本来、その救済者として神仏がおわすのであろう。

「仏教美術保護のため、ヒマヤラの小国に潜入した新聞社員が直面したのは凄絶なる政変だった」と装丁帯にある篠田節子「弥勒」をこの時期にもう一度読み返してみた。閉鎖的ではあるが、仏教に帰依した国王の支配下、仏教芸術が国家的に保護され、国民は自然とともにつつましくも平穏な生活が保たれている小国、しかし外国勢力との外交関係はきわめて不安定なバランスにある。当然にクーデターが起こる。新政権によって暴露される旧勢力、貴族・僧侶階級の腐敗と民衆からの収奪。軍事政権が進める旧支配層に対する仮借ない虐殺と文化財の徹底破壊。自然との調和を無視した農耕生産の効率化と公平の名のもとに遂行される全人民の奴隷化。数あるホラー小説も顔色なしの現実の恐怖、凄惨な描写には度肝を抜かれる。文化と文明との相克の果てに見る救い難い地獄図がそこにある。しかし、この作品の真の怖さは我々の日常にある普遍的な営みとの類似性である。正しい選択肢はあるのか。最後に主人公は作者によって突き放され無明の闇に惑う。

弥勒菩薩。釈尊入滅後56億7000万年の後にこの世に出現し、衆生済度を果たすと言う。
まだ21世紀だから救われないですね。自己責任で行こう。