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葉室麟 『銀漢の賦』
ところで前総理大臣の小泉さんは加藤廣『信長の棺』を愛読していたと聞くが参院選挙で惨敗の責任者、安倍さんにはぜひこの著を読まれんことをおすすめする。引け際をわきまえた漢(おとこ)のための鎮魂の賦として。
2007/08/05 |
齢60をこえると、自分の半生を振り返り、ほろ苦い感傷にぼんやりするときがあるものだ。サラリーマンだって自分なりに大仕事だったと思える経験がいくつかあって、結果が本当に全体にとってよかったのかと冷静になれば自信こそないのだが、ただただ古きよき思い出として消化してしまう心境でいいのじゃあないだろうか。そして、そういうことを語り合える友がいればなおさら満たされるものだ。
国家財政が困窮し、地方がそれでも自活再生しようとなれば選択肢は多くない。市町村合併か、米軍基地の移転先、大規模ゴミ処理場の建設、あるいは原発基地か。決定する「権力者」に私心がなく善政を施す信念があっても権力世界に身をおくことによって、独善化、凶暴化し支配欲、物質欲、名誉欲の権化と化す。味方ではないものは誰もがそういう一面の事実だけをあげつらう。本当にそうなのか。決して悪事を遂行しているのではない、切り口のひとつに過ぎないのだがその見え方は驕慢であり放恣であり不正に走っていることになる。個人の意思と願望を超えた別のメカニズムによって権力者は翻弄されるものなのだ。
これが葉室麟『銀漢の賦』の印象だった。
今年は時代小説の有卦入り年だが、またまた、歴史考証がしっかりしてしかも現代に通じる人間像を美しく哀しく描いた傑作が発表された。男の交誼を縦軸にし、涙を抑えきれないことでも久々の感動作品である。
「見ると満天の星空である。白々と夜空を二つに分け、瀑布のように地平へと消えていく星群が見えた。あれは天の川だと十蔵が指差すと、牽牛と織女か………。源吾はばかにしたように言った」
小弥太が「知っておるか 天の川のことを銀漢というのを」
この強い絆で結ばれた三人の少年たち、時に敵対しながらそれぞれの信念を生死をかけて貫くのだが、やがて過酷な運命が待ち受ける。
寛政の改革の影響でこの地方小藩も財政立て直しに汲々としていた。百姓の少年だった十蔵は学を積み、一揆のすぐれた首謀者として藩政に立ち向かう。
「少年の日をともに同じ道場で過ごした家老(小弥太)と郡方役(源吾)。地方の小藩の政争を背景に、老境を迎えた二人の武士の運命が再びからみ始めた。」
お家騒動に違いはないのだが、その真相は相当に奥が深い。過去と現在を交互に物語が進む。三人だけではなく周辺の人物、ことごとくの人物がよく描けている。かくされている裏が見え始め、善悪が超越されてくるストーリー展開は劇的である。決闘シーンも上出来だった。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。人生とはカオスにいきることなのだろう。でもそうは達観できないながらも、なんとか生きてやると心を固めることになる。角が立ち、流され、窮屈にいる。そしてあるとき夜空を仰ぐ。子供のときには、ただきれいだと感じた天の川だが、今はその銀河に永久を見る。大自然の美、恒久の真理にうたれる。有限をもって無窮を追うことなかれ、老境を迎えた二人の武士の心境が切々として心にしみる。作者も登場人物たちも老荘の世界観にどこかで惹かれているのではないだろうか。禅道でいう悟りの境地に一歩近づいたのかもしれない。
これが葉室麟『銀漢の賦』のもうひとつの印象だった。
これからは元気な定年退職者がますます増えてくる時代である。そして時にぼんやりすることもあるだろう。そんなときこの作品を読めばどこかに自分に似た人物を見出すはずである。
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山本兼一 『いっしん虎徹』
虎徹といえば新撰組隊長近藤勇の斬殺剣だと講談本の知識はあった。江戸時代を代表する刀工であろう。長曽祢興里(おきさと)、もともと 越前国福井の甲冑鍛冶師であったが、自ら鍛えた当代随一の兜を一刀にして断ち切ることのできる日本刀を鍛えるべく、病床にある妻とともに江戸にでる。入道して古鉄、虎徹と称す。とくに切れ味の鋭いことでは全刀工中第一といわれ、江戸時代の刀剣書に高く評価されている。実際に「三ッ胴截断」「二ッ胴切落」「石灯籠切」などと切れ味を誇る添銘した作が数多く現存しているそうだ。
2007/08/13
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「鉄とともに生きた伝説の刀鍛冶・虎徹の情熱と創意工夫が蘇る。」
いかにも偏屈ものがこつこつと刀を鍛える地味なお話かと手にした書である。しかも本著の大半が作刀関連の叙述である。ところがそうではなかった。山の中の土にわずかに混じる砂鉄の選別から始まる。木炭を選び、たたら炉で吹いてヒにし、その塊を砕き、鍛え上げた鋼にする。さらに吟味した古鉄を混入するなど、土と木と火と水と風、温度と湿度に微妙に影響されながら、曲げて重ねて叩くの繰り返しである作刀の工程、なるほどこれが日本刀なのかと瞠目する詳細な書きっぷりに驚かされた。驚かされたのであって、専門用語の羅列と具体的なイメージがいっこうに浮かばない工程の記述に辟易したのではない。その細かいところは理解できないのだが、一振りの刀に命をかけた男のエネルギーの迸りそのものが著者に乗り移り文章になったかのような凄まじい筆力に圧倒されるのだ。
完成品の評価にしてもそうだ。
「小板目のよく結んだ地金には、地沸(ぢにえ)がびっしりついて、冴えきっている。のたれに互(ぐ)の目交じりの刃紋には足が入っている。刃紋の縁の匂いが昨日の入道雲の縁のようにきりりと締まって輝いている」と説明されてもチンプンカンプンなのだが、筆の勢いですね、なるほど命がけでようやく仕上げたまさに名刀であるとの気持ちにさせてもらえる。
さらに「一振りの刀に命をかけた刀鍛冶の波乱と葛藤の一代記」であることに間違いないのだが、読み出したらやめられないストーリーの展開は第一級のエンターテインメントである。敵討、ライバルとの争い、幕府中枢の権力闘争、幡随院長兵衛のエピソード、死人を重ね合わせての試し切りや生き胴試しの迫力、痛快な兜斬りから迫真の決闘シーンなどなど、見せ場はたっぷりある。これに夫婦情愛の変遷がかかわり、主人公の精神的成長が刀工の技の熟達に比例して語られる。とにかく贅沢に面白さが詰まっている。
ところで日本刀について、ある解説をみるとこうあった。
「武器としての日本刀に対して強く求められるものは<折れず、曲がらず、よく切れる>の3点であって、互いに相反するこの要求に応ずる道として,折れぬためにはやわらかい心金(心鉄)を中に入れ、曲がらぬためには堅い皮金で外から包み、よく切れるためには刃先部にさらに一段と堅い鋼を別に加えているのである。」
この作品でも同様なことが書かれているが名刀とはそれだけではない。「ただ斬るだけの刀なら美しい姿など必要ない」のであり工芸技術の粋としての美しさがなければならない。さらに「死生の哲理をきわめ、なおそのうえで、実際に人の生き死にをつかさどる道具であるならば」品格と尊厳が備わる。虎徹会心の作を見る病床の妻(まさに糟糠の妻なのだが)、「澄み切った青空のかなたに雷神がかくれているような………」と細めた目からひと筋を涙が頬をつたう。
「所詮は人間のなす業である。木、火、土、金、水の五行を操れるなどと思うのが、そもそもの傲慢のかぎりだ。」との心境に達する。日本人は他の民族にはない刀への思い入れがある。武器は人殺しのためのものであるが、日本刀の刀工には原爆を生んだ西洋錬金術とは異質の精神構造があるのだと思う。
昼のバラエティ番組を見ていたら相撲協会が下した横綱朝青龍の処分にモンゴルの大統領が大いに怒ってなにやら国際問題になっているそうだけど、本当かしら。もともと相撲は日本の神事でありスモウチャンピオンには品格と尊厳があるものよ、それが国民感情なのよと、言ってもわからぬ方たちには本著を献上したらいいのではないか。
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藤原伊織 『名残り火 てのひらの闇U』
2007年5月17日に逝去された藤原伊織氏の遺作である。2002年から2005年まで別冊文芸春秋に連載されたもので連載終了後、全38章中第8章までは著者が加筆、改稿作業を完了していた経緯のある遺稿だそうだ。氏の食道ガン発症を知ったのは2005年5月だった。5年生存率20%と告知された「ファンキーなじじい」は復活を切望した私達の期待むなしく2年の闘病生活を送って逝ってしまった。
氏と同世代の私はメランコリックに自分の軌跡を重ね合わせつつこの遺作を読んだ。
2007/10/26 |
私より4歳若いとはいえまずは同世代といえる。世代を共有してきたものとして1996年、江戸川乱歩賞、直木賞を受賞した『テロリストのパラソル』を読んで、著者と一体になったかのような郷愁がかきたてられた。その濃厚な味わいが長く心にとどまる作品だった。
そして1999年11月に読んだのが、急速なバランスシートの悪化、株価の急落、空前のリストラ、吸収合併の混乱にある企業を背景にした『てのひらの闇』である。氏は2002年まで電通に勤務するサラリーマンである。わたしも同様にサラリーマンだった。さらに当時、私の勤務する会社がまさに作品と相似形の危機的状況にあったから仕事の合間に読んだものの氏の企業社会をとらえる視点の確かさに目を見張った。当時、企業を単純に悪とすれば売れる類型的な暴露ものの企業小説が溢れていたが『てのひらの闇』はそうではなかった。そんなこともあってこの作品に体全体が引き寄せられる思いだった。
1999年、私は当時率直なところで次のような所感を綴った。
「今、民間企業はそのものが、これまでの延長線上に明日はないという窮状に置かれている。加えて、私達の年代は長いサラリーマン人生の終着点に立たされている。二重の意味で先が見えない。あるいは先がない。年老いた親がいる、独立できない子供がいる、ローンも残っているな、いつ転職か、解雇か、出向かと思い巡らし、寿命だけは無限にあるような気がしている。過去を振り返りその軌跡を自らの責任で評価するそうした崖っぷちに立っているのである。崖っぷちでこそ自信を持って自らの軌跡を評価できる美学を持ちたい。と、こういう人は多いんじゃないかしら。そういう人にぜひ勧めたい作品です。」
『名残り火 てのひらの闇U』はこの激変による新陳代謝があった後の経済社会を舞台にしている。その後、私自身がこうなった………吸収合併、リストラ、会社の名前も変わり、子会社への転出、退職。当時の仲間たち、いや全国の同年代のサラリーマンの多くは遅かれ早かれそうなる運命にあったと思う。思いもかけず、逆境に陥った職場・生活の環境の変化を経験して「名残り火」の今がある。熱かった時代を懐かしいと振り返るほどお人よしではないが、さりとてそれを忘れ去ったならばおそらく自分はなくなってしまうのだろう。だから燃え残りに生きることなのだ。『名残り火 てのひらの闇U』をこんな心境で読めることは望外の喜びだった。
いまはないタイケイ食料宣伝部の元課長、主人公・堀江雅之は企業相手のよろず企画屋に転じた。かつての無二の親友、タイケイ食料の元取締役柿島隆志は流通業界で有数の企業集団・メイマートグループの常務として華麗な転進を遂げた。その柿島が殺害される。流通業界にメスを入れる著者の筆力は相変わらずの冴えを見せる。そしてあの個性的脇役、大原真里、スナック・ブルーノのナミちゃんとその弟のマイク、ナミちゃんの愛車ドゥカティまでが登場し前編と同じく堀江を裏表で支える。坂崎大吾は登場するのだろうかとわくわくするのもいい。ただ、『てのひらの闇』で描かれた堀江を含めたこれらの強烈な個性のいきさつはかなり省略されている。この作品をその気で楽しむのなら、まず『てのひらの闇』を読んでおくべきでしょう。
競争社会の冷徹な論理、そこで真剣に生きるがために葛藤をかかえる経営者や仕事師のサラリーマン、そして男と女の愛憎が描かれる。さらに強い絆で結ばれた人たちがいて、利害や善悪をこえてその厚誼に殉じようとする人情模様がある。流れるような美しい文体によっていやおうなく哀しさ切なさをかきたてられる。
こうした感傷を含めて『てのひらの闇』と『名残り火 てのひらの闇U』。この二つの作品は基本的なところが共通していて、時間軸だけを移動させた同心円のようだ。ただし代わり映えがしないとされてもそれで作品の価値が変わることはない。
時間軸は3年の違いを設定してあるが、私には10年の距離に思える。堀江雅之の内面にそれだけの加齢がうかがえるからだ。そして『てのひらの闇』の冒頭は六本木の夜明けだった。堀江には前にすすむエネルギーがあった。この作品がシリーズ化することを予感させるように生命力が輝いたエンディングだった。だが『名残り火 てのひらの闇U』はそうではない。冒頭は落ちていく夕陽とつめたい風に日暮れる新宿である。そして燃え尽きようとする炎がそのあたたかさを惜しむかのようなラストがあった。
私だけがそうおもうのだろうか。名残り火の世代だから………なのだろうか。堀江雅之がわれわれの前に姿を現すことはもうないのだと気づけば、だれもが読み終えた時に深い憂愁を胸に抱くに違いない。
あらためて藤原伊織氏のご冥福をお祈りいたします。
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