野沢尚 「深紅」
親の因果が子に報い………?
2001/07/12
野沢尚は脚本家としてヒットメーカーであるがミステリー「破線のマリス」では97年江戸川乱歩賞を獲得し小説家としてもその才能を認められている。「破線のマリス」もそうであったが、今回の「深紅」もジャーナリスティックな題材を特異な感覚でメスを入れ、ひきつけられるところがある作品であった。

新興の事業に成功しつつあり、一見恵まれた家庭が幼子二人を含む一家惨殺、猟奇的事件に見舞われる。ただ一人、事件をまぬがれた小学生の少女はその時のショックで精神に障害を受ける。死刑を宣告された殺人者の上申書を読んだ彼女は自分の父が詐欺的手段で犯人の家庭を破滅させた事実を知り、またマスコミが死刑囚に同情を寄せるに及びその心の傷はさらに複雑に骨折していく。父の犯した罪障の重みを背負う己の存在と罪のない弟妹までハンマーで殴り殺した殺人者に対する憎悪の交錯。読みどころはこの特殊な状況設定を前提にした若い女性の心理を丹念に分析していくところにある。さらにこの死刑囚が残した同年の娘の生きざまを垣間見ながら彼女のとった行動は………?徹底的な復讐か?人殺しの娘はやはり人殺しなのか?

「親の因果が子に報い………」昔からある定番の因果応報説を思い出してしまいました。日本の代表的怪談はこの手の説諭が正面からとりこまれています。この作者、思いのほか発想が古いのではないかと。バーチャルリアリティーとしての緊張感はありますが、読み終わってどこか作り物めいて現実感はない小説でしたと気がついた。同じように一家惨殺事件を扱ったミステリーでも宮部みゆき「理由」の切り口、日本の戦後史をなぞった迫真の生活実感と比較してしまいますね。好みの問題でしょうが、われわれの年代ですと共感できるのは後者の視点になるかな。

乃南アサ 「鎖」
二人の女と我が家の女
2001/1/23

最近の女流作家は男勝りに相当骨太の小説を書いています。一読すると男が書いている作品と勘違いしてしまうものもあります。そうした作品読みますと作者の視点が男女の違いを超越した座標軸にあることに気づかされます。乃南アサはこの新しい流れに乗ることなくあくまで女性の視点で、男世界の中で苦闘する女を描くやや古いタイプの作家なのでしょう。新作の「鎖」を読んでここまで演歌調に「女のあわれさ」「女の性」「女のけなげさ」、一方で「男の暴力性」「男の身勝手」「男の包容力」を訴求されますと、いささかたじろぐ思いをしました。
主人公は典型的な男社会である警察組織の中で、セクハラ、いじめに会いながらも、若い恋人との甘い逢瀬を明日への活力の糧とし、かいがいしく働くどこにでもいそうな警官です。彼女がこれもどこにでもいそうな凶悪犯人グループに捕えられ、監禁された挙句サディスティックな暴力を振るわれる。この一味の一員に女性がいるのだが、凶暴な男と同棲して、始終撲る蹴るの目に遭いながらなぜか別れられないという、ひどく気の毒な人なのである。どうもついていけないなぁ。まだこの手の女性って存在するのですね。
もうすぐ30歳になろうかというのに結婚などどこ吹く風と上司を無能呼ばわりしている私の娘にこの小説を読ませたら鼻であしらうのではないか。

服部真澄『バカラ』
2002/06/15


びっくりしました。2002/08/24の日経夕刊トップによれば「カジノの解禁を求める動きが各地で活発になってきた」「自治体が財政難に苦しみ、地域経済が停滞する中、活性化の起爆剤にしようと官民の研究会が次々と発足」特に石原都知事が積極的であると。記事に触れられていないところは声のあるところ利権ありの原則です。
2002/08/25

『龍の契り』『鷲の驕り』と大型の国際謀略小説でデビュー、ミステリーファンを沸かせた服部真澄が今度は日本を舞台にしたネットバブル崩壊後の経済、政治の世界を描いた異色作を発表した。公営カジノ開設を巡る利権争い、巨大な資金を動かす新興のネット長者、闇の政治資金で政界に君臨する大物フィクサー、こうした素材では陳腐なストーリーかとあまり期待しないで読んだが、そうではなくなかなかの力作であった。
表面は優雅な生活を送っているが、実は賭博にのめりこみ、会社のカネに手を出し、それでも賭博をやめられず、のめりこんでいく雑誌記者。賭博場で知り合った男、コンピューターソフトで成功し今はネットバブル崩壊の犠牲者もまた処理しきれない借財に悲鳴をあげている。かつて阿佐田哲也がギャンブルの魔力を描ききった『麻雀放浪記』では家屋敷を売り払い、挙句の果てに女房を売り飛ばす男たちの姿があった。バクチ好きの「業」のようなものを描いて、共通のものを感じた。
服部真澄の『バカラ』はさらに現代の企業、特に新興の企業の経営自体に潜む賭博性、バクチにのめりこむと同様に麻薬に酔いしれるような危うい若い起業家の野心をとろとろと煮詰めるがごとく丹念に映し出してゆく。インターネット事業で成功し長期信用銀行を買収した男、日継が一方の主人公である。「築いてしまった楼閣の維持には、さらに莫大な金がかかる。置いたばかりの箔が剥げぬようにしておくだけでも、湯水のように、金がいる………。日継は顔をしかめて、勝者の劫罰を思った。成り上がりさえしなければ、満足感が約束されているというのは、戯言だ。いつでも、何かが足りない。埋めても埋めても、足りない。いくつの壁を越えても、物足りなさが、いらいらとまとわりつく。わが世の春を謳歌しているかのような今日のこの男も、やがて知るときがくる。パーティーが終わって、荒野のような空間に一人残されたときの虚しさときたら………。」
どの登場人物も「欲」を追求してやまない人々である。その先にある無明の闇を作者は執拗に追っている。実はこれがやや観念論になっている。娯楽と文芸の二兎を追ったところで果たして成功といえるかどうか。