グレン・ミード 『地獄の使徒』

グレン・ミードの新作が出版され、『雪の狼』が強く印象に残っていたものだから大いに期待して飛びついた。『雪の狼』の後にいくつかの長編を発表していたとは知らず、この『地獄の使者』を久々に発表した第二作だと思い込んでいた。ソ連要人暗殺を軸にした『雪の狼』は第一級の大型スパイサスペンスだった。これがグレン・ミードの作風であり、『地獄の使者』もその流れかと思ったのだがまったく違うジャンルに驚いた。

2007/0727
「<悪魔の使徒>と異名をとって残虐な連続殺人犯が処刑された後も相次ぐ同様の連続殺人!模倣犯か、それとも処刑から甦ったのか」
この犯人、何人の人を殺したのか、数える気にもならなくなるほど、殺人のシーンが溢れる。しかも狂信的で内臓をえぐり十字架を置いて火をかけるというグロテスクシーンが満載。そして薄気味悪さはこれは怪奇ホラー小説ではないかと。

「連続殺人犯の処刑にFBIのケイト・モランは立ち会う。彼はケイトの婚約者もその娘も手かけていた。そっくりの殺人がアメリカ、パリで相次ぐ。不可解な事件を解決すべく、ケイトは捜査に乗り出すが………」
因縁浅からぬ女性捜査官と犯人の追いつ追われつのマンハント劇だ。そして幽鬼のような犯人に暗い穴倉に追いつめられるのは閉所恐怖症のケイト側であるから、読んでいてかなり緊張感は高まる。

犯行現場の広がりは国際的だが「恨みと憎しみが重なり合って禍々しい殺人の連鎖を引き起こしていく」このストーリーでは『雪の狼』のようなスケールにはなっていない。

トマス・ハリス『ハンニバル・シリーズ』的サイコサスペンスであり、ジェフリー・ディーヴァー『ライム&サックス・シリーズ』的ジェットコースター追跡劇である。

『地獄の使徒』か。わかりやすいけど、ちょっと電車のなかで読むには気が引けるタイトルだな。古めかしいですね。大昔の少年雑誌にはこの手のタイトルがよくあったが、最近は見当たらない。寝苦しい真夏の夜にさらりと読むにはいいかもしれない。

ドストエフスキー 『カラマーゾフの兄弟1』亀山郁夫訳

巻末の訳者・亀山郁夫による「読書ガイド」は難解なこの作品を理解するうえでとても重宝である。適度な突っ込みだから読者の自由度を束縛することなく、ポイントをついた手引書になっている。そしておそらく訳者の個性的な翻訳姿勢によってこの書はいまや話題のベストセラーとして注目されることになったのだろう。

世界文学の最高峰とまで言われるくらいのドストエフスキー文学は率直に言って難解である。私のレベルではすんなりとは読むことはできない。ドストエフスキーを読むには腹を据えて気合を入れてとりかかる、それがこれまで『罪と罰』『悪霊』をとにもかくにも読み終えた者の心得だ。さらに、できれば訳者を選択し、わかりやすい訳本を選びたい。これは岩波文庫の米川正夫訳『悪霊』にコリゴリして新潮文庫の江川卓訳でようやく読み通せた経験からである。新潮社の原田卓也訳が何年も積読状態にあって、しかし今回の亀田郁夫訳の刊行でこれがわかりやすいとの評判になって、とびついたものだ。

なかなか手に負えない理由の根本にわたしがロシアを知らないということがある。ロシアの歴史、政治、思想、宗教、文化、社会生活さらに国際的環境の変動などが小説のテーマと深く関わりあっている(いやむしろロシアそのものの縮図を描いているのかもしれない)のだから、ある程度の予備知識は欠かせない。腹を据えて取り掛かるというのはこのお膳立てのことにある。でもそれをやりはじめると、なにか勉強するとか研究するとか、読書する楽しさとは別の机の向かうとの堅苦しい気分になってしまって、小説世界に没頭できなくなるのだ。これは困ったものである。それでも『罪と罰』『悪霊』のときに仕込んだ知識が今回は役に立ちそうな気がしている。


2007/09/13


冒頭「著者より」の序文が面白い。
「むろんだれにも、なんの義理もないのだから、最初の短い話の二ページ目で本をなげだし、二度と開かなくたってかまわない。しかし世の中には、公平な判断を誤らないため、何が何でも終わりまで読み通そうとするデリケートな読者もいる」とある意味で読みにくさを自覚したうえでの挑戦的な宣告が掲げられている。「公平な判断」をするべきデリケートな資格はないのだが、山登りと同じ、なにがなんでもと、とにかく読んだという達成感をうるために私は読んだ。

ドストエフスキーが難解であることはどうやら小説の仕組みにありそうだと私なりに気づいたことがいくつかある。

第一に挿話がめっぽう面白いところである。登場人物の、あるいは登場人物の語るこれらの挿話はそれ自体のディテールにより時に長大であり、それ自体で重みあるテーマをもった一つの短編小説のように全体にちりばめられている。そこでわたしは目を奪われてしまう。愚かなことだが、読んでいるうちにプロット全体とのかかわりを見逃してしまうのだ。いつ、どんな状況で、だれがあの話をしたんだっけ?と。つまりこれが挿話ではなくプロットの重要なパーツであること、全体のなかにすっぽりとおさまるべきものであり、なくてはならないものだということが頭で理解しつつも実際にはわからないままになってしまうことがあるのだ。それだけではなく、全体とはあまり関連性のない本来的挿話も混じりこんでいるのだから私には救いようのないジグソーパズルなのだ。すくなくとも一度読み通しただけではこの嵌め絵の完成作品を見ることはできないだろう。

第二に一つの事実に対して登場人物たちの心理に照らして複数の真実が存在することを語る小説だということである。それはひとえに人間の心の襞を解剖学的な緻密さで広げていく作業の積み重ねで構成されているからである。私が「それではいったい真実はなんだったのか」といらいらしながら作者に問いかけたくなる場面がいくつも出てくる。しかも作者ドストエフスキーが客観的に叙述する構成ではなく小説は「わたし」という人物の語りでなっているのだからよけい始末が悪いのだ。
序文「著者より」にこんなくだりがある。
「とくに昨今の混乱をきわめる時代、だれもが個々のばらばらな部分をひとつにまとめ、何らかの普遍的な意義を探りあてようとやっきになっている時代はなおさらである。」
このくだりは今の日本に重ね合わせてもいっこうに差し支えないほど意味深長であるがそれはさておき、ドストエフスキー自身「人々に明快さを求めることが、かえっておかしいというべきなのだろう」と明快さをもともと放棄していることである。

第三に心理の複雑性に加え「言葉の多様性」といわれるところである。単純な例で「笑った」と表現されていてもこれが朗笑であるのか冷笑であるのか嘲笑であるのか苦笑であるのか失笑であるのか。その程度なら文章の前後でわかるかもしれないのだが、ある表現がロシアの精神風土を前提にした言葉となればもう降参である。しかもそれを日本語に変換したとなればわかりにくさの責任は訳者にもあると指摘してよい。

さてこの亀山郁夫訳だがうたい文句に「世界の深みにすっと入り込める翻訳をめざして………」とある。わかりやすい翻訳だと感じた。私は「すっと入り込め」た。おそらく「言葉の多様性」という難物がかなり解きほぐれているからだと直感する。翻訳の姿勢!もうひとつのうたい文句「自分の課題として受けとめた今回の亀山郁夫訳は、作者の『二枚舌』を摘出する」つまり亀山郁夫の主観がかなり入り込んだ翻訳にミソがあるようだ。私は亀山郁夫著「『悪霊』神になりたかった男」を読んだことがある。ここでは『悪霊』の中の「スタヴローギンの告白」をつまみ出し翻訳して解説している。それまでなんどか消化不良のまま『悪霊』を読んでいたが初めてこれで目からうろこが落ちた思いだった。にもかかわらずこの著書について批判があることも知った。おそらく彼が現代日本に軸足をおいた彼の視線で翻訳していたからだろう。本著もその姿勢があるから多くの現代人に受け入れやすく、読まれることとなったのではなかろうか。私はその翻訳姿勢を是とする。いろいろな読み方があるべきだし、ドストエフスキーだってそれを望んでいるような気がするからだ。

ドストエフスキー 『カラマーゾフの兄弟2』亀山郁夫訳

全巻エピローグまで読み終えたものの混沌の宇宙に放り出されたような頼りなさでいらだたしい心境にある。最後にある亀山郁夫の解説を読むことは中断してこの酩酊状態をしばし楽しむことにしよう。

2007/09/18

これはもともと未完の作品だから仕方がないのだと割り切ったってかまわないのかもしれない。前文の「著者より」が暗示するように「個々のばらばらな部分をひとつにまとめ、何らかの普遍的な意義を探りあてようとやっきになって」も徒労になる、そんな作品なのかもしれない。それにしても「個々のばらばらな部分」がスポットライトをあびてあまりにも鮮明に浮かび上がり、強烈な印象をもって心に刻みこめられるのだ。
たとえばホフラコーワ未亡人の娘、リーザ。かなり個性的な少女で忘れられない。からだの弱い14歳なのだがアリョーシャを愛している。アリョーシャは彼女と婚約するのだがこのふたりの心理は描き足りないのかよくわからないし、物語全体の中でどういう意味合いがあるのだろうか。

それにしてもドストエフスキーの作品に登場する女性だが、その人格の現代性にはびっくりさせられる。日本で言えば幕末から明治初期が舞台だが当時の日本女性では考えられない自己主張、存在感、精神的自立を備えている。リーザもそうだがリーザの母、裕福なホフラコーワ夫人、フョードルとミーチャの争いの元になる妖艶な美女、グルーシェニカ。極貧の生活にある少年イリューシャの母、狂気の人、チェルノマーゾフ。なかでも印象的な女性はカテリーナである。ペテルブルグの女学校出のインテリ美人、しかし、愛と憎しみ、誇りと屈辱の板ばさみを自覚し時には錯乱しながら、ミーチャとイワンと自分自身の内面的三角関係に身もだえする。このカテリーナは「父殺し」の裁判でミーチャに決定的に不利になる証言をするのだが、たとえば、さてこの女性心理をどう解釈するか、彼女が本当に愛した男はミーチャかイワンか、仲間内で議論すれば喧々諤々かなり有意義な時間を過ごせるのではないだろうか。

ところで『カラマーゾフの兄弟2』はなんといっても「第二部第五編プロとコントラ」にあるイワンの創作詩「大審問官」とアリョーシャの記述「ゾシマの伝記」、この二つのずっしりとした挿話には圧倒される。すでに第一部では長老の部屋で国家と教会の関係が議論され、またスメルジャコフの神の不在論が開陳されている。キリスト教そのものにメスが入れられるのだ(ローマ・カソリックへのメスかもしれないのだがすくなくともには私の手には負えない)。人類史における支配と被支配の起源、神と悪魔の境目、それだけではない現代民主主義政治の混迷を予見するような不条理観。これらを包括した大審問官によるキリスト糾弾の論理はそのとおりだと私には思えるいっぽうで私は信仰の人・ゾシマの語りには心の安らぎを感じるのだ。ただし、私の理性的理解と感性的感覚はせいぜいそこまでしか及ばない。大審問官とゾシマは対立関係にあるのだろうか。そうとも思えないところだってある。カラマーゾフの家族のだれをこの二人に重ねようとしているのだろうか。それにしてもこの肝心なパーツがどのような役割を果たしているのか作品全体の中での納まり具合がさっぱりなのだ。これは残念なことである。読み終えて消化不良のままだから居心地は悪いのだが、原因はここにある。
まるで万華鏡の世界に入ったかのようだ。真も偽も、正も悪もごちゃ混ぜになって常に変化し続ける世界である。しかし中心は変わらない。万古不易のその中心をめぐって対称的にもろもろの変化が生じている。中心ってなんなのだろう。人類の叡智?神の存在?東洋哲学にある道?私はそこで酩酊しているのだ。

だが、今は余裕をもってこの居心地の悪さに甘んじよう。『罪と罰』を読んだときも『悪霊』を読んだときも同じだった。また時を変えて読もう。訳者の解説も読もう。そしてやがて自分勝手な解釈の中で納まりのよさを感じられる時を迎えることができるだろう。