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土屋隆夫 『物狂い』
舞台やステージや高座で、最盛期に到達したころの当時の面影を偲びながら、晩年を迎えた先達たちが演ずる至芸を鑑賞することがある。
2004/05/13 |
鋭い時代感覚はすでにない。目を見張るような新しい工夫があるわけではない。所作や語りに往年の勢いはなく、また容姿の衰えも隠しきれない。それでもなお深い感銘をおぼえるのは現時点の演技そのものにあるのではないのだろう。この道一筋にかけ自己の表現する独自の世界を築きあげたものの誇り、流行におもねることなくひたすら余命をここになげうとうとしているものの情念、時には鬼気迫るがごとくの霊気を受けとめるからではないだろうか。
土屋隆夫氏、1917年長野県生まれ、87才の高齢でおられる。日本を代表する本格推理の重鎮であって居を構えて今なお信州を動かない根っからの土着の人だ。
舞台が同じ信州であることから、1958年の処女長編『天狗の面』に触れておく必要がある。『天狗の面』は都市文化から隔離された村落共同体を知悉している著者のその生活の実感をが生んだ本格推理の名作である。農民に対する優しいまなざし、牧歌的な生活のユーモラスな描写が印象的な作品であった。著者の解説に「横溝に代表される旧派の探偵小説を揶揄した」とあり、遅まきに作家としてデビューした土屋さんの心意気を感じさせる。
最新作『物狂い』は半世紀を経た信州である。『天狗の面』で活躍した巡査の子が今回の事件では警部として登場する。村は町になり、新幹線が停車する。クラブのネオンやホステスの嬌声が夜を彩る。農村共同体は崩壊しつつ、住民の生活、文化、精神風土にも着実に都市化の影響が浸透している。土屋さんの視点はこの現状を捉えつつも、明らかに過去の牧歌的農村共同体への郷愁が断ち切れない。あるいは都会的風潮を拒否してるのかもしれない。
「幽霊」が二つの傷害事件と一つの殺人事件を引き起こす。最近のホラー小説に登場するような都市型の怪奇現象ではない。住民の多くがいまだ古典的幽霊の存在を信じている状況を設定している。犯人を追う捜査陣はすっかり田舎町にとけこんだ警察官たちでありお互い足の引っ張り合いなどせずに和気あいあいと助け合い、どこかのんびりとして、先端の科学的捜査などしていない。映画スターといえば吉永小百合であり、噺家は円生、声色は猫八であるからかなり年をとった警察官のようだ。犯人、被害者が持つ「純愛」「嫉妬」「怒り」などの感情には異常人格者のような歪んだところがなく、「悪意」はあるが「邪悪」ではない。当世では私語になった「結婚前の純潔」に対する価値観についても土屋さんらしい生真面目さで描かれる。人間に対する土屋さんのやさしさが引き続きあふれている。
動機、アリバイ工作に魅力があるわけでない。正直言って作品自体におもしろさはない。時代遅れの感覚だと指摘するのは容易である。
昭和34年ごろ土屋さんはこう語っている。
「これは(『天国は遠すぎる』)、推理小説である。私がこれを書いたときは、四十歳を過ぎていた。お前達は、私がこのような小説に、残された半生の情熱を注いだことを、不思議に思うかもしれない。しかし、これが私の選んだ道であった。
推理小説が文学たり得るか否かについては、多くの議論がある。あるものは、謎の提出とその論理的解明のみが、この小説の使命であると称し、あるものは、それを児戯に類するとして、謎を生み出す人間心理の必然性をこそ、まず考えるべきであると主張する。
トリックか。人間か。議論の高潮する所、一方は文学精神を無益なものとして排し、他方は文学を尊重するのあまり、謎の面白さを捨て去ろうとする。
私は不遜にも、この全き合一を求めて歩み出したのだ。」
ただ私は土屋さんのミステリーにかけたこの一徹さだけで満足しているのだ。
最後にあとがきの1節を紹介しておこう。作家をマラソンランナーにたとえ、処女作からスタートし処女作に戻ることについて書いている。
「わたしが最初の長編『天狗の面』を刊行したのは昭和33年である。これは作品の中心にいくつかのなぞを設定し、それを論理的に解明するという、いわゆる本格物であったが、今度の作品も同じような手法を用いた。つまり55年間の疾走の果てに、スタート地点へ戻ってきたというわけだ。
マラソンランナーの中には、テープを切った後も、観衆の声援にこたえて、場内を一周するひともいるようだ。しかし、満87歳のわたしにそんな余力が残されているかどうか。
今窓の外を舞う粉雪をみながら、わたしはぼんやりとそんなことを考えている。」
観衆の声援にこたえまだまだ一周でも二周でも走り続けていただきたい。
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土屋隆夫「聖悪女」
「本格推理」にひそむ小説としての限界
2002/07/21
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「三つの乳房を持つ女の辿る戦慄の運命。日本ミステリー文学大賞を受賞した斯界の巨匠が85歳の誕生日に書き上げた渾身の書き下ろし長編推理」とある。土屋隆夫の作品は彼が寡作だということもあり、どの作品も丁寧に仕上げられており、作家の実直な人柄がにじみでた、しかも本格推理の常道からそれないものであり、いずれも読み応えのある著作である。
ただこの最新作になるとむしろ「本格」へのこだわりが足かせになって人物が描けきれないやや中途半端な出来上がりになっている。三つの乳房をもつ女に触れる者はすべて不幸になるという宿命論に縛られホステスにおちいる主人公像自体にわれわれの世代から見ても無理があってテレビの2時間ものサスペンス並みの陳腐なストーリーに過ぎない、トリックも工夫した形跡がうかがわれないのである。まして若い読者はまるで関心を持たないであろう。85歳のご高齢にもかかわらず長編に挑むその気概に驚嘆するのであるが、私は氏が生きてきた人生そのものから語りかける、決して「本格推理」にとらわれることない、自然体の作風がふさわしいのではないかと思う。
「副乳」を持った女性が登場し、薄幸の女の短い人生を描いた水上勉「五番町夕霧楼」とは比較の対象にはならないのだが、「本格推理」にひそむ小説としての限界を痛感する。
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土屋隆夫 『盲目の鴉』
謎解きと叙情とのみごとな融合
2003/04/29
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創元推理文庫で土屋隆夫推理小説集が刊行され、たいていの作品は読んでいたこともあり、積読状態でしたが、未読であった『盲目の鴉』を読んでみた。20年以上も前の作品だが、今読んでも傑作だといえるアリバイ崩しの本格推理小説でした。
謎の仕掛けも精緻ですが、実在のふたりの詩人にまつわるエピソードが巧みに織り込まれている。また著者のこの詩人たちに対する独自の視点が読んでいて面白く、著者の文人としての力量を垣間見ることができる。
詩人田中英光は酒色の世界におぼれた左翼崩れでアルコールとクスリによる錯乱状態で自殺する。この現場を目撃した少年は同じ現場にいた少女とエロティックな体験をするのだが、その強烈な記憶を忘れられないままに、いまは文芸評論家と成長し、あらためて田中英光の新資料を求めて長野に旅立つ。そして行方不明になる。その頃、東京で殺人事件が発生する。もうひとりの詩人のイメージが浮かび上がる。大手拓次。難聴者であり唯一交情を持った女に移された淋病により左眼を失明した幻想詩人である。『盲目の鴉』とは失明の不安に怯える拓二の落莫たる心象風景である。
著者はこの素材を丹念に扱うことにより、犯罪者の悲しみに満ちた暗い情念を二人の異端派詩人のイメージと見事に重ね合わせるのである。
謎解きを主流にした最近のパズル型ミステリー作品にはなかなかこのような謎の周囲にある構築物に手応えのあるものが少なくなった。そして謎の複雑さだけを競うような作品やあるいは作者の独りよがりな衒学趣味の押し付けが目につく。『盲目の鴉』を読むと一層その印象が強まるのである。
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