鯨統一郎 『ミステリアス学園』
メールをやりとりしているSさんからつぎのようなお薦めをいただき早速に読んでみました。
2003/04/09

………今年の各種ランキングにはまだまだ早いこの時期ですが、私の一押しを見つけてしまいました。それが「ミステリアス学園」です。架空の大学「ミステリアス学園のミス研(略称ミスミス研)」で起こった『連続殺人事件』を扱った連作短編の形をとっていて、探偵役はこれまで1冊しかミステリを読んだことのない新入部員という設定です。新入部員のためのミステリ講義を織り込みながら話は進んでゆくのですが、短編7話のタイトルが「本格ミステリの定義」「トリック」「嵐の山荘」「密室講義」「アリバイ講義」「ダイイング・メッセージ講義」「意外な犯人」とくるのですからたまりません。それぞれのタイトルに沿った内容の事件とミステリガイドを楽しめる仕掛けです。惜しむらくはそれぞれの短編にそれ程冴えがみられない点ですが、全体を通してのできは素晴らしいと思います。とにかく凝りに凝った作りの作品で、内容しかり、造本しかりです。ほんの短い作者の言葉やエピグラフにもネタが仕込んであるという凝りようです。この作品表紙には「本格推理小説」とうたってありますが、ガチガチの本格ものとは趣を異にしており、所謂「バカミス」に分類される物です。「バカミス」と聞いただけでそっぽを向くリアリティー指向の方も多かろうとは思いますが、作中のミステリ談義の中でその辺のことにも触れられていたりします。読んで損はないと思いますのでお薦めしたい作品です。………

優れた本格謎解き小説、本格推理小説はリアリティーのない絵空事であっても、価値のあるつまり大いに楽しめるエンタテイメントだと思います。なかなかこのあたりの味わいをわかっていただけない方もおられるのですが。この作品はある程度多方面のミステリを読んでおられる方にとっては作中に登場するミステリ談義についてそれぞれに興趣をおぼえることでしょう。私もこの余談を実に楽しく読むことができました。

しかし、「本格」の醍醐味は解決の鮮やかさにあると思います。むしろそれだけでも成立するものです。途中過程が面白ければそれに優るものはないのですが、本筋とかかわりのない無駄があろうが退屈な描写があろうがそれはトリックの醍醐味を満喫させるために作者があえてたくらむ仕掛けでありますから、効を奏すならばという大前提つきで、許されるのは当たり前のことです。
この作品は本格推理小説とあっても純本格とは違いますから「驚天動地」のラストでなく、それでよいとおもいます。むしろこの類のラストは「粋にしゃれる」であればよかったとおもいます。

………とここまで書いたのはいいのですが、まさか、Sさん!「実は私が鯨統一郎である」てなことではないのでしょうね。


黒岩研「聖土」 首藤瓜於「脳男」
ホラーとミステリーを読んでみました
00/10/07
カバー帯の「山田正紀絶賛」と目立った、あるホラー(黒岩研「聖土」)を買ってしまいました。軽快なテンポで進むのですが要所要所で読んだことのあるような、見たことのあるようなネタが想起されるのです。スティーブン・キング「ペットセメタリー」貴志祐介「天使の囀り」中島らも「ガダラの豚」映画「ポルターガイスト」梅原克文「カムナビ」など。パロディーではありませんでしたが滑稽でした。

今回の江戸川乱歩賞の「脳男」ですがカバー帯の「選評より」にひかれて読みました。粗削りな文書表現はむしろエネルギーの発露であり、確かに風変わりな現実感が漂い、特異な主人公像形成の創造力にも作者の才能が感じられます。ただ、この作品も肝心な所で先のホラー小説と同様に、「あれれっ」と首をひねるところがでてくる。しかも興味深いのはその下敷きと思われる物語がマニアなら判るというものではなく、おそらくミステリーファンならたいていの人が読んだであろうサイコサスペンスの傑作(羊たちの沈黙)やたいがいの人が知っているであろう連続猟奇殺人事件を扱った映画(セブン)、テレビで何度も放映された人間の本源的優しさを描いた名画(レインマン)なのです。おそらく作者も選考者もこの要素は折り込み済みであり、その前提に立ってなお評価された作品なのでしょう、きっと。ただ、私はこれを傑作パロディとして楽しみました。

黒武洋 「そして粛清の扉を」
くず鉄を金に変えるか、幻冬舎
2001/3/17
ある新聞のコラムであるが、森総理の国語力のレベルを憂え、故江藤淳の言葉を引用していた。「国語、言語能力を中心とする教育を深刻に反省し、考え直さないと、今後、どんな指導者が出てくるか、非常に心もとないのではないか」と。

黒武洋「そして粛清の扉を」を本屋がつけてくれたカバーをそのままに読んで、森総理ほどではないにしても、この作者はきちんとした国語教育を受けなかった高校生あるいは中学生だとばっかり思っていました。
小説の類は読んだことがないが、劇画が大好きで、テレビゲームには詳しい、ワープロは使いこなせ、辞書の引き方も知っている、そのような頭の切れるヤンチャ坊主。文章全体は稚拙だが、一生懸命辞書を引いてめったに使わなくなった難しい漢字を見つけ出しては、はめ込み、これも誰でもひらがなで表現するところをワープロの転換を駆使してとにかく漢字に変える。背伸びをしたい年頃です。経験がない大人の世界を書くわけだから、そこは想像力でカバーする。何を言いたいのかは自分でもわからないのだから、表現することが出来なくても、それはやむをえない。ほほえましい思いで読み終えた先生としては、この努力を多とし「よくできましたね」と頭をなでてやりたくなりますね。

しかしだ。売文を生業とするものであれば、この程度の作文を小説と自認するのはいかがか。
どうやら文章を書く前に、まず擬音を視覚化した劇画の一こまが思い浮かぶらしい。それを文字で表現するという作業を繰り返しておられるようだが、小説というものはそれではない。文字から、情景を滲ませる手法にある。
さすが幻冬舎の錬金術である。新潮社という名門を引っ張り込み、この提携の主導権を握り、著名作家を選考委員に抱きこんだ上でなんとか大賞まで構想した。しかも、過当競争の出版業界、名を捨て実を取る、コストパフォーマンス重視の一貫した経営方針はニューエントリーとして的を射たものと指摘してよい。消費者マーケットを分析すれば広宣活動次第ではヒットする商品、と着眼した営業姿勢もしかり。しかも売れなくともコストは新潮社、内容が酷評されようと責任はすべて新潮社とするこのリスクマネージメント。企業とはこうでなければならない。
粛清されるべきは作者でもなく、出版社でもない。幻冬舎の営業施策に漫然と乗せられた選考委員の評価姿勢である。巻末の紹介文を熟読するとさすがに内心忸怩たるところがいくらかは滲んでいる。