玄侑宗久  「中陰の花」
成仏できますか?
身内や知り合いの葬儀の席で一番に耳をそばだて、しずかに故人を偲ぶときは、お坊さんの読経にあるのではなく、親しいご友人の心のこもった弔辞にあります。次に興味を持って聞くのは読経のあとで会葬者へ語るお坊さんのお説教です。このところ記憶に残るような、感銘を受けるお話を聞く機会がありませんでした、というよりは最近では俗人より徳を積んでこられたお坊さんが少なくなったのではないかな。
2001/11/30
小説を書く坊さんと言えば今東光、瀬戸内寂聴らを思い浮かべるが、色・恋・欲の世界を赤裸々に書いてベストセラーになった人たちであって、その限りでは解脱とは煩悩に身を焼く経験が必須なのだと身をもって説いていらっしゃる。

今回の芥川賞受賞作の「中陰の花」は現職の臨済宗僧侶の作品ですが爽やかなお説教であり、好感をもって読めた小説でした。この人、高僧にはなれないかもしれないが市井の名僧にはなれるかもしれない。一度本物の説教を聞いてみたいものである。ワープロで下書きをされているようだ。

ミステリアスなテーマであります。「たたり」「霊障」「お祓い」「霊視」「予言」「背後霊」「金縛り」「憑依」「霊能者」「死後の世界」「離魂現象」等々死者にまつわる超常現象はいつの時代でもどの世界でも日常生活にある好奇のテーマであることに変わりはない。高僧であれば快刀乱麻で解答を出すところですが、主人公は僧侶なのだが僧侶にしては正直者で「あの世」を否定しているくらいだからこれらの不可思議現象を半信半疑で眺めている。主人公は作者自身のようなのだが、インターネットで「霊能者」を検索したり、だいたい過去帳をパソコンでデータ管理しているなんて実に親しみのもてる人物である。禅に限らず、宗教は呪術とは違うのである、宗教に「霊法」を期待してもらっては迷惑とのたまわる。禅はきわめて現実的な生活哲学である。これはなかなか説得性がありますね。作者の玄侑宋久さん、京極夏彦の「鉄鼠の檻」にいたく刺激を受けたと云っておられる。祈祷師京極堂こと中禅寺秋彦の哲学と類似点がある。
しかし、数々の不思議をおこした霊能者が死んで、どうもまだ「浮かばれないでこの世とあの世の境にとどっまているらしい」と、更に彼の奥さんは流産した子供の霊がさまよっているけはいがすると、そこでこの魂を成仏させる感動的な奇跡をおこすお話です。

私は超常現象など手品だと思っている不心得ものだから奇跡自体に驚きはしませんが、「成仏」とはなにか、これを深く考えさせてくれました。それはこの前の芥川賞「聖水」の印象があまりに強かったのですね。「聖水」は死にゆくものの「成仏」ですが、「中陰の花」は生きているものの「カタルシスとしての成仏」を説いている………のだと思います。

「やはり世間で言うような『霊障』………、成仏できない霊のいたずらなのだろうか。わかりませんよ成仏の仕方なんて、だいたい亡くなった人が成仏してくれてるかどうかさえ私にはわかっていませんもん。私らが目指しているものも多分故人の成仏じゃなくて、残った家族の心の成仏じゃないのかなあ」
そのとおりだと、私は覚醒しました。

青来有一「聖水」
死を目前にした日本人の基本姿勢
2001/05/12

この現世で生を得ている生身の健康人にとっては、来世の有無など丹波哲郎先生の領域とばかりにバラエティー番組に楽しみ、まして神仏の御加護などと当てにするもヘチマもなく、ただのうのうと、いかなる悪業かは知らず、日々これ涜神の行為を積み重ねしていられるのであるが、パチンコ屋の数ほどあると聞くあまた宗教・宗派のいずれかの門下信徒のかたがたであれば、「まったくもって道理である」と諭されるに違いないこのお話はむしろ凡人の無信心をいたく刺激し、揺り動かし、何やらを覚醒させる働きがあったのである。

ヤレ不良債権の最終処理をと、人心を扇動するマスコミの犠牲者ではあるまいかと思いやるのは筋違いではあるが、芥川賞の題材にしては珍しく誠に風俗的な素材で、傾きつつある地方スーパーマーケットのオーナー経営者が登場、余命いくばくもない病床にあって、よくあることとは言え経営権の承継なる煩悩魔の虜囚におちいる。ここを先途と後継者を指名し、根回し万端抜かりなく、これで往生できるかと安らかなる境地で死を迎えるが、ところがどっこい、さにあらず、信頼していた部下の裏切りにあい、この思いが成就しなかったことを彼岸に渡る直前に理解してしまうものだから、とてもじゃないが死にきれないと、憤怒の焔メラメラと逆上で裏返る眼球が睨む、魂魄この世にとどめ置き恨みはらさで………、平将門や菅原道真公における非業の死もかくありなんとばかりの形相で息を引き取るその寸前………。

まあ、しかし、これは構造不況の犠牲者ではないな、経営における老害であって、この指名者を後継者にしていたら、瞬く間に倒産の憂き目を見るから、部下のほうがまっとうだなと、さらに、息子も会社はお父さんの意向どおりになったよと、嘘も方便、楽にしてあげるべきではないかなどと、俗人は思い巡らすのだが、これはこの作品のテーマではなかった。

で、これは本格推理小説ではないからネタバラシではない、その寸前にどこからともなく伝説の隠れキリシタンの一行があらわれ、静かにオラショを唱和する、それは澄んで深く雨音に調和して響く。奇跡、これが現存する奇跡なのだろう、が起こる。

「生きていくには信心はいらないが、死んでいくには信心がいる」「このあたりが死を前にした今の日本人の基本姿勢なのだろう」、この池澤夏樹の言葉には得心するところが多い。

吉田修一『パーク・ライフ』
没個性的・非社会的人間である「ぼく」がした決断とは?
2002/10/05
吉田修一『パーク・ライフ』、今回の芥川賞受賞作である。
年齢は20代後半か、独身。一人住まいのサラリーマンが、毎日昼休みに勤務先から地下鉄に乗って日比谷公園へ出向き、缶コーヒーを飲み、生ハム入りのクラブサンドを齧り、ぼんやりベンチに腰掛けて周囲の風景を眺めているお話。深刻な悩みはまるでない。生きがいなどという言葉は知らない。家族、家庭、会社、社会という枠組みとのしがらみを感じることがない。自立した個体として枠組みから解放されたいという、そういういさぎよい問題ではないのだ。もちろん情熱などはないし、性的衝動すらない。自分の周辺との摩擦はできるだけ回避したいとするがせめてもの本能的働きのようだ。

私の知り合いに休日には必ず近所の公園でひとときを過ごす方がいる。その方によれば同類の仲間ができるとか、またホームレスとも親しくなるらしく珍談・奇談が聞けるという。普段が多忙な人だけにこのような意外な側面にはむしろ人間としての魅力を感じるものだ。

普通、休日をぼんやり過ごすのは主人公「ぼく」の職場の先輩がいう「土日ぐらいたっぷりとからだを休めないとな」だからである。しかし、「ぼくの場合、からだを休めるというよりも、言葉を休めるといったほうが正しいのかもしれない。周りの人たちとうまくやっていきたいからこそ、土日ぐらいは誰とも会わず、誰とも言葉を交わさずにいたい」と当たり前のようにひとりつぶやく男。読んでいてイライラするばかりである。言葉のコミュニケーションを忌避する人物。会話はあるが対話にならない。友達、母親、会社の先輩、ガールフレンドなど相手との言葉のやり取りもあるのだがそれぞれお互い一方通行で交差することがない。この小説に登場する共通する人物像がこれだ。
でもなんですねぇ、こんな存在感のまったくない男が結構増えつつあるような気がします。怖いことです。

さて似たような女性が登場します。お互い名前も素性も告げることなくただ似た者同士、このパークエリアにおける親近感だけのつきあいのようです。でもさすが女性のほうがスマートですね。日比谷公園近くのギャラリーで自分のふるさとの風景画を見て突然「よし、………私ね、決めた」とつぶやいて人ごみの中に消えていくのであります。「ぼく」は「明日も公園に来てください」と叫ぶのですがどうでしょうか。そして「ぼく」も今何か決めたような気がした………とこの小説は終わるのです。

文芸作品に弱いミステリーファンとしては彼女は何を決めたのだろうと思い巡らせるのであるがいっこうにわからないのであります。読者にとって肝心の意味がわからない小説ほどつまらないものはない。「ぼく」にあきれかえり、小説に憤りを感じ、ついでに芥川選考委員のレベルを疑うことになりました。

その後、私はとても気になるテレビコマーシャルをみました。住宅の間を川が流れている町。川沿いに女が一人、男遊びにも飽きたという感じで、気だるそうに歩いている。飯島直子というタレントかな?「最近、ドンドン電話がわずらわしくなる」とナレーションが流れる。憂鬱そうな表情がクローズアップ。すぐ表情が一転して明るく「そうだ、引越ししよう!」と決断する。引越し運送業のコマーシャルであった。そうか『パーク・ライフ』の女も男もきっとこの程度の決断をしたのだとようやく謎が解けた気分になってほっとしたのである。このコマーシャル、芥川賞ものだぞ。