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北方謙三『水滸伝』 第十三巻 白虎の章
宋国と梁山泊の全面戦闘が引き続き描かれる。梁山泊の大敗する戦もあるがこれまでさまざまな趣向を見せてきた戦絵巻もマンネリ化し、緊張感が薄れてくる。両陣営とも水軍の強化に工夫があって、来たるべき水軍戦の模様が大いに楽しみなのだが、いつごろになるのだろうか。ストーリーの太い幹がここまで拡散すると、大長編もそろそろ結末を見据えた整理が必要であろうと読み手としては傍目八目の構えとなる。
この構えで推測をこころみるとやはり原典及び史実と対比することになる。
原典「水滸伝」100回本の四部構成
(1)宋江を首領とする108人の豪傑がそれぞれの事情で群盗入りし梁山泊へ結集。
(2)勢ぞろいした彼らが官軍に勝利し、朝廷は懐柔策を取って招安。
(3)官軍に組みこまれた豪傑たちが,敵国遼を破る。
(4)江南での方臘の乱を鎮圧するが、豪傑たちはほとんどが戦死、生還者は任官したものの,奸臣によって破滅。
(2)と(3)のあいだに,田虎・王慶征伐を入れた120回本。
(1)の部分だけであとを断ち切ったベストセラー70回本。
すでに北方は何本もの幹を育ててしまっているから原典70回本のところでカッコよく終結することはできないな。
官製反乱軍・田虎の伏線はかなり大きなものなっているから、原典120回本の田虎・王慶征伐はどこかに組み込まれるにちがいない。
外敵遼は女真族・金と宋の挟撃で滅びる。そして北宋は金に滅ぼされる。これが歴史上の事実だ。するとだいぶ前に魯智深が画策した女真族との同盟も大きな伏線になっているはずだが北方は忘れていないだろうな。
青蓮寺総帥・袁明、この十三巻で明らかになった宰相・蔡京のおそらく内容は異なるであろうが共通する「講和」という腹案。原典宋江の目的は軟弱にも官軍に召し抱えられることにある。この折り合いが最大のポイントだろう。ここまで夢中になってつきあってきた読者の期待を裏切らないように終結させていただきたいものだ。
………と勝手な憶測をめぐらせれば、これだけのことを纏め上げるにはまだまだ完結しないだろうと思われるのです。
2004/8/16
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第十四巻 爪牙の章
男女の交情、親子の情愛、子弟の薫陶など人情の機微の色模様も多彩。これもまた通俗の極致なのだが、聞かせる北方節なのだ。
もともと日本人は英雄を好んでもそれは悲劇の主人公であって原典「水滸伝」に登場する英雄のように天衣無縫に暴れまわりカンラカラカラと高笑いする豪傑は大人の趣味とされていないのではないだろうか。
人情についても原典「水滸伝」の英雄・豪傑たちの人情の世界は義や信、誠に生きる男のつきあいの世界に徹していて、それは日本人も好きなのだが、もう一方にある劇的な男女の愛憎や抜き差しならぬ親子の葛藤などには無頓着である。ましてトラウマによって閉塞した人格を軌道修正するお話などありえようがない。
北方謙三『水滸伝』はこの人情の分野でも原典にはない風俗描写を、しかも今日的感覚で、全編に組み込み、楽しませてくれる。濃厚な濡れ場シーンも随所にあって飽きさせない。
戦の進展も政治舞台の変化もあまりない退屈なところだが、このエッセンスが凝縮されているのが第十四巻である。
一丈青・扈三娘(こさんじょう)。108人の一人、海棠の花とあざなされる女丈夫である。扈三娘に愛を打ち明けられない純情な矮脚虎・王英がその情欲をセックスフレンドにぶっつける。扈三娘はなさぬ恋とわかっていた亡き晁蓋への思いを捨てきれない。青蓮寺のクールな参謀・聞煥章はいとしい扈三娘の白い肌をいつかは我が物にせんと身悶えている。最近の少女劇画にありそうなこのポルノチックな、いやそうではない芥川賞も受賞できるかもしれない真の純愛ストーリーの結末やいかに。
ようやく飢えをしのぐ貧困のどん底にあった張横が縁あって梁山泊入りをする。その子、無口な張平には病的な盗癖があった。父は子の盗癖を知っていた。子が武松の大切にしていた小石を盗む。李逵が掟に従い張平の首を切ろうとする。
「これは私の罪でもある。李逵、その板斧で私と平の首を刎ねてくれ」
「そんなこと言われてもよ。俺は、餓鬼だけの首を刎ねる」
張平は不敵な目をしたまま涙を流している。
わざとらしくていやみなお話だ、と言い切れないのは親子の殺し合いが日常化した現在の日本社会だからだ。
王進、元禁軍武術師範。高潔ゆえの冤罪から逃亡し、子午山深く老母と隠棲する。母思いの孝行者。108人の中ではないが梁山泊のシンパ。武術においてはおそらく登場人物のナンバーワン。豹子頭・林沖の師にして、粗暴な九紋竜・史進を男に育んだ人格者。兄嫁を犯し自殺に追いやったことで自己喪失の淵にあった武松の魂を救済する。青面獣・楊志は青蓮寺の陰謀で非業の死を遂げるが、その現場を目撃して、人間の感情を失った遺児・楊令のトラウマを癒す。かくしてこの巻までに梁山泊の精神の支えでもあった隠者が、ここでも盗癖の少年を預かるのである。不幸なふたりの少年の成長が楽しみです。
晴耕雨読、心を俗世間の外に遊ばせる隠者がその生活を通して人間を育て、しかも武術も鍛え上げるという超人的な、この極め付きの俗っぽいところ、いいなぁ。
これはまぎれもない大衆小説の傑作である。
2004/8/17
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第十五巻 折戟の章
いついかなる戦争にもカッコイイ終わり方などあるはずはないのだ。
宋国も梁山泊側もともに戦いに疲れが見え出す。この大河小説の筆の運びも息が切れ始めたかとの印象を受けるが、むしろこの第十五巻は終結へ向けて流れを変えるタイミングのための踊り場なのだろう。
全土に広がった梁山泊の山寨のそれぞれが宋軍の全面攻撃を受ける。首都開封への攻撃拠点流花寨は6万の禁軍、4万の地方軍、3万の水軍に攻め立てられる。双頭山は6万の地方軍に本営を取られ、陥落寸前。二龍山は北京大名府軍4万と膠着状態。ここでもう一押し宋国の攻撃に勢いが加われば一挙に梁山泊は崩れる………。
各拠点での戦闘模様が交互に叙述されるのだが、残念ながらこれまでの合戦に見られた機略、知略もネタ切れになったのかとの印象は免れない。何人かの登場人物のエピソードも平板になって節目の役割に光るものが薄らいでいる。
梁山泊のこれまでの勇ましい連戦連勝の図式はここにいたって頓挫する。宋国にも戦費の調達が限界に近づく。また青蓮寺派の強硬路線に対し、高キュウと皇帝側による休戦の工作が進行する。双方が果てしない消耗戦を続けることは現実の戦争でもありえないことだ。
すでに大量の犠牲者を積み上げてしまったこの戦争の張本人、宋江は「替天行道」の志を堅持したままで明日をどう描くのだろうか。しかし、調停に乗り出す強国もなければ国連もなく、国際世論もない。完全戦勝への夢が断たれた今、帰順、和睦、講和あるいは招安等の選択に大義はあるのだろうか。彼は悩み始めている。
それは宋江の悩みではなく著者の悩みなのではないのだろうか。原典「水滸伝」を換骨奪胎したとして称賛された北方版『水滸伝』である。終結が原典と同工異曲ではここまでつきあってきた読者に申し開きが立たないであろう。
戦争の終結へ向けて。十四巻までの颯爽とした武人の姿はなく、がらりと趣を変えたむしろ敗戦を覚悟した沈鬱、葬送の序曲がこの章にあるような気がしてならない。そしてむしろここからこそが著者の腕の見せ所である。
2004/11/06
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高島俊男 『水滸伝の世界』
「水滸伝」を楽しく読むための格好のガイドブック。北方謙三『水滸伝』の面白さを倍増できます。
2004/08/26 |
著者の高島俊男氏は中国文学の研究者で、著書に『李白と杜甫』『中国の大盗賊』『水滸伝と日本人』『水滸伝人物事典』などがある。私は少年時代に簡略版の「水滸伝」(おそらく100回本)を読んだときの残尿感的印象だけがあったので、今回北方謙三の『水滸伝』を読むにあたって「水滸伝」とはそもそも何であるのかを大ざっぱにでも知っておきたい気持ちからたまたま本書を手にしたのだが、結果的に充分にその目的は達成できた。
水滸伝のあらすじ、主要登場人物の活躍のエピソードが紹介され、ひととおりの筋立てが理解できる(豪傑たちの物語、武松の十回)。
勇気も腕力も力量もなく、頭も悪い、人格も卑劣で、風采もあがらぬ宋江という男がなぜ梁山泊の首領として登場するのか(総大将宋江)。同じように腕力も智謀もなく何の取り柄も魅力もない影の薄い盧俊義が梁山泊のナンバーツーなのか(副将盧俊義)。諸説があるなかで著者の独自の分析が述べられるが、少年時代に読んで釈然としないままであった疑問が晴れたような気がした。
英雄豪傑たちが女にはひどく淡白なのだが、それはこの物語に熱狂した大衆の願望であったする見方も面白いところだ(英雄色を好む?)。
「水滸伝」には人が人を食うという「陰惨の極度」というべきエピソードがなんども出てくる。オハナシにはちがいないのだがそれが一般中国人にとっては理解可能なことであり、一方日本人にとってはそうでないところの感性の違い、中国共産党政権がこのエピソードを簡略化したいきさつを解釈するところも興味が尽きない(人を食ったお話)。
実在の盗賊・宋江三十六人の実話が小説水滸伝として完成されるまでのプロセスには中国大衆の生活の歴史が反映されている(講釈から芝居まで、誰が水滸伝を書いたか、遼国征討、一番いいテキスト)。
宋江三十六人の実話は本来ならず者、盗賊の物語であったのだが、これが誠忠無比、強力無比の天子の軍隊となって帝国の敵・遼を成敗する物語に発展すると「『忠義』水滸伝」とされる。やがて宋江三十六人の実話はまさに「農民の反抗運動であり革命戦争」であって水滸伝は「偉大な英雄史詩」だと毛沢東が持ち上げる。しばらくすれば、いやあれは朝廷に帰順するのだから反動の書であると批判される。あるいは官製の標準版が発刊されたり、ご都合主義の注釈が挿入されたりする。小説「水滸伝」には100回本、70回本、120回本があるのだがこれが大衆に根付いたベストセラーであるだけに時々の政権主体にとって歴史的意義付けが大変やっかいのようだ。政権が変わるたびに猫の目のように変わるところを皮肉たっぷりに解説するところが圧巻である(水滸伝をチョン切った男)。
著者は序列第二十六位の李俊という脱落し生き延びる人物がこの水滸伝の思想、作者の世界観、人生観を体現していると述べている(李俊のばあい)。水滸伝には個々の豪傑のエピソードがたっぷりと語られているが、縦軸に梁山泊という盗賊集団の運動と運命、あるいはその生成、発展、変質、破滅の過程を描いている。無敵の英雄たちの波乱万丈の物語ではあるが「ああすべてはむなしかったのだ」、著者は英雄たちが「夢のまた夢」を見たにすぎなかったのだと解釈する。これは老荘思想にある人生哲学なのだが、こうした一切を空の空なりとする世界観が一貫して色濃く流れているのだと。
さらに著者は、しかし民衆は李俊のようには現実から逃避できないのだ、「さればこそ水滸伝は本体のものがたりより付随的なエピソードによって民衆に知られ、作者の理想を託した李俊はほとんどはやらず、寄席の講釈師から借りてきた乱暴至極、凶悪至極の豪傑たちにばかり人気が集まったのだろう」と結論付けている。
おそらくこれは通説ではないだろう。しかし私には充分に納得できるものがあった。
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