どうやら高村は福澤榮を戦後の本来的保守政治家を総合して割ったような抽象的政治人間として登場させたようだ。政治論、権力構造論、民主主義の現実、国家論、世界観など、政治的個体であると同時に、一族の頭領であり、父であり、夫である人間・榮が思索をつむぐ。言葉で語る。

2005/11/23

一つの個性が政治へ志向する動機はなにか。
自身が担うべき将来を思案した末に、何としても近代日本は政治によってこの貧困を駆逐しなければならないという勇ましい結論にいたったのだ。


それなりの見識と国家観をそなえた良識の政治人間がいっぽうで出身地の繁栄の為に利益誘導をすすめる打算の政治人間である二重人格性。
全国的には自民党は低落したが、わが自民党県連は統一地方選挙でも参院選でも安定勝利し、年末の衆院選でも大勢は変わりそうになかった。現状への不満がさらに自民党支配を下支えする構造は、この年もまた、私たち政治家が間断なく引っ張ってくる公共事業や補助金の銭コによって、強力に補完され続けておったということだ。


さらに一家の繁栄とその次世代への継承といういわば個体としての生存本能もまた政治家のエネルギーである。

「個体と個体の総和を隔てる対立と調和と妥協の構図」が重畳的に組み立てられている。
日本国家に対して福澤栄という個体としての政治人間。国家と福澤一家(福澤王国)さらに国家と福澤の基盤である青森県という地方社会の構図がある。加えて福澤一家と榮、地方社会と榮とにある「対立と調和と妥協の構図」が思索的に哲学的に粘っこく描写されている。

個人個人の総和としての家族であり、地域社会であり、国家である。19世紀に絶対的価値観=神の支配から解放された人類は利害がいたるところで衝突する世界を引き寄せたのだがこの総和としての文明の時間的経過を、国家の進歩をだれの手にゆだねるのか。

もうひとつには時間軸を加えた世代間にこの構図をとらえている。
私には福澤榮の国家観、政治方法論であれば理解できる。しかし次に控える新世代の新たなニヒリトたちは国家には進むべき目的などはすでにない、政治があるとすれば現状の生産と消費の循環を数値化された効率の尺度でテクニカルに維持するところであるとする。榮と同様にこのエイリアンに異様と不快を感じる私は時代にとりのこされる側にたっているのだろうか。

そして政治とは対極にある仏家・彰之もまたおのれ個体の救済もままならぬまま総体の救済、衆生済度の道はやみにつつまれ、現世地獄の宿怨に身悶える。

能動的にかかわろうとするエネルギーの化身、生身の人間・福澤榮をこの不条理に放り込んで、高村薫の冷静は榮の口を通して55年体制の現実を、そして民主主義という観念宇宙の実相を語らせる。あふれるばかりの言葉を紡ぎに紡いで織りなした厚手のタペストリーをまえに私は圧倒された。これは紛れもないハイレベルの現代文学である。

『マークスの山』で警察組織の内側から人間・合田刑事はなにをみたか。『レディ・ジョーカー』で大企業の内側から正道を歩まんとする経営陣にはなにがみえたか。そして良識の政治家・福澤榮がみたものは?
はじめに謎は提起されている。なぜ榮は最果ての津軽にきているのか。金庫番・英世の死はなんであったのか。読者は、はなからこの作品は非ミステリーだと思いこんでいるし、途中では政治ドラマに夢中になっているものだから、忘れかけていた謎がそれこそ怒濤の勢いで下巻の後半にいたって明らかにされる。
そうなのだ。この作品はたしかに『晴子情歌』の続編なのだが、そのまえに高村が生んだ傑作群の間違いなくその延長線上にある極上のミステリーといっても差し支えあるまい。「知のラビリンス」と、ある種のミステリーを絶賛することがあるが、この作品にこそふさわしい。大型エンターテイナー、高村薫の復活である。
ところでこの作品では1967年から1987年まで、要所要所の政局が描かれていますが、物語の最後に当たる1987年にあった自民党の中央でおこる動揺で、根っこはこのストーリーと関連する肝心な事件があえて外されています。(これから述べることはミステリーにはタブーのネタばらしにあたるわけですが、この作品はこの程度のネタをあらかじめ知っていたところで作品価値が低下するようなレベルではありません)
それは日本皇民党事件=竹下ホメ殺し事件といわれます。竹下つぶしのための右翼団体・日本皇民党の執拗な街宣活動に手を焼いた金丸信副総裁が東京佐川急便の渡辺社長を通じて広域暴力団稲川組の石井会長に右翼封じを依頼した事件です。この時に暴力団に渡された金は50億円ともいわれており、自民党と闇勢力の癒着の根深さをさらけ出した事件でした。

そして『晴子情歌』の続編として持ち越されているテーマがある。
自分というもの、それに対峙する社会、その頭上に伸びていく理想や理念の階段のどれもが確固として若かった時代のことを晴子は語っており、半世紀後の自分の息子の世代にはもう、それの全部の形がなくなったことを晴子はついぞ知らない。

ここは彰之が母の手紙の重さに戸惑っているところである。それは今の時代に「生きる原理」を喪失してしまった者の戸惑いに他ならない。そしてこの不安定な漂流状態を現実の政治の場で表現したのが『新リア王』であった。

まだ言い残したことがある。
個人主義が台頭しつつある時代に取り残され、娘たちの裏切りから滅びゆくシェークスピア『リア王』のモチーフは見事に昇華されている。これを含めニーチェありドストエフスキーあり、禅宗があるように、いくつものテーマを重層的にあやどりつつラストには大きな流れを主張する。まさに全体小説としての完成品でもあるのだ。

小慈小悲もなき身の凡夫にして衆生利益を追い求めた二人の男のラスト。
その水のような寄る辺なさに一瞬の寂寞を覚えたに過ぎなかった

榮は彰之の影に語りかける。
そして、ああ君が言おうとして言えなかったのはこれか。君もさびしいか
これは日本人の心にして理解しうる無常観なのだ。
私もこの寂しさに胸がつぶれる思いを禁じ得なかった。