「他人」というものの存在
毎日毎日がとても速いスピードで過ぎていくことを実感するようになりました。夜に寝付くのは8時だったのですが、東京の中学生が中間テストとか期末テストの準備で11時とか12時まで起きているは当たり前のようで、どうもこのままではいけないらしいと気がついたのは1年たった時分、僕は先生からこれを聞かされたときにしばらくは冗談とばかり思い込んでいました。
思えば江戸崎での生活は変化とか変動とかには縁のないのんびりとした十余年だったんですね。消し炭に火をつけ土間のかまどに薪をくべて飯を炊く。井戸は釣瓶からポンプ式に変わったもののガッチャンガッチャンと手こぎでくみ上げ、樋をすえて風呂に水を送る。冬の寒空、星の降るのを見上げながら、用を足すのも屋外の庭にある壺便所まで行かねばならない。玄関から裏戸まですきま風が家の中を通過していく。炭火をおこした炬燵だけが暖をとる唯一の方法だった。それが上京する日までの生活のですから。
子供であったから大人の世界を見通せなかったかといえばそうでもないでしょう。住民全体が四季の移り変わりの中で貫徹している一定の法則に順応して行動する共同体の生活様式にどっぷり浸かっていた毎日だったのではないでしょうか。
餅つきの音がそこかしこで聞こえる正月がすぎて、節分の豆まきを終え、節句の飾り付けを楽しむ頃には農繁期で、学校も休暇を取る農家の子供たちがいるからそれでなくとものんびりした授業がますますのどかになる。夏になればお盆には墓と仏壇にソーメン、ほおづき、果物・野菜であしらった人形、真菰の船飾り、竹で組んだ棚などお供えして先祖を迎える、豊穣を祈念する祇園祭に夢中になって、収穫の季節はまた農繁期だ。帯ときといわれた七五三も町内をあげてのにぎやかな行事で、また月見にはどこの家でも表通りに面した軒先に団子とススキを並べ訪れる子供たちはもてなされたものです。
始業式、春秋の運動会、学芸会も家族総出の活況、遠足に臨海学校(といっても霞ヶ浦にある浮島で行われたのだが)、修学旅行には東京へ行って、そして卒業式が待っている。卒業したといっても全員が小学校から程遠くない中学校へ入学するだけの出来事ですから感傷の残る場面はまずありませんでした。
友達は農家か商店の子らで親がサラリーマンという人種のいることなどは気づきもしません。商店と近郊の農村でなりたつ、自給自足の共同体で、もちろん東京との間で物流は欠かせなかったはずです。しかし、修学旅行ではじめて東京を見たという子たちばかりであることからも、生活の意識には東京との交流はありませんでした。
いたるところに親戚・縁者が住まっていて、どこのだれべえについては三代前ぐらいまではさかのぼって生活しぶりは知れわたっていたもので、その日に誰がなにをしていたかはなんとなくわかって、プライバシーはなく、相互扶助の風土が根付いた共同体でしたから、もめごとがおこるような競争原理などもなかったのでしょう。それぞれは共同体一員の「身内」であって「他人」ではありません。
朝が来て夜が訪れる。春夏秋冬が巡る。この自然の営みが集団の生活をきめるものであって、この循環と無縁の人間関係はなかったし、この循環と無縁にある集団や社会も存在しません。一人一人の個性は目立つことはなく、それは自然という背景に溶け込んでおりました。
星辰の運行とはいささかもかかわりないところでできあがった人間関係、そんな東京は田舎ものにとっては激変というべき環境でありました。父親そのものがなにをしている者なのかわからない「他人」だったわけですから、まして周囲のすべて「他人」という中に僕がいるという具合です。しかし、とまどいはあっても、ひるむことは全くありませんでした。都会とはこんなもんだろうと、ひどく刺激的な環境であって、むしろ未体験ゾーンへの好奇心が先行しました。あたらしい生活環境がそもそも胸のわくわくするミステリアスな世界だったのです。
大人の読物へ
上京した昭和31年は石原慎太郎の『太陽の季節』が芥川賞を受賞し、太陽族と呼ばれた若者風俗が一世を風靡した年でして、この小説はいまだに読んではいないのだが、当時は小説よりも映画が爆発的にヒットし、長門裕之、南田洋子の水着姿の抱擁シーンの巨大スチール写真が映画館の正面に掲げられ、僕ら中学生もおおいに刺激されたものでした。しかも良識人の顰蹙をかった作品だけに、他人の視線を気にしながらひとりで映画館に入るとき、その後ろめたい気持ちに胸を高鳴らせる興奮は他人しかいない大都会でしか体験できない冒険的行動といえばおおげさでしょうか。
木賃アパートの住まいは四畳半、六畳の二部屋でその周囲の壁に本棚がぐるりと、そこに入りきれない本が山積みのままにあったから本に埋もれたなかで暮らしていたことになる。
日本文学全集、世界文学全集も鎮座していたが、毎日がわくわくする体験の日々であったため、ゆるりとこれを読みふける心境にはなく、それでも本好きな僕は短い時間で読み終えられる雑誌の中間小説、大衆小説を愛読しておりました。定期購読誌もたくさんあって、月刊誌は「世界」「文芸春秋」「中央公論」「群像」などには興味のある小説はなく「オール読物」「小説新潮」の中間小説と「週刊朝日」「週刊新潮」の連載小説を読む日々でした。「週刊朝日」では獅子文六の『大番』の連載が終わり今東光の『悪名』が始まる。週刊新潮には五味康祐の『柳生武芸帳』が連載されていた記憶があるが、なんと言っても夢中になったのは柴田錬三郎『眠狂四郎』だ。両者の独自の文体と奇妙なエロティシズム、忍者性、狂四郎のニヒルなダンディズムがなんともカッコよかったですねぇ。『太陽の季節』のあと続いた『狂った果実』『処刑の部屋』などの太陽族映画なんぞとは比較にならない興奮をおぼえました。
深沢七郎の『楢山節考』は江戸崎に一人暮らしをしている祖母を思いやるところがあって記憶に残った文芸作品でしたが、中学生の時に読んだ大長編小説はデュマ『モンテクリスト伯』ただひとつでした。これを読んでいるところを美術の先生に見つけられ、受験勉強をすべき時にこんな面白い小説を読んでいていいのかとにんまりされたことが忘れられません。原田康子の『挽歌』が当時は珍しいムード広告が印象的でベストセラーになり、曽野綾子、有吉佐和子、山崎豊子ら女流作家が輩出したころに、父がこれを読んでみろといって持ってきた単行本が仁木悦子『猫は知っていた』で、この作品が推理小説を読みだすきっかけになりました。
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