曽根圭介 『沈底魚』

今年度の江戸川乱歩賞受賞作。このところ連続して読ませる作品を決定してきたが………。

2007/11/06

アメリカに亡命した中国外交官の証言によれば、日本の現職国会議員が機密情報を中国に漏洩している。この新聞報道で中国と朝鮮の事案を担当する警視庁公安部外事第二課は騒然とする………とスタートは快調ある。
「沈底魚=スリーパー。潜伏期間二十年余り。素知らぬ顔で暮し、覚醒の時を待っているーーー。」
スパイ自身が派手な立ち回りを演ずる冒険小説ではない。ガセネタかも知れない沈底魚をあぶりだそうとする公安部現場の捜査官たちの苦闘の物語である。

親分子分関係が現場に残る古参の集団。空威張りの中間管理職。対立する警察庁と警視庁。警察の横暴に圧力をかけようとする永田町。
ただしこういう構図には新鮮さがない。登場する人物、主人公も含めて類型的だった。

私はこの作品を読む前にある人の講演を聞いた。なかなか面白かった。彼は中国の脅威によって今世紀には世界戦争が起こるという。その際、日本が生き残るには圧倒的に力のある国についていくことだ。つまりアメリカとの同盟関係の一層の強化。彼は当時の安倍内閣のスタッフとして集団自衛権の確立を実現すべく、有識者会議の組織化に尽力していた。ところが今一歩のところで安倍政権が瓦解してしまったことを切歯扼腕していた。かなりのお歳の方でまた何年後かには機会をとらえ、再チャレンジする執念を壇上で見せていたが本当にくやしそうであった。私はそんなことにならずに良かったとするほうだから、「俺が国家戦略を動かしているのだ」との驕りをなんとなく滑稽に見ていたのだが、一方でそういう人物の存在は異様に思えた。

スパイ、逆スパイ、二重スパイ、そして内部の裏切り者。それらを暴き出すゲーム的ドタバタにとどまった底の浅い作品だった。殺人が起こるような国家機密ってなんだったんだろう。講演会を聴いた直後だったせいもあるだろうが、背景にあるはずの現実の外交戦略にもう少し肉薄すれば深みが出たであろうと思われた。

鳥羽亮 『絆 山田浅右衛門 斬日譚』

山田浅右衛門といえば「首斬り浅右衛門」として、死罪人の斬首役であるとの知識しかなかったが、本職が徳川家御佩刀御試御用役だったとはこの作品ではじめて知ったことだ。
実は先日読んだ、山本兼一『いっしん虎徹』で刀剣の斬れ味を鑑定する「試刀」という職業(一太刀で何体の死体を斬ることができるかを基準にして利鈍を試す)があることに驚いたばかりで、おっつけ読んだ山田浅右衛門の家業がこれであったかと偶然の出会いに思わず膝を打った。

2007/12/01

「罪人を斬首するためにふるう剣、山田流試刀術………。その奥義は、密かに懺悔を聞き、安息の境地へと導く慈愛。代々、山田浅右衛門を名乗る者のみが受け継ぐ秘剣であった。」
「科人の哀切極まりない懺悔があぶり出す人間の価値、人生の意味。珠玉の連作短編集」

7代目山田浅右衛門吉利、安政の大獄で頼三樹三郎、吉田松陰の処刑にあたった実在の人物である。この作品は7つの短編集で、安政という乱世を背景にしたそれぞれの罪人の過去が語られる。死罪人の生を絶ち人生の最後に接する首斬り人の誠とは。彼らにはこの世に対する怨念、未練、後悔、憤怒、悲哀などさまざまな断ち切れぬ思いがある。その迷いを一刀両断し、西方浄土へ導いてやることにある。吉利の生き方はこの清冽な精神が一貫している。首を斬る一瞬に罪人の迷いを断ち切る。あぁこれなら間違いなく往生したに違いない、と読む人に余韻を残す哀切のラストがある。そして振り返って、先行き自分が死を目前にした時、いったいなにを思うことになるのだろうとしばしボーッとする。そんな読後感があった。

しかし、待てよとどこか小骨が喉をちょっと傷つけたような、全部が全部きれいごとではないぞと気にかかるところがある。なるほど吉利は罪人に対しては徳を積んだ高僧のような存在だが、では吉利自身が死に臨んだときなにを思い浮かべるのだろう。おのれの生き方に悔いるもののない往生ができるのだろうかとの疑念である。それはどうやらへそまがりの私だけが思いあたることではないのかもしれない。表面の美談とは裏腹に、なにかやりきれない痛みを吉利の心中がかかえていることを著者は巧妙に隠しつつ行間に滲ませている。

浅右衛門家の本業は「試刀」であるがそれは斬首されたあとの死体を据え物斬りにして刀剣の切れ味を鑑定するものだ。稽古ともなればまさになますのように死体を切り刻む。そして鑑定料は莫大な収入をもたらす。もう一つの副業があって、具体的にここで触れることを控えたいが、人の倫にあるいはそむくようなビジネスであり、本業よりも高い収入であったと述べられている。
7つの物語の中で私が強く惹かれたのは「絆」と「病魔」であった。「絆」は長男の吉豊が斬首人としての初体験の場で恐怖と罪悪感から一太刀で首を断つことがでず無惨な処刑現場となってしまうシーンがある。「病魔」は次男の在吉がその副業を「武士らしからぬ所業」となじり父親を忌避するシーンである。いずれの物語もこの迷える息子たちはやがて父親の生きかたに敬服しきれいに終わるのであるが。

慈愛の人・吉利。だが息子たちのうぶな感情こそ人間らしいのであって、この息子たちを前にした吉利は非情の人、極端には人でなしとも言える人格を一方で持っているのではなかろうか。いやそうではなくこの息子たちこそ吉利自身の本質なのだろう。吉利は斬首の際に涅槃経の四句偈を唱える。極楽浄土へ送るために罪人の迷いを切るためである。

それだけではない。自分自身の罪障消滅を念じつつ太刀を振り下ろしているのではなかろうか。


佐々木譲 『警官の血』

この作品には巨悪は登場しない。防衛省事務次官の犯罪。あんな巨悪がまだいたのかとあきれ返る。ささやかな正義の積み重ねをしている人たちこそいい面の皮である。でも盗人にも三分の理、彼は彼なりの「正義」を追い求めていたんだろうね。「自衛官の血」という小説があったとしても、とてもとてもこの現実の迫力にはかなわないでしょう。

この作品を読み終えた先日、銀杏の黄色と桜葉の柿色で染め上がった上野の森から落ち葉を踏んで谷中の墓地を抜け、芋坂を下り根岸界隈まで歩いてみた。中学時代は日暮里駅から西に下った商店街の突き当りの木賃アパートに暮らしていたからこのあたりは懐かしいところだ。芋坂跨線橋から鉄道を見下ろすと、ここでよく煙にむせびながら蒸気機関車を眺めたことを思い出した。『警官の血』はまさにこの周辺が舞台である。私と同世代の民雄少年もここから見える鉄道が好きだったとあった。当時私の父は警察の公安に目をつけられる活動をしていたから、民雄少年には私と反対極にある対称形を見る思いもあった。
そしてプロローグ。昭和32年、谷中、山王寺五重塔の炎上である。もしかしたらあとからつくられた記憶かもしれないのだが、私はアパートの窓からたしかに燃えあがったそれを目撃していた。浮浪者、戦災孤児、傷痍軍人、救世軍、売春婦、愚連隊、ヒロポン。喧騒と猥雑がはじけていた上野。中学生の私だったがその当時の下町の名残りは体感していた。この作品、冒頭から、庶民の生活の場から見たこの上野という特殊空間のディテールには圧倒される迫力がある。

2007/12/06

謎解きの面白さ、組織腐敗の告発、一匹狼的刑事の活躍などを追求した警察小説には数々の傑作があるが、そのいずれとも異なる。警察官の使命とは何か、正義の追及とはなにか、を問いつつ、戦後から現代までその時代とともに生きた警察官の一族、親と子と孫の人間を描いた大河小説である。

「帝銀事件が世を騒がせた昭和23年。希望に満ちた安城清二の警察官人生が始まった。配属は上野警察署。」
私的な思い入れがあるためだけではないだろう。「第一部・清二」ではもっぱら地味な警察官の日常であるが、緊張感溢れる伏線と、濃密な時代背景が描き出されている。とにかく凄い小説が現れたものだ。

ところで戦後になって警察は戦前の中央集権的国家警察体制を抜本改革、いわゆる「民主警察」が誕生した。タイトルである「警官の血」にちなめば、日本警察史上における新しい「種」の創生といえよう。「新種」警察官の使命は個人の生命、身体及び財産の保護および犯罪の予防、鎮圧及び捜査、被疑者の逮捕、交通の取締その他公共の安全と秩序の維持とされた。昭和31年にだれもが口ずさんだ、曽根史郎の歌う「若いお巡りさん」がこれを象徴していた。

安城清二の夢はこの新しい使命をもって街頭に立つ制服警官だった。夢は実現し、受け持ち区域で住人や商人に慕われ、巡回すれば会釈してくれる街の「お巡りさん」となった。駐在所システムによって市民と協力関係を密接にし、生活の安全を守る、市民の生活相談にのる、場合によっては民事上の法律関係へも立ち入り騒動を収める、欲もなくただちっぽけな正義感を積み重ねる彼。民主警察の範たる親しまれる警察官の姿が詳述される。そしてなにかよからぬことが起こるに違いないと読者が不安になる時に………。
「ある夜、谷中の天王寺駐在所長だった清二は跨線橋から転落死する。」
殉死扱いにもならない惨めな死であった。

第一部の清二はいわば誕生した新種警察官の純正種であったと言えよう。純正種であったがための悲劇を暗示しつつ第一部は終結する。
ここから息子、孫へと引き継がれるものはふたつあると思われる。ひとつは「清二の死の謎」であり、もうひとつは「清二の警官としての血(純正種としての素朴な使命感)である。

ところで警察の使命にはもうひとつ、これとは全く異質のものがあると私は思うのだ。それは現体制に敵対する思想や行動とそのための諸組織=結社に対して、これを権力的に排除する役割である。
さらに警察には使命とは別に組織上の抜き差しならぬいくつかの問題点を指摘できる。今でもそうだ。業者(犯罪者あるいは内通者、情報提供者)との癒着。特殊官僚機構ゆえの歪んだ忠誠心。内部不祥事の隠蔽体質などである。

第二部は「父の志を胸に息子民雄も警察官の道を選ぶ。だが、命じられたのは北大過激派への潜入捜査だった。ブント、赤軍派、佐藤首相の訪米阻止、そして大菩薩峠事件………。任務を果たした民雄は念願の制服警官となる。勤務は父と同じ谷中の天王寺駐在所」そして民雄が父の死の謎に肉薄するが………。
第三部「そして三代目(民雄の息子)警視庁警察官、和也もまた特命を受ける、疑惑の豪腕刑事加賀谷との緊迫した捜査、追い込み、取引、裏切りと摘発。半世紀を経て和也がたどりついた祖父と父の、死の真実とは………」さて和也はこれからどのような警察官人生を送るのだろうか。いやそこは暗示されている。

読者は「清二の死の謎」を追うと同時に清二に流れていた「警官の血」がそのままに引き継がれるのではないこと、それの変質を読み取るべきであろう。
第一部はいわば種の起源である。その種は第二部・その息子の民雄、第三部・民雄の息子和也と流れていくが、警察組織のもつ異質の使命と特殊な体質は「警官の血」の純粋さに混じりを加え、正そうとすれば人格が破壊する、そして変質させていくのだ。新たな悲劇が始まる。じわじわとすすむこのプロセスは怖い。ドラマチックだ。ただしその変質あるいは変異のすべてが第一部の起源にもともと内在しているものだとも読みとれる。練りに練った構成である。

これは社会小説の傑作として戦後の政治と人間を描いた高村薫の『新リア王』にひけをとらない重厚な含意をもつ文芸大作である。