佐藤賢一 『オクシタニア』
13世紀フランス南部の豊饒の地「オクシタニア」の覇権と異端カタリ派をめぐる複雑な対立の構図を丹念に描く歴史小説であるが………。
2003/08/06

オクシタニアは当時トゥールーズ伯を中心とする複数の諸侯がそれぞれの領地で繁栄を競っていた。物語は1208年ローマ教皇使節がトゥールーズ伯の家臣に殺害されたことを契機に教皇インノケンティウス3世が討伐の十字軍を宣布することに始まる。北フランスの諸侯や騎士団で組成された十字軍が、オクシタニアの諸侯連合と攻防戦を繰り返し、一時は敗退する。やがて、フランス王の介入による、1244年異端カタリ派の最後の拠点モンセギュールの陥落まで、すなわちフランス王の南部征服完成までが描かれる。もともとこれはローマ正統派キリスト教とオクシタニアに根付いた異端カタリ派との宗教戦争であった。

さて日本人の感覚からするとヨーロッパの歴史にある宗教的支配と政治的支配の二重権力構造がなかなか理解しがたいところであるが、聖と俗、両者の対立・恫喝・牽制・妥協・懐柔・擬制・馴合い・協力、また財政面でのもたれあいなどの多面的素顔が具体的に描写され実に興味深く読み進んだ。したがって二重権力構造下での覇権争いを描く戦国大活劇絵巻と受け止めていたのだが、途中からそれだけではないと気づくことになる。

後半、異端カタリ派の完徳女ジラルダとこれを殲滅せんとする正統派ドミニコ会異端査問官エドモンの宿命の恋愛ドラマに様相は一転するのだが………。作者の意図は単なる二人の恋愛賛歌などではない。権力とは無関係なところにいる一般の信仰心厚い人間が極限状況で神とどのように向き合うかを突き詰める。
世俗の権力者は神に支配されながらきわめて現実的に「神」と折り合いをつけている。聖職者は神の言葉を伝えながら「神」の名の下に権力にあぐらをかき、飽食と悦楽に身をゆだねている。実に不愉快な輩であると誰しもが感じる。肉食,殺生,生殖,婚姻,所有など,いっさいの世俗生活を否定し,しばしば断食して苛烈な苦行を実行するカタリ派ジラルダのほうが神に近いところにおられるのではないかと私には思われる。一方の正統派にあって清貧主義の実践と神学的内容の豊かな説教活動を使命とするドミニコ会修道士・異端査問官エドモンのほうがよほど神のしもべにふさわしく思えるのである。二人の恋愛感情が燃え上がる。しかし、それぞれの神の教えに忠実であればあるほどその対立する信仰心には世俗的「折り合い」など結局はありえないのだ。うまくやればいいものをと言いたいところだが、ラストのモンセギュール陥落におけるふたりの内面の葛藤はあわれである。恋愛が成就できないことをあわれと言っているのではない。神の呪縛から豊かな人間性やあふれる生命力を解放できない人間をあわれと思うのである。

同様のテーマにある著者の作品『王妃の離婚』『カルチェ・ラタン』の直接的人間賛歌に比較するとやや冗長であった。


佐藤賢一 「王妃の離婚」
本格「法廷もの」の傑作をどうぞ
99/08/01
「法廷もの」の定石はしかも醍醐味はあらゆる状況が被告を有罪に落とし込むギリギリの瞬間これを逆転無罪とするハラハラドキドキの駆け引きにあります。
昔々「情婦」という映画を見た。ビリー・ワイルダー監督、タイロンパワー、マレーネ・ディートリッヒ。あのどんでん返しの巧妙さに舌を巻いたことを忘れられません。数年前にもまた映画化されていました。「情婦」の原作がアガサの「検察側の証人」と知って私はそれからいわゆる「洋もの」を読み出すきっかけになりました。
「十二人の怒れる男」。扇風機も壊れた真夏の部屋に閉じこめられた陪審人たち。当然有罪だと思っている。いい加減にして早く家に帰りたい。そこから始まる物語。ヒューマニズム溢れる名作でした。
最近ではこれも映画ですが「告発の行方」。レイプをテーマにした凄絶な女の戦いがありました。

「法廷もの」は「洋もの」に分がありそうです。陪審員制度というのはいいにつけ悪いにつけショウ的要素が多いからでしょう。
日本物でも大岡昇平の「事件」は地道なテーマでしたが傑作の部類でしょう。当時大岡昇平は純文学者としてミステリーを書いてみたかったらしくこれが評価されたのがたいそうご自慢のようでした。

法廷ものの本格ミステリーとあえて申し上げ、佐藤賢一の「王妃の離婚」をお薦めします。
これは一読に値する傑作です。久々に手応えを感じる作品に出会いました。
絶大な権力を背景にした検察陣の前に被告は風前の灯火。複雑な過去を背負った負け犬の弁護士が登場し定石通りの展開。勝つためには手段を選ばない弁護側の手練手管が披露されます。決定打を有する証人の発掘、これを阻止しようとする原告側の暗殺部隊からの逃避行などなど。
でもそればかりではありません。この作品の真価は人間の普遍的な愛憎の葛藤をテーマにしているところです。神権対王権、支配者対大衆、男と女、形式主義に対する抵抗。
魔女裁判、宗教裁判、セクハラ裁判。フランスの当時を私達にわかりやすく説明されていますので現代に通じるテーマを感動を持って味わうことができました。

佐藤賢一 「二人のガスコン」
虚構世界の絢爛を楽しむ

17世紀、フランス絶対王政確立期を舞台にブルボン王朝の一大お家騒動に身を投じる二人の熱血漢の大活劇ロマンであります。ガスコンとは日本で言えば薩摩隼人。

三銃士・ダルタニアンと聞けば、とにもかくにも講談社「少年少女世界文学全集」だ。ウーン、大人になってデュマは読んだことないな。そう言えば「三銃士」の筋書きすら忘れちまった。なぜかダルタニアンという田舎者が花のパリで大活躍することだけはしっかりと記憶がある。田舎の小学生にとっては「血沸き肉躍った」冒険活劇であったのです。

シラノ・ド・ベルジュラック、これは当時、柳亭痴楽の落語「ラブレター」で知った名前だ。
その頃はくだらない駄洒落とばかにしていたが、最近の芸人が自分で笑っている「お笑い」と比べればあの落語は傑作だった。

あぁ、貴女は私の太陽です
月です。星です。シャンデリア
テールランプかカンテラか
原爆、ピカドン、ハゲアタマ
痴楽綴り方教室!

私は貴女をアイウエオ
そして手紙をカキクケコ
嫌ならナイフでサイスセソ
そして命をタチツテト
なんてのもあった。どうしてこんなもの覚えているのだろう。

講釈師、見てきたような嘘をつきとはよく言ったものだが、佐藤賢一、この才人は語るも語ったり、17世紀のパリの隅々、宮殿内を目を瞑っても歩けるのではないかと考えてしまうくらい、よそのお国に通じ、とにかく、本物らしくこさえてあります。池波正太郎が江戸の情景、風俗を書く手並みとはまた別ですね。こっちは今のパリだってトンとご存じないのだから完璧に騙されます。お恥ずかしい話、ダルタニアンもシラノも元々デュマ、ロクサンの手によるフィクション上の人物ではないかとの知識レベルなのですから、百科辞典を繰ってストーリーの虚実を小当たりしますと、これはもう間違いなく史実に違いないと思い至りました。

剣戟シーンも女性を口説くシーンもオペラ、ミュージカル、はたまた宝塚歌劇のように豪華・絢爛・流麗でオジサマ、オバサマ族を興奮させてくれます。殺陣もほんとに懐かしい。あれはおそらく黒澤の「椿三十郎」以降、すべてリアルで肉を断つ効果音入りになってしまいましたが、昔はそうじゃなかった。一種の舞踊でしたね。市川歌右衛門ご存知「旗本退屈男」、坂東妻三郎「丹下左膳」などいちいち見栄を切ったりセリフをつけたりして剣を振るったものです。
そう、この場面の運びは歌舞伎というにふさわしい。「かぶく」=突っ張っています。長唄、義太夫の情景・心理描写と役者の科白が渾然一体化し艶やかな空間を構成しているって感じ。

最近の小説に見られなくなった、「女性にはめっぽう弱い男純情快男児」の恋とロマンと胸がすく活劇。健康的でいいよ。それに古典「三銃士」「シラノ・ド・ベルジュラック」のあらすじも理解できるから、3倍楽しめます。