池宮彰一郎 『平家』
救国の英雄と描かれた平清盛よりも巨魁・後白河法皇の人間性におおいに魅力を感ずる。
2003/11/16
池宮彰一郎が描くところの平清盛は平安末期に摂関政治の頂点に立った藤原一族の独占する強大な官僚機構を打破し、貿易立国を戦略的国策とする新国家建設の実現をすすめる改革者である。池宮清盛はおごる平家の首魁ではない。国家経営のリーダーたらんとした政治家清盛の苦闘の生涯が描かれる。肥大化した官僚機構の弊害を糾弾するその繰り返しは現代政治に対する池宮の悲憤、憂国の情そのままに手厳しく、読むものにとって爽快感を誘う痛烈な政治批判である。しかし現代を生きる池宮は所詮小説家であって政治家ではなく、清盛にただ夢を託するにすぎない第三者的批評家でしかないであろう。当時の未成熟な国富の蓄積を見れば清盛を新国家建設の英雄に持ち上げる池宮流の解釈にはかなりの無理があると思わざるをえない。
この作品のおもしろさは清盛像ではなく、むしろ彼と敵対し、時には手を携え、呉越同舟し、同床異夢を追う、ワルの巨魁・後白河法皇の人間性におおいに共感したものだ。権謀術数の権化、新興の武家勢力をたなごころにおさめ、朝廷内で最高の実権を掌握、独裁者たらんとして、ここは清盛と同じく摂関官僚群の打倒をたくらむ。しかもおのれにある弱さをかくすことのできない凡人でもある。絶対の地位を確立して、ではいかなるビジョンで国家建設を成し遂げるかという理念は彼にはないように見える。私的野心のみ。清盛の夢想よりは、むしろそのほうがリアルで、親近感を覚えるのである。彼の周囲にまきおこる、天皇家の骨肉の争い、院政派対天皇親政派の闘争、錦の御旗を擁立するための公家、武家の複雑な策謀。このまさに百鬼夜行の権力争奪の様相が克明に冷徹にそして現代に通じる解釈で描かれる。忠臣蔵を現代的解釈で描いた『四十七人の刺客』を髣髴させる迫力である。
もう一つの魅力は合戦のシーンにある。『四十七人の刺客』がそうであったように、(というのはそれまでの忠臣蔵小説には討ち入りの模様は戦闘状況が詳しくなかった)保元の乱から壇の浦まで各合戦の戦略、戦術から激闘の模様を手に汗握るリアルさをもって描写したのはおそらくこの作品が初めてではなかろうか。とにかく圧巻である。
さらにうれしいことには子どもの時に慣れ親しんだ、水鳥の羽音に敗走する富士川の戦い、木曾義仲の倶梨伽羅峠、宇治川の先陣争い、義経のひよどりごえ、八艘とび、那須与一の扇の的などなどが装い新たに再現されている。また、源頼朝を卑小な人物とし、義経を悲運の英雄するところは通説どおりで安心して読書を楽しむことができる。
そして池宮一流の典雅な文体はこの作品でも活かされ、緊張感とともに平安末期の風情を伝えて余すところない。

池宮彰一郎 『四十七人の刺客』
これぞ忠臣蔵の決定版
2003/01/15

例年、正月の二日は10時間のテレビドラマを楽しみにしている。今年は「忠臣蔵」であった。この誰もが知っている美談をどう解釈しているかがもっぱら興味の対象であったが『仮名手本忠臣蔵』の素材をかなり取り込んで、世話物、人情噺といわば古典的解釈の「義士」を描くドラマで拍子抜けしたが、それでも、最近でははやらない挿話がむしろ懐かしく、年寄りと一緒に見て会話も弾んだものだ。
かつてNHKが長谷川一夫の大石内蔵助で大河ドラマを制作したことがあったが、この原作は大仏次郎の『赤穂浪士』である。大仏が『赤穂浪士』を上梓したのは昭和2年、金融恐慌で巷には失業者があふれていた。赤穂藩士を主君の仇をはらす忠孝の士すなわち「義士」としていたこれまでの「忠君愛国」思想を裏返した大仏は内蔵助を幕藩体制の批判者とし、藩士らを「浪人」と位置付けることによって、その時代にふさわしい忠臣蔵を創造したのだった。
そして平成4年、すでにバブル型の経済戦争は終焉し、経済の担い手たちはリストラ、吸収合併、倒産と生き残りをかけた消耗戦に追い込まれる。いまでいう「失われた10年」の序幕の時にあたる。この時代背景をえて『赤穂浪士』をはるかにこえる斬新な忠臣蔵小説が生まれた。池宮彰一郎のデビュー作『四十七人の刺客』である。
池宮内蔵助は「これは単なる面当て、しっぺ返しの企てでもなければ、亡き殿の恨みを報ゆる仇討ちでもない。これは合戦だ」とする。そして「合戦であるから吉良の白髪首一つとってよしとせず、相手の命を奪い、家を叩き潰し、領地を亡きものとする。後ろ盾となり謀略を構えた武門上杉の面目を泥土に押しつけ、踏みにじる」のである。「義士」から「浪人」とされた彼らは平成で「刺客」となった。
戦争に理由づけはいらない。大義名分はあとになって加えられるもの。これが古今東西、戦争というものの現実であろう。浅野内匠頭が刃傷に及んだ原因などはどうでもいい。史実として解明されていない刃傷事件の真相を逆手に取ったこの小説の骨格となる発想にまず驚嘆する。さらに戦争とは戦力の差を謀略、諜報戦で凌ぐものである。池宮内蔵助が次々と仕掛ける謀略、諜報活動の凄さ、そのリアリティに舌を巻きながら時間のたつのを忘れ惹きこまれてしまうのである。インサイダー情報を得たのち公開される直前のマーケットにおける資産の高値売りぬけ、破格のコストを投入した敵の信用失墜を謀る風説の流布などなど、あらゆる意味でこれは今日的忠臣蔵である。内蔵助に拮抗する智謀をもって上杉藩江戸家老色部又四郎が登場し丁々発止の攻防戦のサスペンスといい読みどころは満載されている。
しかも、時代考証に相当の時間を割いたであろう著者の真摯な姿勢がうかがわれる。特に、事件の背景にある将軍家、朝廷、上杉家、吉良家、柳沢吉保の微妙な政治的緊張関係を簡潔に記述してあるが、刃傷事件直後の非情な処断措置を合理的に説明できて、わたしとしては忠臣蔵事件とはこの考察で決定としか考えようがない、そのくらい説得力が光った考証なのである。
さらに加えて文章がすばらしい。感情を抑制した硬質の文体は死にむかう束の間の生を生きる男たちが拠りどころとするものをしみじみと伝え、今を生きるわらわれに深い余韻を残す。春を待つ木々の花芽はふくらみつつ清爽の気満つる思いで厳冬に読む、第一級の折り紙つき時代小説だ。

池宮彰一郎 「本能寺」
ときは今 天が下ふる五月かな
2001/2/3

「「本能寺の変」は人口に膾炙されながらも今なお、わが国中世以降の歴史上、最大級のミステリーであることに変わりがありません。「国家」という新概念の萌芽時期であったとともにあまりにもドラマチックな要素がふんだんに凝縮されているからです。池宮彰一郎「本能寺」は本格推理小説の傑作、高いレベルの謎ときものとしても楽しむことができます。まず謎の提示ですが、これはなぜ光秀は謀反を起こしたのかという視点。桶狭間から描かれる英傑信長の思想・行動・圧倒的影響力など丹念な史上事実の叙述は最終章にむけた緻密な伏線に他なりません。既成の秩序、権益、これを徹底的に破壊し、新時代を構想する稀有の天才信長、この構想をただ一人理解し後継者の指名を受けた秀才光秀が、京のその無明長夜に巻き込まれる残酷無惨なニアミスと………本格ミステリーなら驚天動地のドンデンガエシとも言うべき仕掛けが用意されています。
こんな説明をいたしますと「歴史シュミレーションもの」と呼ばれる薄っぺらいおもいつきと誤解されるかもしれません。
平成のこの世の混乱、腐敗、絶望的閉塞感に「出でよ!」と英傑の政治リーダーを希求する大衆の気持ちを代表する憂国の書でもあります。また、この激動期、危急存亡の瀬戸際で、多くの犠牲を想定しつつ、一こま一こま苦渋の決断をされてきた企業の経営者たちはこれを重ね合わせて読むことができるでしょう。
簡潔にして芳醇。漢字の持つ豊かな表現力にあらためて気づかせられる名文でもあります。