村上龍 『半島を出よ』

冷戦後の仁義なき大競争時代に取り残されたニッポン。この不安と焦燥に満ちた現代を村上流に延長し、危機の構造を戯画化した作品として注目すべき、これは寓話でしょうね。

2005/12/27

国家としてのビジョンを喪失し、財政・経済政策に有効な手を打てなかった日本はいまや文字通り破綻へのスパイラルにはまりこんだ。円の下落、インフレーションの進行の中で預金は封鎖され、食糧危機と貧困層の増大で大量の餓死者、凍死者が生まれつつある。脆弱な外交政策から安全保障ではアメリカからも見放された。コントロール能力を喪った日本は世界から嫌われ排除されるのだ。
落日の民主主義国家日本と対峙させたのが、暴力が統治の原点である独裁国家・北朝鮮である。北朝鮮は国家として強力な明確なあるいは単純なビジョンを持ち、暴力の使い方に長けている国なのだ。そして500人の北朝鮮侵略軍が九州福岡を制圧する。

暴力が生み出す痛みと屈辱と恐怖によって上が下をコントロールするシステムが貫徹している。福岡市民の不正蓄財者を逮捕し、文字通りに肉を削ぎ、骨を砕き、内蔵を曝し。糞尿まみれで放置する監禁状態、まさに生きたままでの「人間性抹殺」である。この神経を逆なでされる凄惨なシーンにわたしは震え上がるほどの恐怖感を覚えた。そして村上龍は政治家や官僚など政治機構の中枢にある人たちを国家運営の展望も使命感もない無責任者の集合であるとし、特に国家としての危機管理についてはアメリカにオンブし、そのアメリカから見放されても管理機能不全のままに放置する楽天家としている。その右往左往の道化ぶりを北朝鮮軍の制御された一糸乱れぬ行動と対比させたっぷりと揶揄する。福岡市民は恐怖に怯えながらも彼らとの共存の日常生活を始める。その他の日本人は他人事のようにテレビのこの報道番組にしがみついているばかりだ。だいたいの「日本人」は会社の都合で首になっても家族に家を追い出されても、政府から預金を奪われたって本気になって怒ることも抵抗することもしないものだ。それでもなにかを信じようとしている、あるいは何かにすがっていたいと寄りかかるものだと村上龍は類型化した。

全国民が為すすべのないまま、まもなく12万人の北朝鮮軍が上陸することになる。

ところでこの組み立てだが元官僚とか元金融機関出身とかあるいは政治評論家の手になる情報小説のたぐいではない。日本の近未来をシミュレーションし、軍事的脅威に無防備な危機管理体制に警鐘をならすメッセージを読みとるとすれば、それはよくあるパターに過ぎず村上龍の本意ではないでしょう。

「失われた十年」といわれる。それはデフレによる資産価値の喪失だけではない。国民が共有することのできる<価値観の喪失>である。大切なものかけがえのないものはなにかを指し示す尺度のことだ。熱くもなく冷たくもないぬるま湯の民主主義に対してどこかで焦燥感、危機感が高まっている。そして反対極に独裁主義がある。それは確固とした価値観・国家の意思を持つものである。ただ国民は単なる部品である。そこでは<人間性の喪失>が歴然としている。

<価値観の喪失>か<人間性の喪失>か。村上龍の問題提起はこの<二つの喪失>をあえて二者択一の秤にかける過激な見せ方をしているのだ。
北朝鮮軍の侵略に対し拱手傍観、ていたらくの日本に村上龍は暴力には暴力でと迎え撃つ二十人ほどの少年集団を設定している。
20歳にも満たない少人数のシロウトが500人の軍隊を翻弄するのだから、この荒唐無稽の戦闘ディテールだけでも娯楽性たっぷりでひきつけられよう。13歳で父が死体を埋める現場を目撃した少年は殺傷用のブーメランを操る。母親が父親を刺殺し、あずけられた施設に放火して4人を焼殺した少年は空調配管のエキスパート。手首が自傷痕だらけの少年はテロリストの研究家。同級生の女生徒を殺害し切り刻んだ少年。新幹線をハイジャックし日本刀で車掌を殺害した少年などなどが500人の軍隊に戦争を挑む。
ここでも村上は<大量殺人を目的として国家が組織し鍛錬した暴力>と、もともと<人間性の根源にあるものを剥き出しにした因子としての暴力>を対比させている。
ところでこの少年たちはすべてわれわれ一般人の常識からは猟奇的殺人事件をおこすおそれのある変質者なのだ。薄気味の悪い若者の殺人・暴行へとむかうエネルギーがぐずぐずとたまっているのもいまの日本であろう。村上はこの妖しげなエネルギーを擬人化して集中発揮させる。殺人・暴力が制度として正義の行為とされる事態を人命は地球よりも重いとされる日本に現出させて若者たちの狂気の殺人エネルギーとぶつける、このひねった発想こそが村上龍の本領発揮であろう。
ここで北朝鮮の「邪悪の暴力」と日本の「正義の暴力」を対比させたなどと誤解する人はいないと思うが、センセーショナルな題材だけにちょっと心配になる。

心配になるものの、わたしは村上龍は『希望の国のエクソダス』を読んだだけなのだが、「少年」にこころから大きな期待をかけている人間なんだと思う。それはごく当たり前の「大人」の期待なのだがこのセンセーショナルな題材の中ではホッとするものだ。『希望の国のエクソダス』でも既成観念を排除したいわば新型ニヒリスト少年群の理知と言おうか、テクノロジカルな才知が日本の危機を救うオハナシだった。
ここに登場する少年たちに対してもその暴力因子発症には彼らの親の人でなしの狂気が原因であることを描いて寛容だ。

そして視点を変え、北朝鮮の戦士たちに潜む<人間としての根源にあるやさしさ>が同時に書かれている。父親から教えられた命の尊さを忘れられぬ者がいる。思考や意思の働きではなく人間に共通した感性の働きに心は奪われるものだと気づく。遠い昔の家族団らんの幸福感にふとわれを忘れる。北朝鮮軍の非道を抗議する老人の高潔さ胸を打たれる心がある。そこには村上らしいヒューマニズムへの憧憬を見いだすことができる。

平和を念仏するばかりの民主主義国家にある「暴力性」と恐怖の独裁国家にある「人間愛」を摘出しているところを見逃してはなるまい。

ただわたしには神経を逆なでさせられる挑発的な印象はぬぐえず、受けとめがたいところが大きい。
北朝鮮、それは極東の火薬庫である。そして拉致問題、核開発、過去の清算と北朝鮮との国交交渉は膠着状態がつづいている。他人事で外交舞台を眺めている姿勢ではない。国民感情も喜怒哀楽に四分五裂しながら目をそらすことができず、だれもが日常にこの重たい事態を取り込んでいるからだ。


宮部みゆき 『弧宿の人』

これだけ肉厚の歴史的素材を集中させ、いよいよ宮部みゆきが本格時代小説に挑戦したと思わせる長編であったが………

2006/01/12

讃岐国丸海藩。この地に幕府の罪人・加賀殿が流されてくることに。海うさぎが飛ぶ夏の嵐の日、加賀殿の所業をなぞるかのように不可解な毒死や怪異が小藩を襲う。
幕府の流罪人が災変を招き寄せる!?
新境地を拓く傑作の誕生!

知人から鳥居耀蔵をモデルにした作品と聞いていた。そしてこのキャッチコピーと物語のスタートにある緊迫感だ。天保の改革、蛮社の獄と幕府の存亡をかけた内部抗争の渦中にあって「妖怪」と呼ばれた鳥居耀蔵が讃岐丸亀藩にお預けの身となった。その晩年を軸に、地方小藩の混乱の中から庶民の慎ましやかな生活を垣間見る作品と期待したものだ。さらに日本古来の「御霊信仰」と四国に伝わる「狗神憑き伝承」を融合し生駒家のお家騒動などの史実も取り込んだかのような大構想と、そうであればまちがいなく宮部みゆきの新境地である。

加賀殿は「悪霊」だ。この疫病の蔓延、立てつづく天災は加賀殿の怨みだと領民は恐怖におののきその恐慌の大衆心理がさらなる惨事を招く。ポイントは一方で作者がストーリーの早い段階において加賀殿は生身の人間であり噂は創られたものだと読者に暗示しているところにある。これはホラー小説ではないよと。この素材を持って政争の具である人為的な風評が市民を混乱に陥れるプロセスを主軸にすれば、あるいは独自の解釈で鳥居耀蔵の晩年の実相を描くならば本格歴史小説にもなりえたでしょうが宮部はそうはしなかった。
そこはあとがきで宮部自身がことわりを入れていた。

この時代性やここの地方性を浮き彫りにしつつ政治事件を解明するミステリーかとも思ったがそうでもなさそうだ。なにしろ読んでいて「意表をつく展開」はほとんどなく作者は「展開」の前にあらかじめ噛み砕いて説明してしまうからだ。ひどく間延びしている。

主要登場人物の人間像がぼんやりしている。舞台は階級社会であるのだろうが領主も武士も一般庶民もおしなべて日常の繰り返しのままで平穏を感じられる暮らしぶりにあり、この迷惑な椿事を無難に乗り切ろうと右往左往する善意の人たち。それだけでしかない人間が寄せ集まっている小社会なのだな。これは時代小説の世界でもない「時代」に名を借りた観念世界なのだ。

阿呆の『ほう』と親から名づけられるぐらいに薄幸だった少女。彼女もいまは信望の厚い温厚な藩おかかえの名医一家に救われ、のびのびと幸せな生活をしている。
涸滝の幽閉屋敷に下女として住み込むことになった少女ほう
丸海藩の内紛が起こるなか、悪霊と恐れられた男と無垢な少女の魂の触れ合いが………
哀切の結末、少女ほうの叫びが雷雨を切り裂く!

下巻のキャッチコピーを上巻のとあわせればその筋書きと作者の狙いはおよそ見当がつく。

最近の宮部ワールドといわれる世界がこれか。宮部はここで「無垢」「純真」「素直」の美をこの少女に託して純粋に摘み出してみせた。「善人」同士ですら善をなそうとして他人に働きかければどこかに悪業が残るものだ。それが「大人の世界」というものだろう。そしてそれは本当の「善」なのだろうかと宮部は語りかけている。無為=作為なく天然の理に身をあそばせるところに善悪を超越した完全美があるとそんな世界観を言いたいのだろう。そして少女ほう阿呆のほうではなく至宝のほうとマリアに抱かれた赤子のように昇華してみせる。
「心を揺さぶる感動巨編!」
と。

最近、感動症候群という言葉がある。本物の感動の味がわからない人たちにはなにがなんでもと「感動」を求めてやまない情動があるのだそうだ。そのニーズにこたえる感動生産装置の映画や小説がヒットするという。大人の世界で汚れきっている不感症の私にとってはこうした抽象世界でこのレベルの感動を強要されてもあきれかえるのがオチなのだが………。
宮部みゆきのたいがいの作品は読んでいるのだからあえて苦言をていしてもよかろう。きれいごとで現実回避した宮部ワールドはもういいよ。現実世界へ回帰したらどうか。『火車』『理由』『模倣犯』、あの泥まみれの世界へと。

夢野久作 『ドグラ・マグラ』

『ドグラ・マグラ』
と題名からしてまぁ毒のマタグラのような醜怪な装い。これは長崎地方の方言で切支丹伴天連の幻魔術なのだそうだ。2006/01/21


昭和10年の作品である。とにかく読みにくいのだ。スタートの謎の提起は興味深いのだが、いつまでたっても展開が見えない。しかし、国内ミステリーのベストテンアンケートなどでは必ず上位に評価されているのだからとここは我慢して読む。上下巻の上巻を読み終えるころになって大まかな展開が見えてくる。そしてこの作品の「凄さ」に驚くことになった。一ひねりした程度では飽き足らなくなった推理小説の相当のマニア向けだとも思ったがそれよりもなによりも日本のミステリー系譜から戦後の傾向を飛び越していま発表されている多くのミステリー作風の基本がそこかしこにちりばめられているところに気がついたからだ。それは私の読書歴の狭い範囲内で気がついた程度なのだがとにかくおどろくことが多かったのです。

読みにくく展開が見えないひとつは衒学的蘊蓄が参ってしまうほどつまっているところにある。これは今はやりのスタイルですね。ただし、付焼刃のそれではなく見識と素養と著者の世界観が伝わる本物らしさは、ウンベルト・エーコのあの読みにくかった『フーコーの振り子』を彷彿とさせます。
メタフィクションといわれる小説流儀がこれに輪をかける。しかも『ドグマ・マグラ』のそれは、わかりやすく表現すれば嘘つきが日記を書いている。その日記をみた別の嘘つきがその日記をもとに研究手記を作っている。さらに上手の嘘つきがこれらをもとに語りかけ………。とメタミステリーのパロディまがいの具合で読んでる方は真偽のほどに惑乱してしまうわけだが、かなりしんどい。「作中作」。この手法を取り入れた叙述型トリックも目下大流行と言っていいでしょう。

主人公の「わたし」が精神病棟の一室で目を覚ます。自分の名前、自分の過去の記憶がいっさいない。「わたし」は人殺しをしたらしい。なぜ?「わたし」はなにもの?と物語は始まる。
記憶喪失者が自分の過去をドラマチックに探すというストーリーだ。今でこそよく見受けられるミステリーの手法だろう。「記憶喪失」という概念があると私が知ったのは円谷映画の「空の大怪獣・ラドン」を観た時だったが当時はそんな病状があるなんて、嘘だと思ったぐらいだった。この小説でも「記憶喪失」という言葉は使われていない。しかも、この精神の障害の発生原因が実に詳細に蘊蓄のなかで語られる。それだけではない。「フロイドやユングの精神分析」「意識下の性衝動」「潜在記憶」「不随意運動」「深層催眠」「記憶の操作」「プロファイリング」などこれもまた現在のミステリーには欠かせない概念を、概念として一般には確立していない当時のことでありながら不自然さを感じさせないほど縦横に使いこなしている。

まだまだある。日本の怪談にはつきものの因果応報に科学的よそおいを加える。当時の言葉としてはなかった。遺伝子「DNA」、「DNAに記録されている生命誕生以来の記憶」という発想、「ミトコンドリアの復讐」という奇想天外は最近のベストセラーホラーSfにはいくつか登場している。さらに玄宗皇帝時代の男の怨念の現代への転移ともなれば立派なSf伝奇小説として直木賞ものの価値がある。
パロディが過去の著名な作品の模写を楽しむものならこれは現在の著名な作品の原型をみいだす逆パロディの面白さがある。現代ミステリーの元ネタの宝庫だった。


しかしこの作品の本当の「凄さ」は危ういまでに研ぎすまされた著者の時代感覚、透徹した洞察、大胆な社会風刺に見いだせよう。夢野久作は「人間に潜在する怪奇美、醜悪美を暴露し、読者を戦慄させる作品」としたようだが、それは言論封殺の時代的脅迫を感じたからのいいわけだったのではないだろうか。
昭和10年、ヒトラーはベルサイユ条約を破棄し、再軍備を宣言した。天皇機関説で美濃部が不敬罪で告発され、翌年には2.26事件が勃発する。理性が勝利した近代国家はいまや狂気の時代へと突入していた。
近代合理主義の行き詰まりにはその完全否定がうまれる。そして。彼はあざ笑いながら予見している。合理主義のなれのはてに狂人が生まれると。

当該事件の犯人は現代における一切の学術はもちろん、あらゆる道徳、習慣、義理、人情を超越せる、恐るべき神変不可思議なる性格の所有者」なのだ。

すなわち、まずその時の呉青秀の心理的要素を包んでいる『忠君愛国の観念』という、表面的な意識を一枚引っ剥いで見ると、その下から第一番に現れてくるのは燃え立つような名誉欲だ。その次には焦げ付くような芸術欲………その又ドン底には沸騰点を突破した愛欲、兼、性欲と、この四つの欲望の徹底したものが一つに固まり合って、超人的な高熱を発していた。つまるところ呉青秀のスバラシイ忠君愛国の正体はやはりスバラシク下等深刻な、変態性欲の固まりに過ぎなかったことが、ザラリと判明して来るのだ

ドストエフスキーが生んだスタヴローギンの再来か。
ニーチェの言う超人を実践せんとしたナチズムか。
あの忠君愛国の戦争遂行者たちへのはなむけなのか。

著者はこんなことも叫ぶ。人間の理性が生んだ合理主義は父母の愛、同胞愛、恋愛、貞操、信義、羞恥、義理、人情、誠意、良心などの一切の自然な心理を不合理であると否定し、物質と野獣的本能ばかりの個人主義の世界を創出させた。ついには人類文化を精神異常化させ全人類を精神的に自滅させるだろうと。
戦時中のことではない、現在の日本にある狂気を象徴していないだろうか。
今経済界を震撼させている事件。中世の黒魔術、「錬金術」。貫徹している経済原理。マーケット至上主義、株価至上主義、そして拝金主義がなにをもたらしたかを。
偉大なる道化師・夢野久作、おそるべし。