横山秀夫 『クライマーズ・ハイ』

NHKドラマ『クライマーズ・ハイ』この緊迫感を堪能する

2005/12/13

横山秀夫原作の『クライマーズ・ハイ』が二夜連続のテレビドラマ化されその前編が12月10日に放映された。NHKのドラマだから期待はしなかったが、これは凄かったですね。17日の後編は見逃せません。

原作をかなり忠実にたどっているようです。原作を読んだ時の緊張感の高まりを同様に覚えました。
群馬県の地元新聞社に勤務する記者たちの人間ドラマが中心です。ただそこには新聞社という特別な職場だけに限らない一般のサラリーマンに共通する縮図があって、それが濃密に描写されていますから、わがことのようにリアルに受けとめる方は多いのではないでしょうか。

会社はなんのために存在するのか。「私」はなんのためにここで働いているのか。組織の中の「私」が自己を貫くと言うことはどういうことなのか。それは実現できることなのか。職場の人間関係の中で「私」はどうあるべきか。
酒の上での激しい口論のシーン、上司であり目下の敵である岸部一徳の鬼気迫る演技が光っていた。

そしてどんなサラリーマンでも職場の外にある世界、たとえば家庭とのしがらみを職場から切り離すなんて器用なことはできないものだ。そこに孤独な人間としての苦悩がある。

そうしたしがらみを含めて自己を貫くことはむなしい結果になることが多い。しかし、結果が実らなくともそこにいたるプロセスにある高揚感、クライマーズハイ。「私」はそこに至高の価値を見いだしたい………と横山秀夫は語りかけている。
佐藤浩一が激情をこらえようとするプロフェッショナルサラリーマン、苦闘する男のありようを力演している。

すでにサラリーマンを終えつつあるわたしの年代が感じる、それは郷愁であるのかもしれないのだけれど、目頭が熱くなる後編を楽しみにしています。

君の人生には熱く語ることのできるなにかがあったか………と厳しく問いかける男がいる。

2003/10/07

まもなく退職年齢を迎える悠木和雅、私より2歳年下の57歳。群馬県の地方紙「北関東新聞」のベテラン記者であった彼は17年前に左遷されたまま山奥の草津通信部で村の小さな出来事を書き続けている。17年前日航ジャンボ旅客機が御巣鷹山に墜落し、その事件の総括デスクとなった。機動力に乏しい地方新聞社の内心は迷惑な大事件なのである。しかし、記者人生にとって、この田舎ではこれ以上の大事件は生涯に出くわすことがない、まさに乾坤一擲の一大勝負どころが訪れた。いま、一ノ倉沢衝立岩登攀に挑む悠木は当時経験したその修羅場を振りかえるのである。

今回の横山秀夫『クライマーズ・ハイ』はこれまでの警察という極度に管理された組織とは別の枠組みにある新聞社だが、しかし同じプロフェッショナルサラリーマンの世界を描いている。私も新聞記者の世界にはいくらかのつきあいがあった。自分の成し遂げた仕事の成果が無数の人々の耳目を集め、評価され、後々までも痕跡が残って語り継がれる。それを掘り起こすチャンスはいつでも存在していて、組織力よりも個人の能力でもって奪取できるのであるから、ここに己の価値をみいだしている仕事人同士では熾烈な競争原理が貫徹するのである。取材活動における抜け駆け、トップ記事に仕立てる裏工作、社内には派閥あり、ゴマスリと疑心暗鬼、サボタージュ、個性という感情の衝突、さらに他人には語れないそれぞれが引きずっている家庭というしがらみなど記者同士が解けあうことが難しい分厚い壁が細密描写される。しかしこの敵対的背景があってこそ、大事件が勃発すればグループが結成され、始終顔を合わせ、角を突き合わせ、怒鳴りあいながら、悦び合い同じ成果と失意を共有する男同士の連帯が輝いてくるのだ。丹念に描写したこの心理に共感し、さらにわがことのように実感する仕事師のサラリーマンは多いに違いない。

クライマーズ・ハイ。命がけの登攀において興奮状態が極限にまで達して、恐怖感が麻痺し、持てる能力以上の力を発揮できるように錯覚する心理状況をさす。アルピニスト用語のようだ。だれしも、人生には越えられないように思える巨大な山にぶつかることがあるものだ。崖っぷちに立たされる。寝食を断って、遮二無二ここを乗り切らねばならぬ修羅場にぶちあたることがある。クライマーズ・ハイとなって踏み切る。栄光を手中にするか、挫折に崩れるか。しかし、男にとってその山を下りた冷静では、栄光であったか挫折であったかは問題ではないのだ。山を下りてそれまでの軌跡をふりかえり、あの恍惚体験そのものが自分の値打ちであると自信を持って評価できればそれで悔いはない。

盛りを過ぎた年輩者の感傷とか郷愁だけではないだろう。生きることの指針がかすれてしまったこのカオスの現代を生きる次世代へむけた、積極的で生々しいメッセージがここにあるような気がする。

蛇足ながら壊れてしまった親子の絆が復活する感動のシーンが用意されているので、身に覚えのある方も多いこと、「またか」と評論家をきどらず、ここは感情のあるがままに素直に読むのがいい。さわやかな余韻を大切にしよう。

横山秀夫 『半落ち』
本年最高傑作のミステリーに出会いました。
2202/09/17

組織の論理として組み込まれている悪弊に自らの信念を貫くため敢然と立ち向かう仕事人がいる。その道のプロだ。しかしその厚い壁を破れず、はじき出される男たちを数多く見てきた。家庭と仕事は別だと徹底している仕事人がいる。しかし、その絆を最後にはふっ切れず、プロの座を退く男たちもまた数多く見てきた。自らの軌跡を振り返ってその半生はなんだったのだと問うときも多くなる、そんな曲がり角に立っている相応の年代なら、このサスペンスは単なるエンターテインメントではない。心にずっしりと残るなにかがある。本年、発表される多くのミステリーの中で、これは最高クラスにランクしてよい、実に傑作であった。

警察用語で取調官に対して被疑者が洗いざらい事実を自供することを「完落ち」という。「半落ち」とは一部の事実を隠した不完全な自供である。東京の北に位置するW県県警本部の梶警部………温厚で礼節を尊ぶ人情家………が前途を悲観したアルツハイマーの妻に懇願され扼殺、自首する。しかし、自首するまでに二日間の空白があり、その間死体は放置されていた。嘱託殺人とはいえ現職幹部の事件である。それだけでも警察としてはスキャンダルであるがさらに死体を放置したまま東京歌舞伎町でいかがわしい遊びをしていたのではないかとの疑惑がでる。県警内部ではここを明らかにしたくない、隠蔽したい。しかし、この道のプロ取調官志木警視はこの事実を突き止めようと梶に肉薄する。梶は頑として真実を黙秘する。組織防衛。上層部の逆鱗に触れた志木はこの役割からはずされ決定的ダメージを受ける。組織の意向を汲んだ梶は真実を伏せたまま、偽りの自供をする。このプロセスが丹念に書かれ、その緊迫感はページを繰るのがもどかしいほどである。
真実がふせられたまま検事、新聞記者、弁護士、判事、刑務所刑務官がそれぞれの立場でこの二日間の空白の真実に迫る。そして、すべてが組織防衛の仕組みの中で、厳しい痛手を負って脱落していくのである。しかも、単純に組織体と個人の対立と図式化しはしていない。さらに切実感が加わる。組織を構成しているのもまた個人であるとの視点に立って実にリアルに一人一人にまとわりつく周辺、それは家族であり、友人であり、上司であり、同僚・部下である人間同士の「絆」、その拭い去ることのできない「しがらみ」をたんたんと描き出していく。
彼らは振り返ってつぶやく。「ひとつぐらい自慢話をもっていたいとおもいます」

最後に真実は明らかになるのであるが、そこで久しぶりに目頭が熱くなる感動をおぼえた。
すでに松本清張賞、日本推理作家協会賞短編部門賞を受賞した著者であるが、これは山本周五郎賞にふさわしい。帚木蓬生に共通するヒューマニズムの主張に誰しもが共感するであろう。

横山秀夫 『動機』
『半落ち』が直木賞をとれない本当の理由
2003/04/06

横山秀夫の作品は『半落ち』を最初に読んだだけでしたので日本推理作家協会賞受賞の『動機』を読んでみました。
署内で一括保管した警察手帳が紛失、スキャンダルに発展する恐れある事件が発生し、内部犯行の疑惑が濃くなる表題作。
女子高生殺人の前科を持つ男が殺人を依頼される「逆転の夏」。
公判中の居眠りで失脚する裁判官を描く「密室の人」。
拡販競争に巻き込まれ、特ネタを求めて奔走する地方紙女性記者の良心の葛藤「ネタ元」。
警察を舞台にしたのは表題作だけです。推理小説でも謎解きの中心を犯人当て、犯行方法当てにするジャンルが普通ですが、彼の作品では<なぞ>の中心はいずれも犯行の動機におかれています。その動機がわれわれの誰でもが日常生活の中で、もしかしたら似たような状況が自分にだってありえるかもしれないと感じる、このリアル感でぐいぐいと引っ張る手法は見事なものです。一時期の松本清張を髣髴させます。ただし清張の乾いた非情性はなく、管理社会に生きる人たちの家族愛や友情、あるいは憎しみ、嫉妬、心の揺らぎなど人間の情緒面が強調されています。情緒面の強調という点では浅田次郎風でもあります。

『半落ち』とこの『動機』を読んで、さらに『半落ち』が直木賞を受賞できなかったことを思い合わせて、横山秀夫のこれまでの作風で気がついたことがあります。
第一に推理小説ではあるものの単なる謎解きパズルをこえて人間の心理や物語性、社会・風俗に重点を置いています。また作者は明らかに読者にうったえる社会性のあるテーマを用意しています。そして読者が共感したり、感動したり、あるいは反発することもあるかもしれませんが、読み手の内面を揺さぶる文芸作品の性格をもっています。

第二ににもかかわらず結果的にはこれらが謎解きパズルになってしまっているとの印象をもつのです。具体的に言えば『半落ち』では<なぞ>は主人公が黙秘を続ける動機にあって、その動機を最後まで解き明かすことなく最終章に至りはじめて劇的な効果を発揮する仕掛けです。

推理小説はネタバラシがタブーです。「この映画の結末は誰にも教えないでください」とおなじく、作者は結末であり、ネタであるところの骨髄移植という社会的問題、これにかかわる殺人者の内面からヒューマニズムについて、読者層が吟味しあう、意見を述べ合う、議論することをあえて閉ざすことによって謎解きパズルを成功させているのです。
『半落ち』が直木賞を受賞できなかった理由は骨髄移植と受刑者に関連した制度についての作者の誤解とされていますが、本当の理由はそうではないと思うのです。私ですら昨年9月にこれを読んで、山本周五郎賞ならともかく、直木賞は無理と感じたものです。『半落ち』の良さは骨髄移植問題にあります、と誰にも語れない仕掛けがあっては直木賞を受賞できないだろうと思ったのです。
ただ私は横山秀夫が推理小説家のままでは終わらない多才の士だろうと飛躍の期待をもっております。