☆★☆上京当時のころ☆★☆

1 木賃アパート生活
昭和31年、中学生になった僕は両親に引き取られて東京で生活することになりました。六畳と四畳半二間の木賃アパートで台所、トイレは共同、浴室なしの居住は今振り返ればかなりの貧乏生活でしたが、すこしも不自由を感じることはありません。ボットン便所からお水の流れるトイレになりましたし、洗面用具をもって銭湯へ通う楽しみが加わりました。

2 電車に乗れてうれしいな
住まいは文京区の下町、駒込坂下町でそのころは近くから、都電と呼ばれる路面電車が銀座まで走っていました。田舎モノにとって東京はとにかくエキセントリックでありましたから、この都電を利用して、ワクワクしながら、銀座、神田、上野界隈を探検して歩いたものです。交通博物館や科学博物館へ出かけていろいろな模型をボタン操作で動かし、おもちゃで遊ぶつもりで楽しみます。切手の収集を始めたときにはわざわざ山手線で東京駅の中央郵便局へ行って、発売日に記念切手を買っていました。当時、江戸崎では東京へ行って電車に乗ること自体が自慢になる、東京へ行ったことのない子どもの数が圧倒的だったころでしたから、僕にとってそういう街をひとりで歩き回ることはたいへんな冒険だったわけです。

3 映画も雑多に見ていました
映画を見るのは小学生のうちから好きでした。日活の裕次郎が全盛の時代でしたが、むしろ東映の時代劇でした。『笛吹き童子』『紅孔雀』が映画化されて、中村錦之助、東千代之介が妖術使いたちと闘う、こういう伝奇物に昔から興味を引かれていたのです。でもそれよりも、なによりも東宝特撮ものに夢中でした。『ゴジラ』はオキシゲンデストロイヤーで倒されます。『ゴジラの逆襲』ではアンギラスと闘い、北の果ての氷山に閉ざされます。『ラドン』で初めて記憶喪失症なる不思議な病気が存在することを知りました。『モスラ』はザ・ピーナツが妖精で、悪い怪獣ではありませんでした。黒澤の『蜘蛛巣城」の山田五十鈴は怖かった。洋画は西部劇は、ジョン・スタージェスの『OK牧場の決闘』から始まる決闘三部作や『大いなる西部』『リオブラボー』『ワーロック』、大スペクタクルはセシル・B・デミル『十戒』、『八十日間世界一周』、サスペンスは『死刑台のエレベーター』、『北北西に進路をとれ』『十二人の怒れる男』。記録映画『沈黙の世界』も印象的な映像でした。とにかく毎週のように映画を見まくっていたのだとおもいます。

4 おぼえているかい故郷の村を
新しい友達ができるまでの、家の中での楽しみはまずラジオの歌謡番組を聞くことだったような気がしています。故郷に対する愛着をいつまでも持ち続けるという性格ではありませんでしたが、このころはちょうど人口の都会集中が急速に進んでいたころで、『別れの一本杉』『りんご村から』『はやく帰ってこ』など集団就職のこどもたちの望郷のおもいにこたえる歌がいつもベストランク入りをしていたのです。僕は春日八郎よりはいくぶん都会的センスの入った三橋美智也の歌を好んで聞いていた少年です。彼の新曲がベストワン入りをすると小躍りして喜んだものです。それでも『哀愁列車』が下火になったころには、流行歌の百花繚乱のありさまで、美空ひばり、三波春夫、村田英雄から裕次郎やフランク永井と農村と都会との結びつきをテーマにした歌にこだわることもなくなり、ヒットした歌謡曲はみんな好きになっていました。


5 都会人への仲間入り
いっぽうでアメリカの歌が盛んに輸入され始めます。これは江戸崎にいたころでしたが、仰天したのは映画『暴力教室』のテーマ『ロック・アラウンド・ザ・クロック』のリズムでした。そしてエルビスの『ハートブレイクホテル』、『監獄ロック』に夢中になると、「僕も都会人の仲間入りができたな」と本気で思っていたのです。女性の歌手といえば、美空ひばり、島倉千代子の健康か清純のイメージがあったところに、「デーオー、イデデーオー」とカリプソ娘浜村美智子『バナナボート』のデビューは髪を腰の辺りまで長くたらした挑発的なポーズにドッキリさせられました。『ダイアナ』のあのポール・アンカの来日もありました。日本語に翻訳した『ハートブレイクホテル』を小坂一也が歌いヒットしたのが初めだったでしょうか、平尾昌章、ミッキーカーチス、柳家金語楼の息子の山下敬二郎ら日本のロカビリー歌手が続々誕生し一世を風靡したときでもありました。勢ぞろいして熱狂と絶叫、テープが乱舞するという日劇のウェスタンカーニバルに行ってみたかったけど、これは実現しないうちに、少し大人に近づいていたようです。

6 お座敷唄と民謡
アパートの住民は宴会が好きな人が何人か揃っていたのだろう。あるいは父の友達がしょっちゅう訪ねてきて始めるのだったろうか。もちろんカラオケというものはなく、手拍子、口三味線でしたが、宴会には必ず僕も参加します。いわゆるお座敷唄の得意な人がいたんですね。『さのさ』『奴さん』『木遣りくずし』、どちらかといえば歌詞やメロディーよりもセリフのほうに力みが入った『明治一代女』『婦系図』『金色夜叉』などはなんども聞いていれば子どもにだって真似ができるようになります。僕がセリフをやるとたいへんうけたものです。父や父の仲間はもっぱら民謡をうなっていました。あれはなかなか本格的レベルだったのではないだろうか。北海道の『ソーラン節』『江刺追分』から始まり、九州は『炭坑節』『黒田節』『五木の子守唄』『おてもやん』『田原坂』『稗つき節』まで延々とつづきます。お座敷唄よりは聞きなれないし、難しい節回しの唄があって僕は茨城の民謡の『磯節』をはじめそれらのほとんどを歌いこなすまでには至りません。秋田の『秋田音頭』、佐渡の『相川音頭』、大分の『刈干きり唄』が好きだった。民謡は労働者の唄だ、権力に対する大衆の抵抗の唄だとその連中は叫んでいたようなおぼえがあります。