小野不由美 「黒祠の島」
「黒祠の島」は存在しうるか?
2001/3/31

私の実家筋は古くからの稲作中心の農家である。大消費地の近くに位置するものの、旧い生活習慣がいまなお幅を利かせているところがあって、特に嫁取り、婿取りの話となると一族郎党を率いるジイサマが大家族会議の統率者としても実権を堅持している。当然に本人たちの意向、親の意向は二の次となる。たまたまそういう場に居合わせ、意見を求められたがいやはやこれには参った。あげくの果てに「ところで、おめえのとこはネエチャン二人だが、まさか二人とも嫁にだすなんてこたぁしねえだろうな」と念を押される始末。そばでズウズウ弁の会話を聞いていたわが娘たちも、どうやら自分のことと理解したらしく腹を立てるやら呆れ返るやらで、もう二度とここへは来ないと言う。トイレが水洗でないのも敬遠する理由の一つらしい。

5〜6年前だったか、当時は携帯電話の普及が漸く始まった頃で、我が家では私一人が社用のものを持っていたときである。ジイサマのところを訪ねたら、携帯が3個も転がっているのが目に付いたのでびっくりして
「普通の電話があるのになんでこんなもの買ったのよ」と訊ねた。
ジイサマ曰く「エヌテーテーの人が来て、田んぼで、はだらいてっ時、家さ電話するのに便利だっていうがら。こだずにえへっていでも、電話さ、でられっと」
それでは使っているのかと
「いやぁつかあねぇなぁ。そんでもこのあだりいったいは全部買っただよぉ」
イヌイットに冷蔵庫を売る辣腕のセールスマンを思い出しました。

情報化時代とはよく言ったものである。因習、奇習が残ってはいても、もはやそれが社会生活の根本原理として生きつづけることは難しいのでしょうね。
さて、小野不由美「黒祠の島」。九州北西部の孤島が舞台。船便が日に何度かあり、フェリーまでもが定期船。時は現代。このような島に奇怪な神道の一種が信仰され、島民がその迷信に支配されている。長は彼らへの生殺与奪の権限を行使し、警察の捜査も及ばない。この設定は無理ではないかな。
どうして時代を昭和初期に設定しなかったのかしら。
前作「屍鬼」もやはり現代の寒村を舞台にした作品であったが、日本の民俗信仰にはなかった吸血鬼伝説、ゾンビ伝説を大胆に取り込み「ホラー」として充分に楽しめた。今回は「推理」小説だけに現実感の欠落が目立った作品となってしまった。横溝ものが好きな方にはいいかもしれない。 

奥田英郎  「邪魔」
だらしない亭主のカミさんはこわいですぞ
奥田英朗の『最悪』、零細な町工場のオーナー、銀行勤めのOL、チンピラ青年の三者が様々なトラブルに見舞われたあげく、最悪の結果に向かって暴走するクライムノベルだった。それぞれのキャラクターが身近に存在しそうな人物で日常生活もリアルに書けていた。かなり高い評価を集めた作品であったが、それぞれの人物の環境変化への対応の甘さ、なるようにしかならないとの諦観で貫かれているため、悪い方向へ踏みださざるを得ないステップごとに本来あるべき判断の緊張感が感じられませんでした。

今回の「邪魔」は前回の構成と同じく17歳のチンピラ高校生と、34歳の主婦、そして36歳の刑事、この3人の人生の歯車が少しずつズレていく過程を緊密に描き、しかもそのプロセスには、やむにやまれぬ状況での判断の緊張感がみなぎっているところで「最悪」をはるかに上回るできばえである。 特にこの主婦の変貌は際立って印象的であった。パートのスーパーで労働環境改善運動に巻き込まれ、活動家になって、挫折したり、夫の勤務先事務所の放火疑惑から生まれる周囲の冷淡といじめに家庭を防衛すべく敢然と立ち上がったり、情けない夫に愛想を尽かしながら女性としての自我を確立していくところが小気味よくテンポ快調である。

ところが結末が最悪ですね。もう少しこの主婦の行く末に展望を与えられなかったものかと、後味の悪い終わり方が残念です。

日本はまだまだ男社会なんだな。彼女の場合も所詮男の描く女性でしかないんですね。
それにしても女の自立を描くのに犯罪と直結させる物語が多いような気がするが、あるいは不倫の実行とか、ミステリーを読むことが多いからそんな気になるですかね。

折原一「沈黙者」
新本格派はトリック至上主義がその作風であるといえよう。
2002/02/10
ミステリーのジャンルに「新本格」といわれる作風・作家群があって、ものの解説によると「島田荘司の推薦をうけてデビューした京都大学推理小説研究会出身者を中心とする若手作家」たちとあった。実にわかりやすい。さらに「講談社新書版」から1988年以降続出した同じ傾向の作品群を指すようである。折原一は講談社系ではないが今では新本格派の第一人者であろう。以前にこの作者の「誘拐者」を読んで、そこにはまさにトリック至上主義の面白さがあった。そのころ島田荘司の「占星術殺人事件」を読んでトリック至上主義の難解さに辟易した。

私はマジックを見るのもするのも好きなのですが、これにもいくつかのジャンルがあります。
大仕掛けな舞台装置を準備して派手な演出で観客の度肝を抜く分野があります。テレビでも1時間もの枠取りをしてマジシャンの閉じ込められた船や自動車など大爆発させる「決死の脱走」がよく放映されます。それだけの視聴率が稼げるのです。これの特徴は密室からの脱出がいかに困難であるか、失敗したときの生命の危険などを繰り返し解説することに時間を費やすために見ているほうが緊張感をつのらせるタイプだと成功でしょうが私の場合、堪らず「早く肝心なところをやれ」とイライラ、そのうち眠くなってしまうのです。「占星術殺人事件」も私の場合はなにがなんだかわかりませんでした。
一方、少人数であるがテーブルの周囲を囲んで監視している中、「トリックがありますよ、魔法ではありませんよ、誤魔化しますよ」と言いつつ、仕掛けのないトランプやコインを使って短時間に超自然現象を見せる分野があります。退屈する間がなく、しかも鮮やかにきめるその巧みな演出には惹きつけられます。目の前で仕掛けられまんまと引っかかるのです。
騙されてなお気持ちがいい、だから気持ちがいいのがミステリーのひとつの要素であります。だから、たとえ人工的な強引な構成であっても、それを現実感が乏しいとか、動機が薄弱であるとかの理由で敬遠するのはもったいないのであります。シャレですね、シャレ。なおこのジャンルを超・長編にするとシャレにならない。

この「沈黙者」、冒頭から作者が明確に仕掛けを用意しているため解説はできませんが、最近には珍しい中編小説でオジサン族にも理解できますから、さらりと読んで新本格派・パズル解き挑戦型に気持ちよく騙されるのも悪くないと思います。2家族6人を一夜にして殺害した凶悪殺人事件の真犯人探しです。そして読み終えて「あれ?どうなっていたっけ?」とページを繰り戻すことに必ずなるでしょう。なってもいいではないですか。ページ数が少ないから億劫がらずにめくり戻せます。そこでその「仕掛け」に「なるほどねぇ」と感心するか、「ばかばかしい」と怒りだすか?作品のよしあしにもよりますが、読者の酔狂さ加減にもよる。手品のタネあかしを聞いた人の反応も似たような二つのタイプに分かれます。これが中編系新本格派の宿命ですね。