|
東野圭吾 『手紙』
日本的現代版「罪と罰」に救いはあるのか
2003/05/22 |
さすがミステリー作家らしいある意味で二重、三重のわなが仕掛けられてあり、読者は心情的にさらに頭脳的に混乱させられます。しかしミステリーとは全く異質の作品でありました。これは不幸な境遇にある兄弟の愛あるいは不当な社会の迫害に耐える青年の健気な生き方を描く感動モノ文芸作品として読むことはできるでしょう。だが、読み終えて涙を流す感動というよりも、私たちの周囲におこりえる人間関係に対して、おそろしく難しい問題提起をしたものだという思考のほうが感情の先にたって、それでも深い味わいをおぼえるのであるから、この作品、間違いなく傑作だと思ったのです。
その翌日、テレビの報道番組で6年前におきたあの神戸連続児童殺傷事件を取り上げていた。加害者である少年、今は成人したA(当時14歳)が今年にも医療少年院を仮退院することになり、当時11歳の被害者少年の父親が複雑な胸のうちを語っていた。言葉はすくなかったが遺族の無念を加害者に直接聞かせる権利の必要性を述べ、そこに滲む悲痛な思いに私は素直に共感することができた。ところが一方、報道番組が視聴者に訴求しているこの感情の共有にはふさわしくない場違いな思いにもとらわれたのである。Aの家族、つまり加害者側の家族、両親や彼の兄弟たちは今どのような生活を市井の隅っこで強いられているのだろうかと気遣う、思いやる感情であり、それはこの『手紙』を読んだ直後のせいである。そういう思いを抱かせることにおいてもこの作品は今日的問題作である。
ふたりだけでつつましく生きている兄弟。弟思いの兄はその学費捻出のために裕福な老人宅に押し入り発見されて殺害する。服役した兄の存在によって弟は世間のいたるところで迫害をうける。冷酷な社会とそれに立ち向かう健気な青年という図式上に表現されるいくつもの愁嘆場は一見類型的であるが、迫害する側は極めて常識人であり、あるいは彼の立場の理解者であるにもかかわらず、徐々に青年が絶望的状況に追い込まれていくストーリー展開に読者はどうにもいたたまれない気持ちにさせられる。それぞれのエピソードの責める側にある深い含意が読むものの心をとらえるからである。
兄の存在を隠し、現実から逃避を続けるが、学園生活、就職、結婚、誕生した子どもの養育の場で繰り返される「不当な」迫害から逃れられない。彼はあるときこれは「差別」ではないかと気がつき、敢然と正々堂々と生きようと決意するのだが………。
そして、彼の雇い主として良識人を代表する現実主義の経営者が登場し、驚くべき冷酷な論理を披露する。罪と罰と償いに関するこの論理は私としてははじめて耳にするものなのだが、あまりにも彼にとって過酷なものであり、私としてもはじめ受け入れがたい心境になったものだが、にもかかわらず最終的にはその妥当性が充分感じられた。個人主義、罪刑法定主義という近代思想にはない極めて日本的な思考だと思う。ラストシーンへの伏線でもある。ここはそれぞれの読者が充分に咀嚼する価値がある山場だ。
ラストの受け止め方も多様になろうが、印象的である。私は宗教的救済の暗示があるような気がしている。ドストエフスキー『罪と罰』のラスコーリニコフの魂は信仰によって救われる。しかし、この兄弟の魂はこれで救われたと言えるのだろうか。
|
|
深谷忠記 「目撃」
裁判制度への新たな問題提起
2002/07/31 |
自宅近くの公園で毒殺された男の妻はその時刻、渋谷のラブホテルで不倫をしていたとアリバイを主張する。しかし、彼女をその時刻に公園で見かけたという目撃者が二人もあらわれ、第1審は有罪判決が下っている。これを第2審で担当する女性弁護士の逆転無罪を勝ち取るまでの法廷活動が丹念にかかれている。また、不倫現場を目撃した娘の母に対する憎しみ、暴力行為をやめない父に対する憎しみ、周囲からの冷遇、そして精神障害などに作者のやさしい視線が感じられます。
さらに物語は重層しつつ、8歳のときに母が父を刺殺する現場を目撃した少年が現在は作家となってこの女性弁護士を支援するのであるが、この39年前の殺人事件の真相追及がもう一筋のストーリーを構成している。
このふた筋のストーリーには「記憶が形成される過程では真実が歪められやすいものである」とする見解の共通項がある。女性弁護士がこの見解を裁判の場で立証するくだりを見事に描いている。記憶のあやふやさには日常いやというほど思い当たることがあることだけに、そうしたことが冤罪事件を生むことだって大いにありうることであろう。あらたな問題提起のように受けとめることができる。現実性、説得性があって、逆転無罪への劇的な展開は迫真的であった。法廷物ミステリーの常道を踏んで、読みがいのある作品でした。
さらに、もう一つのストーリー、母が父を殺すところを目撃した少年、その記憶はどこまで正しかったのであろうか。少年は当時、その目撃したところに従い、警察に問われるままに酒乱の父を殺したのは母であると答える。それまでは母は頑強に殺人を否定していたのだが、息子が目撃したことを警察に話したことを知り、自殺する。いま彼は衝撃的疑惑にとりつかれる。父を殺したのは本当は母ではなかったのだろうか。母はなぜ自殺をしたのか。真犯人は誰なのか。真実はどこにあるのか。大岡昇平の「事件」が取り上げた「謎」にちかい、
心理の奥深くにある真理を描いて、私にはこちらのストーリーのほうにはるかに興味をひかれた。むしろこのテーマに絞ったほうが引き締まった小説として完成していたかもしれない。
不倫の人妻が第1審で有罪の判決を言い渡されながら、それにもかかわらず、相手に迷惑をかけるからとの思いから、その人について沈黙をおし通すなどと、不自然極まりない構成は全体が緻密な組み立てだけに、そのほかにも欠点はありますがこの欠点がどうしてもめだちます。
|
|
藤本ひとみ 「ジャンヌ・ダルク暗殺」
救国の英傑・ジャンヌダルク
2002/01/12 |
年頭にふさわしく、明日への展望を切り開く(?)、元気の出るミステリーに出くわしました。藤本ひとみ「ジャンヌ・ダルク暗殺」。フランス歴史物をいくつも発表している作者ですが、初めて読む作品です。佐藤賢一の重厚さはありませんが充分に楽しめました。ジャンヌ・ダルクが1月6日生まれでもあり、これは正月用の読み物であります。
1999年にも映画化され、その記憶も新しいところです。英仏百年戦争の後半、フランス王国は再びイギリス軍の侵攻を迎えた。正統のフランス王シャルル7世は南フランスに退いて,圧倒的に優勢なイギリス王家の軍事力の前に,自暴自棄と無為の生活を送っていた。ここで田舎娘が神の啓示を受けたと自称し、シャルル7世の前に名乗り出る、その啓示のままにオルレアンに赴き、勇猛果敢に戦闘をリード、イングランド軍を敗走させ、敗色濃いフランス王国に勝利のきっかけをもたらす。まさに「救国の英傑」、しかも18歳の処女である。歴史上こんな英雄は他にいないですね。日本でも巴御前が強かったとは言え、神の子だなどとだいそれたことはなかった。しかし、もてはやされたのはいっとき、為政者は彼女が邪魔になる。波瀾万丈の短い人生。宗教裁判の結果、異端者として火刑に処せられるがこれが19歳である。救世主なのか、神の子なのか、聖女か魔女か、あるいは狂女に過ぎないのか、この論点だけでも密度の濃いミステリーとして充分であります。
余談ですがドラクロアの作品「民衆を導く自由の女神」、右手の国旗を高く掲げ、後ろを振り向き「われに続け」と、私はこれはジャンヌ・ダルクを描いたものだと勘違いをしていました。明らかに間違い。豊満な乳房をさらけ出したあれはどうみても18歳にはない成熟の色気がありますものね。
この小説、もう一人のジャンヌが登場するところがミソ。娼婦、こちらが主人公。このジャンヌ、神の存在を否定し、信じるものは我が身のみ、ジャンヌ・ダルクを利用して権力の座にありつこうとする野心家なのです。文字どおり手練手管で軍部をたらしこみ、ジャンヌ・ダルクが神の使いであることを示すマジックを考えたり、この現代的な女性像が実に活き活きと魅力的に描かれています。聖母マリアよりはマグダラのマリアに愛着を感じるのが大衆ですから。
これも余談ですが「ジャンヌ・ダルク裁判」について一言。論点は彼女が神を見て神の啓示を聞いたかどうかの一点にあったらしい。つまり「神的存在」と直接接触できるのは聖職者に限られるのです。聖職者でない単なる信者がそんなことはできない。したがって啓示を受けたと主張する彼女は異端者なのですね。啓示を受けたというのが嘘だったと告白すれば神の子を騙った罪人となる、どっちにしろ罪は免れない仕組みだそうだ。実は聞かなかったと言って欲しかった、そうすれば軽犯罪で、火あぶりはまぬがれる、教会側にそんな気持ちがあったという説もあるが、どうだろうか。この1431年のジャンヌ・ダルク裁判は神学史上大問題を残してきたのですね。魔女と認定したままでしたから。ようやく1920年に至ってローマ教皇が彼女を「聖者」にしたのだそうです。で、いまは「魔女」であり「聖女」なのだそうだが、これはすごいミステリーだ。
この小説ではこんな屁理屈はでてこない、徹底的に娼婦ジャンヌの活躍を描き、娯楽性を追及しています。
|