吉田修一 『悪人』

もはや動かしようがない格差の拡大社会と歪められる家族関係を通して人間の本当の値打ちとはなにかを問いかける。

このところ家族の絆をテーマにした話題作を二作読んだけれど、いずれも作者が作り上げた抽象的、技巧的世界に読者をひきつけようとしただけの家族ものだった。『悪人』はそうしたキワモノではない。現代社会の家族のある断面を直視した著者がそこに生きる人たちのやりばのない怒りと寂寥感をリアルに伝えてくれる傑作である。リアルだというのは私の中にいくつもの関連する具体的イメージが浮かぶからである。善とは、悪とはなにか。家族とはなにか。大切にすべきものは。真実を歪めるものはなにか。

「悪人」という表題だが読んでいて浮かんだのが春秋・戦国期の中国のお話だった。
楚の人で正直者の躬というものがいたが、その父親が羊を盗んだときそれを役人に知らせた。楚の宰相は「こやつを死刑にせよ」と命じた。
父親の盗みの動機などは説明されていないただこれだけのお話である。「こやつ」とは躬を指している。この宰相の処断は孔子流儀であって国を滅ぼすものだ、と韓非子は指弾する。そうだろう。法律に照らして「悪人」が父親であるのは明らかである。内部告発が「奨励される」現代ではなおさら躬の行動は正しい。だが、それでいいのか。待てよ、といささか躊躇する心情がどこかにあるものだ。この場合、親と子の立場が逆転していてもかまわない。関係が夫婦であっても恋人同士、友人同士でもかまわない。そこにはお互いに相手を大切に思う心の通い合いがある。仁愛や信義、誠実の道理などはどうでもいいとなってしまった時代にあって、人間にとってそれがなくてはならないものだと思想する楚の宰相が躬の背徳行為を糾弾し「悪人」とする、この価値観を完全否定はできまい。『悪人』と表題したのはこのあたりに含むところがあるからだろう。著者は冷静にあるときは冷酷に、しかしやさしさのこもった眼差しで登場人物の「悪人ぶり」を描き出している。やさしい視線があるからだろう、物語はとても悲しいのだ。


2008/02/15


殺人事件の被害者・石橋佳乃、短大卒20歳、博多にアパート住まいする保険外交員。みてくれで男を評価するが、そのみてくれのいい男には相手にされない女で小遣い稼ぎにあっけらかんとセックスをする。父母は久留米の床屋であるが商売はさびれゆく一方にある。被疑者・清水裕一・高卒、いくつかの職を転々とし今は土建作業員、27歳。幼くして母に捨てられ病弱の夫をかかえる祖母に育てられる。車になけなしの金を使うが、ファッションヘルスで女を買ってもまともに相手にされない。それほど人づきあいの下手な男。被疑者・増尾圭吾・大学4年生、実家は旅館経営だから金には困らない、女にも不自由しない。他人の不幸を笑い話にできるチャラチャラ人間でアウディを乗り回す。

詳細に述べられた家族関係から私は最近になって言い出された格差社会が実は親の世代から継承された再生産の産物であることに気づかされた。格差の被害者が加害者を親だと認識すれば家族の絆どころかそこには敵対関係しか見えてこない、ぞっとする世界だ。さらに親は加害者であることに気づかない、むしろいつまでも庇護者のつもりだからますます悲惨なことになる。著者は「格差社会」という言葉は使用していないがまさにその悲劇性の根源と広がりをなまなましく抉り出している。被疑者とともに逃避行を続ける女・馬込光代、高卒29歳。食品工場から転職し紳士服量販店に勤務、双子の妹と佐賀市郊外でアパート暮らし。主要登場人物では光代だけが屈託のないただ「普通」に生きているだけの女性だ。

光代も含めてコミュニケーションの手段は携帯電話の出会い系サイトだけ。自分の話を誰かに聞いてもらいたいと渇望していても聞いてくれる人がいない寂しさ。そして「寂しいということがどういうものなのか分っていない」若者たちである。そんな寂しさを経験したことのなかった私ではあるが、あまりにも寂しいと、いたたまれなくなるようにその寂しさを実感させられた。知らない世界だがそこに入り込んだ気分にさせてくれる、それが名作を読む醍醐味である。
寂しい、だから自分の話を聞いてくれる人・光代に巡りあった彼の喜びは大きかった。………とストーリーは展開していく。最近の「純愛」にはいろいろあるが携帯小説や軽口の「純愛劇画」とはまるで違う。これはいい歳をした大人が読んで目頭を熱くする本物の純愛小説でもある。

「大切な人、それはその人の幸せな様子を思うだけで自分までうれしくなってくるような人たい」。
それが親子であり夫婦であり家族であり、恋人であり友人であって、大切な人を大切にすることのできるかどうかで人間の本物の値打ちがわかるのだと私には思えるのだ。ところが
「今の世の中、大切な人がおらん人間が多すぎるったい。大切な人がおらん人間は………失うもんがなかっち、それで自分が強うなった気になっちょる。自分を余裕のある人間っち思い込んで、失ったり、欲しがったり一喜一憂する人間を馬鹿にした目で眺めとる。本当はそれじゃ駄目とよ」。
殺害された娘の父親の慟哭である。この一言に込められた著者の存念の深いところに私は身震いを感じた。

地方経済の衰退、老人介護問題、老人相手のインチキ商法、マスコミ報道の無責任なども盛り込んでそれらが散漫にならずテーマにしっかりと組み込まれている。私は著者のデビュー作である『パーク・ライフ』の人物像には存在感を感じなかったものだが、キャッチコピーの「デビュー10年にして到達した著者の最高傑作!!」は掛け値なしにその通りだと思う。

川上未映子 『乳と卵』

雄弁は銀、沈黙は金っていう。そんなことかもしれないと思いながら、いずれにしても自分の気持ちを相手にそのまんま伝えるのは相当難しいことだ。サラリーマンを卒業し家庭の中の時間が圧倒的に増えた今になって振り返れば、会社生活のほうが意思の疎通は容易だったような気がする。なぜかというとそこは約束事とか規則とか通念ってものが完璧だから、「文法」に従って言葉を口に出しまた文章を書けばそれで「私」をありのままに表現することになっているからだ。「慎重に検討させていただきます」といえばそれなりに社会通念が調和的に機能するものだ。心の奥の襞に隠された本当の私など伝える必要もなければ聞く人もいないのだからね。

2008/02/21

ところが家庭という奴はそんなシンプルなものじゃあない。積年の喜怒哀楽、怨念、愛憎、恩讐、貸借の実績が複雑な層を成して沈殿している場が家庭である。そして洗いざらいさらけ出さねばならない、さらけ出させて聞かねばならない時がある。上等の社会通念など通用しない、感情が先行するいわば無法地帯が家族であって、夫婦、親子の間で相手が気を悪くしたり迷惑がるようなことも平気で言い合うことなんてしょっちゅうだから、饒舌が喧噪に転化し罵倒にまで至れば別れろ切れろ、でていくかと、翌日冷静になれば、えらいことを口走ってしまったと反省しきりで気まずい沈黙の結果にいたる。そして沈着に思考するに 自分の本当の気持ちを相手に伝えるのはいかに難しいことであるかと。さらに思索的に突っ込みを入れれば、言葉の海に漂いながら、いったいぜんたい自分の本当の気持ちを組み立ててくれる言葉なんてあるのだろうか。記号の組み合わせにすぎない言葉に変換した途端、それは本当から遠いところの虚しいものでしかないと。

作中の巻子さんによれば標準語は嘘くさいそうだが、語り手の「わたし」は奔放にめまぐるしく大阪弁でまくし立てる。軽やかであり、粘々した、それでいて痛快さもある。話し言葉の面白さ。
「巻子はわたしの姉であり緑子は巻子の娘であるから、緑子はわたしの姪であって、叔母であるわたしは未婚であり、そして緑子の父親である男と巻子は今から十年前に別れているために………父親の何ら一切を知らないまま、まあそれがどうということもないのだけれど………この夏3日間を巻子の所望で東京のわたしのアパートで過ごすことになったわけであります。」
とまぁこれがワンセンテンスの饒舌であります。父親を知らない少女の境遇を「まあそれがどうということもない」と、いかにも突き放したようなひとことに少女と向き合う「わたし」の繊細な気配り、やさしさの気配を滲ませている。話し言葉ならではの魅力である。
巻子のおしゃべりのなかには屈折して哀しい母親の情感が直接に読む人の心に伝わるところがあって、なるほど「嘘くさい標準語」ではこうはいくまいと、これもまた話し言葉を操る著者の巧みさである。

巻子、39歳、場末のホステス。目下豊胸手術を受けようと無我夢中で「わたし」にそのことだけを語りかける。しかしそのブツブツと沸き立つ言葉からは「わたし」も読者も彼女がなぜそこまで豊胸にこだわるのか、判然とした理由としてはわからない。テレビで識者が喧々諤々とやりあう女性の豊胸願望論争をおちょくった「わたし」がなんともおかしい。これがタイトルの「乳」である。
緑子、小学校6年生。母を拒絶し、なぜかだれに対しても言葉を一切口に出さない。会話は筆談で済ませる。言葉の海の海面の喧騒をよそに海底で殻を閉ざし、かたくなに沈黙し続ける少女。ただ日記風にノートに自分の内心を率直に綴っている。初潮期を迎えようとしている少女の生きることへの恐れ、これは昔からよく小説のテーマになったと思えなくもない。しかし、彼女の場合それは「人生への恐れ」よりも受精卵ベースでの「生命体そのものへの嫌悪感」に近いものがある。これがタイトルの「卵」である。

『乳と卵』は親と子の微妙な葛藤をテーマにしている。偶然だがこのところ立て続けに同じテーマで4作品を読んだことになった。著者たちの世界観に関わらず、親子ものがこれだけ話題にされる、それほどにひどく寂しい世の中になっちまったんだ。桜庭一樹『私の男』、親子関係と夫婦関係を融合して成立するという特異な家族観。松浦理英子『犬身』は親子、夫婦、兄弟関係を支配・被支配の対立で描いた。吉田修一『悪人』はそこに加害者・被害者の視点を持ち込んだ。川上未映子はこの作品で緑子の視点から親子関係を対立にせず侮蔑・嫌悪と依存・哀憐が両立している関係とみている。緑子が始めて声をはりあげる。その瞬間。読者のわだかまった心が氷解する。饒舌と沈黙を対比させながらすすんできたストーリーがこの万感のこもる叫びで山場を迎える。小説・映画・芝居、昔から似たようなシーンにはたびたび出くわしたなぁと思うのだけれど、そのありきたりなところが親子っていうもんじゃないかと心打たれた。

船戸与一 『満州国演義1風の払暁』

船戸与一の作品では『蝦夷地別件』、「滅びの残酷史」というべき最高傑作があったが、「満州国演義」第一巻を読む限り、『蝦夷地別件』に匹敵する、あるいはこれを超えるかもしれないとすら予感を覚える大河ロマンの幕開けである。

2008/03/03

大河ロマン「満州国演義」の第一巻「風の払暁」は中国大陸と日本を舞台にして昭和3〜4年という短い期間を描いている。400ページに近いボリュームがあるのだが、いかに精密にこの昭和の払暁を描いているかがわかるであろう。
北伐を再開した蒋介石の北上に対し田中義一内閣は居留民保護を名分に第二次山東出兵を挙行、済南城を攻撃、占領する(済南事件)。そして蒋介石軍に追われ、北京から奉天に向かった軍閥・張作霖が関東軍高級参謀河本大作大佐の謀略により爆殺される(満州某重大事件)。張作霖の後継者・張学良の国民政府への帰順(易幟)。
国内では震災処理に端を発した金融恐慌の深刻化から四大財閥の独占が進み、中小商工業者の相次ぐ破綻・閉鎖によって労働争議が全国で勃発、失業者が溢れる。一方で改正治安維持法による左翼活動への弾圧強化と社会は騒然たる状況に追い込まれていた。田中内閣総辞職と浜口雄幸民政党内閣の成立。

敷島家、長州出身の名家。この昭和の動乱を生きることになる四兄弟が実にドラマチックに登場する。
次男・次郎。日本を捨てた馬賊の長である。ここでは母国の大陸侵略と関わりなしと颯爽として満州の地を駆けめぐるが………。四男・四郎。学生という立場に甘んじながら無政府主義に傾倒している。彼は特高警察の刑事・奥山貞雄の姦計に嵌められ、絶望の淵に立たされる。そして大陸へ………。長男・太郎。奉天日本領事館の参事官、関東軍の独走が国際世論に耐えられないと強い危惧を抱いている外務官僚であるが自分の立場にその無力感を隠せない。彼を取り込もうとするは関東軍特務機関の間垣徳三の狙いは………。三男・三郎。奉天独立守備隊に所属する真面目で武骨な軍人。彼は間垣徳三に持ちかけられ張作霖爆殺事件の片棒を担がされる。

あまた歴史上の人物が登場する。私の知っている事象、知らなかった事実の詳細がストーリーの節目節目で生き生きした背景になっている。そしてそれらすべてが四兄弟と密接にかかわり、彼等と一体になってドラマを構成する。だから緻密でありながら昭和史の解説に堕さず、昭和という脈動が感覚的に伝わってくるために、その迫力には圧倒される。歴史の事実は変えようがないのであるから、この第1巻の直ぐ先にあるのが満州事変の勃発だとわかっている。わかっていながらそこへ向かってじわりじわりと積み重ねられる事実経過の紆余曲折、その事実に押し流される人たちのドラマの数々が、まるで先の読めないリアルタイムのようで、読む人の緊張感が高いテンションのままに最後まで持続するのである。

装飾帯に「そこには欲望のすべてがあった。望んだものは金銭か、権力か、それとも夢か」とあって登場人物たち個人のギラギラした欲望の相克をさしていると誤解されやすいがそうではない。
一言でいえばテーマは「戦争と人間」、主人公は「昭和」そのものであると。