笹本稜平 『越境捜査』

日本の警察もアメリカ並みにここまで腐っているのか?いやまさかここまでのことはあるはずがない、と思ったところで、防衛省のあんな醜悪な大犯罪が起こるんだから、この作品だってフィクションをフィクションとして楽しめばいいと単純には割り切れなくなっちゃうではないか。

佐々木譲のシリアスな警察小説『警官の血』をじっくり読んだ後だけに、巨悪と戦う荒唐無稽なバイオレンスを期待して手にとった警察小説である。
帯には
「12億円に心がグラリ!!勝つのはどっちだ」
「じっくりガッツリ読ませます!」
とひょうきんな口調であるから一種のビカレスクロマンでありコンゲーム小説のようにみえた。ただそれなら敵も味方もやり口もラストシーンだってドライな痛快さ、ユーモア、軽妙さが売り物になるはずだが、逆にエル・ロイが描いたロス警察もの的ノワールさが妙な重苦しさで最後までつきまとう、なかなかのくわせものであった。

タイトルの『越境捜査』。「越境」とは警察小説につきものである「管轄外介入」を指す。

「警視庁捜査一課の鷺沼は、迷宮入り事件のファイルを開いた。14年前、12億円をだまし取った男が金とともに消され、犯人も金も行方不明のまま。再捜査開始。鷺沼は12億円の行き先をつかむ。神奈川県警………。しかしそれだけではなかった」

「しかしそれだけではなかった」のであって、この作品を読むと「越境」=「管轄外介入」=「組織の対立」が警視庁VS神奈川県警察本部だけではなく、いくつものパターンがあることに気づかされる。

警察小説、花盛り。この際だから、警察小説を楽しむためにややこしい警察機構を組織対立の観点から整理しておこうと思った。ただし、ミステリー好きがいくつかの警察小説で語られている知識でもって整理したものであるから、そこには警察機構のマイナス面だけが書かれているのだから、歪曲といわれても、そうかもしれないとしか答えようはない。

2007/12/09
「警察小説を楽しむための手引」

日本の警察機構だが根幹には地方自治の考えが流れている。都道府県ごとに主体性を持って警察組織を保有する考え方だ。(あしざまに言えば 俺が、俺がの村社会)。都道府県知事の所轄の下に都道府県公安委員会が置かれ、その都道府県公安委員会が都道府県警察を管理する仕組みである。(実際のところ、公安委員会は国家公安委員会も含め事務局は警察庁および都道府県警察主導の運営がなされているのであり、法の意図するところとのは異なる。)ところで東京都以外の道・府・県警察はそれぞれ「道・府・県警察本部」と呼称し、東京都だけが「警視庁」と特別に命名されている。警視庁のトップは警視総監と呼ばれ、国家公安委員会が都公安委員会の同意を得たうえ内閣総理大臣の承認を得て任免される。道府県警察本部長は国家公安委員会が道府県公安委員会の同意を得て任免する。尊大な名称といい内閣総理大臣の承認といい、東京都の警察はその他大勢組とは違う、破格にエライのである………小説では羨望と妬みでみられることが常識化しているようだ。

それぞれの都道府県警察がタッチするのはその管轄区域内における事件であるが、例外として
「関連して必要がある限度においては,その管轄区域外にも権限を及ぼすことができる」ことになっている。
この作品でもそうだが、警視庁(桜田門とも呼ばれる)VS神奈川県警の構図は、隣接という場所がら発生しうる代表的な対立、犬猿の仲として映画、テレビドラマでおなじみのところだ。「介入」はおうおうにして村社会に起こる「縄張り争い」であり、またそれと裏腹で村社会の保存本能による共同体内の「不祥事隠蔽問題」がドラマチックに扱われることになる。対立する組織がお互いの失点をバーターで隠しあう馴れ合いもよく取り上げられるテーマだ。さらに警察官の特にノンキャリアの出世ステップについては点数制による独特の勤務評定制度が存在しているものだから陰湿な功名争い、悪質な点数稼ぎ、足の引っ張り合いがこの対立の火に油を注ぐ。

都道府県内の区域を分けた各地域を管轄するものが警察署であってこれが第一線の運営単位である。この現場をドラマ、小説では「所轄」称して、所轄同士あるいは本部と所轄の対立構図を描くものもある。

ここまでもわかりにくいのだが、さらに国家公安委員会と警察庁の存在がある。警察庁は国家公安委員会の管理下にある警察行政の中央機関であって直接に捜査活動をおこなうものではない。警察庁長官は国家公安委員会が内閣総理大臣の承認をえて任免される。

国家公安委員会のホームページによると
「国家公安委員会は、個々の具体的な警察活動について直接の指揮監督を行うのではなく、あくまで、警察庁を管理し、また、警察庁に補佐させながら仕事を行っています。 具体的な仕事については、警察庁長官が、国家公安委員会の管理に服しながら、警察庁としての事務を行い、また、都道府県警察を指揮監督することによって行なわれます。」
(国家公安委員会は権力があるのやら、ないのやら、このあいまいなところ、官僚的名文ですね)
先に触れたように国家公安委員会の事務局は警察庁が運営しているのだから、この言葉通りに「警察庁を管理している」実体にはなく、「警察庁のいうがまま」だと警察小説の教えにあります。
そして警察庁は都道府県警察を指揮監督するのであるからこの両者にも対立の構図がある。よく警察庁の権力体質は警察から「現場を知らない事務屋」と揶揄されるシーンを見かける。
国家公安委員会は警察庁の飾り物かといえばそうでもない、国家公安委員長の権力は大きいのだと聞く。
すなわち国家公安委員長は内閣の一員である国務大臣である。つまり政治家であり、警察庁をつうじて都道府県警察を指揮監督する権限があることから、警察小説ではこのルートがよく公安関連また政治家がらみの犯罪の材料として取り扱われ、大掛かりな介入や隠蔽工作に発展するのである。


こんなふうに整理してみるとこの作品は警察機構の重層的対立構図を描いてなかなかよくできたエンタテインメントである。

浅田次郎 『中原の虹』

傑作『蒼穹の昴』の続編である。新国家建設に混迷する中国大陸。民の平安のために!と張作霖は燃える。彼を新しい英雄にしようとする浅田次郎の着想は成功しただろうか。

冒頭、100歳を超えた占い師の老婆から「汝、満州の覇者となれ 汝東北の覇王たれかし 走れ、はるかなる中原の虹をめざして」と予言を受けたのは貧しい青年・張作霖だった。『蒼穹の昴』の冒頭、極貧の農民少年・李春児が輝かしい未来の予言を受けるシーンと同様でワクワクさせられる。

2007/12/15

満州馬賊。「僕も行くから君も行け、狭い日本にゃ住みあいた………」とかつての日本人ならなじみぶかい、反官精神と任侠心で結ばれた武装集団。その一群の頭目として頭角をあらわした張作霖は有力な馬賊たちを次々と制圧、東北三省をその武力で押さえ込むまでにいたる。「鬼でも仏でもねえ、俺様は張作霖だ」と叫びながら満州の大地を駆けぬける天衣無縫。稀有の戦闘能力と統率力。やさしさと非情さをあわせもつ。第一部は浅田次郎が生み出したこの新しい英雄像の魅力が活き活きとして読者に紹介される。主人公の波乱の人生を予感させるにふさわしいスタートが切られる。

時代をたどれば『蒼穹の昴』は戊戌の政変(1898年)直後までが書かれている。『中原の虹』全巻は清朝末期から中華民国誕生、どうやら1900年を数年過ぎたところから辛亥革命後袁世凱が失脚、病没する1915年あたりのほぼ10年間だと思われる。ただ、歴史小説だとすれば中国近代史を語る歴史認識にいささか欠陥があるのではないかと思われるふしがある。
でも小説家なのだから学者や評論家のような歴史観は必要なしと割り切り、ただ、新国家建設へむけて国民党や軍閥・袁世凱さらに日本を始めとする列強がぶつかり合う、中央政権争奪の混沌を極めるときであるから、この新しい英雄に浅田流講談調でもかまわない、どのような国家ビジョンを吹き込んで、読者を楽しませてくれるか、それが浅田次郎のストーリーテラーとしての腕の見せ所だ。

『蒼穹の昴』。逆境にあって運命を切り開いていく主人公春児。浅田次郎が生み出した主人公は光っていた。それはそれとしてもう一つの素晴らしかったところは実在の人物である西太后について、中国王朝史上に残る三大悪女のひとりである西太后を救国のヒロインとして甦らせた歴史デザインの独創性には驚かされたものだ。

さて今回の主人公、張作霖も実在の人物である。第一部ではやくも張作霖は中国の歴代王朝に伝わる王者の証「龍玉」を手に入れるのである。そうであれば先行き、滅び行く旧体制と向き合った時には「中原の虹」を目指すことになるのだろう。彼の野心あるいは夢はどこまで広がるのか。それがどのように発展、変化していくのだろうか。そして彼は日本とどう対峙して、いかなる未練や怨念をかかえたまま爆殺されるのだろうかと期待はますますかきたてられた。

装丁帯のキャッチコピーもまたキラキラと魅力的だ。
「栄華を誇った王朝に落日が迫り、新たな英雄が生まれる」第一部
「圧倒的感動で描かれる、一つの歴史の終焉。中国歴史巨編、佳境!」第二部
「龍玉を握る張作霖。玉座を狙う袁世凱。正義と良識を賭けて、いま、すべての者が約束の地に集う」第三部
「龍玉を握る張作霖は乱世を突き進み、新しい時代が、強き者の手で拓かれる」第四部

期待が大きすぎたのだろうか。第二部以降は疾走感が薄れどちらかといえば冗長、読み飛ばしたくなる挿話が重なってくる。時代を遡った清王朝成立前夜の同族間の争いがかなりのボリュームで挿入されている。張作霖と彼の幹部たちにまつわる数々のエピソードも読み続けるうちに平板にしか感じられなくなる。『蒼穹の昴』に登場する人物たちの後日譚が詳細にあるがもはや精彩はない。挿話があまりに拡散すると全体の流れに緊張感がなくなってしまう。いや「全体の流れ」とはなんなんだろうとわからなくなってしまった。

張作霖の背後には関東軍が控えていた。関東軍は大陸侵略への足がかりとして張作霖を利用した。両者は時に反発しあいながらも概して持ちつ持たれつの関係にあった。そして関東軍による張作霖爆殺事件が起こった。この常識的史実には重たいものがある。小説家の創造力を持ってこの張作霖を英雄に持ち上げようとしたのだろうが、史実の重圧に耐えかねて筆が止まってしまったのが本当のところではなかろうか。

BK1 『てのひら怪談2 ビーケーワン怪談大賞傑作選』

ビーケーワン恒例の真夏の怪談競演も昨年で5回と続いた。第4回の応募は271篇だったが、第5回は663篇が寄せられたそうで、私も毎回参加させていただいているが、だんだんとお祭り騒ぎが大きくなっていくのにビックリしている。『てのひら怪談2』はこの第5回応募作品から選りすぐりの100篇を掲載したものだ。選考委員の評価によれば作品の質が年々充実さをましているそうだが、この傑作選をみるとたしかにそのとおりだと思う。
小説をその長さで分類し、長編、中編、短編とあってそれより短いのを掌編と呼ぶ。これは最近知ったことだ。だから「てのひら」なのだろう。ショートショートといわれて星新一や小松左京がブームを作ったSFのジャンルがあったがいまや掌編怪談の時代になったともいえる。

2007/12/20

アカウンタビリティー(説明責任)という概念が普段に使われるようになった。消費生活の現場で私たちは商品やサービスの内容をこと細かに知らねばならないと強迫観念が生まれるようになってしまった。また事件が起こればマスコミは微にいり細にいりなぜ犯人はそんな異常を起こしたのか説明しようとする。私たちも知りたがる。合理的な因果関係が解明されないと消化不良の不快感が残る。つまらんことだがそれが習い性になってしまった。とにかく科学的、合理的、論理的にいかないと通用しないのが現代社会なのだ。

「よくわからないなぁ」ではホッとして胸をなでおろすことができない心理、それが現代人の持つひとつの、しかしかなり広範に浸透した焦燥感であろう。だが、現実に生きている場では説明不可能なことをしょっちゅう体験している。「よくわからないなぁ」と思う事物や現象に遭遇もする。最も不可解なのは人間の心の奥の奥にある闇、それは本人すら「よくわからないなぁ」なのだ。

そして掌編怪談はこの現代人の大衆心理を逆手にとって作者が楽しみ、読者を楽しませてくれる。800字の字数制限ルールは実に精妙な働きでもって掌編怪談を成功させている。
昔、少年時代に作文の時間で教わった忘れられない原理に「起・承・転・結」があった。「サザエさん」「クリちゃん」など4コマ漫画の例が挙げられた。これでもって因果関係を説明することができる。ところが800字という字数制限ルールは起承転結原理にはなかなかなじみにくいものだ。私などはこの古い原理に呪縛されていていつもウンウンうなってしまうのだが、現代怪異譚とはどうやらそんなしがらみから飛躍してしまったらしい。「起」だけで完了しているものもあれば「結」だけが描写されている。読んでいるものは「えっ、それでどうなるの?」とあるいは「なんでそうなるの?」と心穏やかにはいられない。だが説明責任は放棄されている。おそらく著者が感じている暮しの中の不安、理不尽なストレスが創作意欲に結びついているのだろうが、そこから生まれる宙ぶらりんな漂流感覚によって読者は奇怪な世界に引きずり込まれるのだろう。

アメリカ流の合理主義が幅をきかせるものだから妙なナショナリズムが装いをあらたに流行する今日だが、それよりも非合理にロマンを求める現代のあやしの世界を楽しむほうに格別なものを感じる。

手前勝手かもしれないが。私の作品「お花さん」も江崎来人のペンネームで掲載されている。新進の文芸作家、川上未映子さんから「充分に気色悪い」と言われていることが紹介されているブログをみて充分に気色を良くしている。