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吉村昭 「敵討」
構造改革の犠牲者
2004/03/25
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種族保存の本能による実力的復讐行為の私闘として敵討は古くから世界の諸民族に共通して見られるが、儒教の教説(親の敵討は一貫して子の義務、不倶戴天の敵)をバックボーンとし、武士道の勇武,忠義の尊重など武士の倫理と結びついた江戸時代における公認の制度は日本固有のものらしい。赤穂浪士一件などのように、主従倫理に結びついて、集団的な親族,縁故者,家臣などの争闘も見られるが、しだいに家族単位あるいは個人的なものとなった。芝居や講談で少年時代に知った仇討は悪逆無道を懲らしめる、すべて拍手喝采の英雄伝であったと思う。しかし実際はおぼろげな記憶だけに頼って逃げ回る敵を討つのは容易なことではなく、自分が先に行き倒れ、気持ちがなえて、主家に戻ることなく、姿を消すことが多かったようだ。さらに、自発性は薄れて,倫理,恥,外聞など社会的圧迫による行為となると武士道の鑑とは名ばかり、武士道残酷物語に転ずる。
吉村昭「敵討」はこの悲惨と空虚をドキュメンタリー風に、感情をいれず淡々と叙述することでむしろ読後の感銘を深くさせている。
この著書には「敵討」「最後の仇討」の中篇がおさめられているが、前者は天保の改革、後者は明治維新期、いずれも派閥,政論の対立による暗殺とその報復という面があり、当時の社会情勢の変遷を浮き彫りにし興味深いが、討たれる者もまた時代の犠牲者であったことを述べて、悲しい。
小泉内閣の進める構造改革に犠牲者数多と思いをはせるのも的外れではあるまい。
2001/07/21
映画『ラストサムライ』の大ヒット、NHK大河ドラマは『新撰組』、新渡戸稲造著『武士道』のベストセラー入りなど今、いわゆる武士道の再評価ブームがある。正義、誠実、倫理、人徳と高潔と情熱を備えた強烈な指導力、アイデンティティーに惹きつけられるものが確かに存在する。日本人がそれらを失って漂流しているからだ。だだし、だからといってそれらの代償に武士道を直接もってくるのは待てよと一歩ふみとどまるところだ。武士道にもいろいろある。礼儀正しさも武士道の重要な美徳であるがこれが階層社会における随従とされていた。吉村昭『敵討』にはブームの「武士道」とは裏返しの武士道が描かれる。
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吉村萬壱 『ハリガネムシ』
倫理担当高校教師の隠れていた暴力への欲望が突然はじけ出る。
2003/08/02
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読み進みながら子供の頃のハリガネムシの記憶が鮮明に浮かんだ。よく見かけた昆虫の中でもカマキリそのものですら長く細い体の下部にはいやらしくふくれた腹が、先には三角形の鋭角な小さな頭が乗り、その割に大きな目玉がぐるりぐるりと、鋭い口先をパクパクさせ、見るからに獰猛であり、その鎌を振る様は威嚇的であり、実際に私がなじんだ昆虫の中でもっとも醜い攻撃的虫けらであった。そのカマキリを踏みつぶす。緑色の体液に混じってくねくねと細長い針金状の寄生虫が腹からはじけ出るのである。文字通りはじけ出るのだ。カマキリの体長の10倍はあろうかと思われる、ネバネバと黒光りするその姿態は吐き気が出るほどグロテスクであって、どうしてこれだけ質量がこの小さな腹に納まっていたのかとゾッとし、もしかしたらカマキリはこの怪物によって支配され、動かされ、これまでの生を生きてきたのではないかと思われるほどの存在感を圧倒的にさらし、蠢いているのであった。
転落した果て、最低レベルの風俗店で働くソープ嬢。容姿、肉体は無様に、知性のかけらはなく、精神は粗野、人間にある尊厳を一切捨象した女が登場する。高校で倫理を教える<私>がこの女と同棲、人目をはばからぬ狂態の日常に、女を嫌悪し、己を嫌悪する。そして女が受けた或いは受ける暴力行為や自分の腕に刃物を当てるその傷跡にやがて己の内にすみついた暴力の種がはじけていく。そして<私>は自滅していく。
花村萬月の『二進法の犬』も暴力世界に魅せられ堕ちていくインテリを描いていた。がそのエネルギーの方向は対等の力を持つもの或いはより強い力を持つものへ向くベクトルであったが、ここでは逆に自分よりも弱いものへ向かう薄汚い暴力である。<私>はこの女を歯が折れるほど殴打する。あるいは裂けた傷口を縫い針で縫い、傷口を広げて指先でそこをこね回す。ラストは二人の痴態を目撃した若者集団により凄惨な暴行をうける立場に逆転するのだが、<私>の精神構造には怒りや屈辱という反作用はない、ただその暴力を自虐的に受けとめるのである。
<私>は堕ちていく。街娼になって死んでいく女たちを描いた桐野夏生の最新作に『グロテスク』がある。そこでは彼女たちの焦燥感をかきたてるものを社会の枠組みとして、堕ちていった理由はそれなりに示されていた。
ドメスティックバイオレンス、「キレル」若者の通り魔的殺人、メール交換心中これらが日常茶飯事で起こる。池田小学校における大量児童殺傷事件の犯人のふてぶてしさはつい先日目の当たりにした。現実の卑劣な社会現象なのだが、しかし、すべて動機がわからない、理解できない暴力沙汰ばかりである。過激なセックスシーン、暴力シーンがふんだんにあるこの作品、誤解してはならないだろう。作者の目は冷静である。弱いものに向けられる暴力の根元には得体の知れない魔物が潜んでいるのではないかと、現代社会の精神病状を淡々とのべているようで、実に不気味なリアル感がただよう。
そして子供心に残るあのおぞましいハリガネムシ………。このタイトル、言い得て妙である。
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隆慶一郎『影武者徳川家康』
柳生忍群と風魔一族のバトルアクション 理屈抜きの面白さ。
2002/10/10 |
私が小学生のころの戦国時代の英雄といえば豊臣秀吉と真田幸村であった。身近にころがっていた講談本や漫画によって焼きついた記憶だ。信長ですら秀吉を語るための脇役にしか過ぎず、まして家康は秀吉の努力の成果を掠め取った「タヌキオヤジ」であり悪い人であった。真田幸村はすなわち真田十勇士であり、その家康をさんざん苦しめる一騎当千のコンバットチーム、奇想天外なバトルアクションで少年の血をわかせたものだ。
この図式を一転させたのが今から30年も前になるのか、山岡荘八の『徳川家康』だったのだろう。吉川英治の『新書太閤記』は読んだが、これには手が出なかった。戦後の混乱期から日本の再出発は、家康を手本にすべしとばかりに、山岡家康は政治家、大企業の経営者の座右の書としてもてはやされた。当時、ホヤホヤ社会人としてはそういう傾向の書は敬遠し、少なくとも楽しい小説とは思えなかったからである。山岡家康の精神は「元和偃武」にあるのだそうだ。家康の生涯における権謀術数は元和元年大阪夏の陣を最後に太平の世を築くためであったとする歴史観である。
文芸春秋で北上次郎が「平成の時代小説ベスト35」の冒頭に隆慶一郎を紹介していた。読んでみたいと思っていたところである。
『影武者徳川家康』は関が原の戦いで武田忍者の生き残りに暗殺された家康に替わって、影武者であった世良田二郎三郎という「漂泊の自由民」がそのまま、秀忠と15年にわたる暗闘を繰り広げながら、太平の世、民の自由のユートピア実現、結果として「元和偃武」をめざし邁進する破天荒な虚構世界を描いて圧巻である。脇役の魅力的な人物造形に加え、家康の周辺にある数々のエピソードを巧みにちりばめ、大長編ながら飽きることがない。
さらに、これはまちがいなく冒険小説である。秀忠配下の柳生忍群対二郎三郎を信奉する風魔一族との趣向を凝らした壮絶な戦いの場面だけでも充分に読み応えがある。
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