豊穣の地 「常陸国」

1 風土記について
「風土記」は奈良の地に壮大な都城(平城京)が造営され,大化改新後の地方制度も整備された元明天皇時代に,諸国の国司・郡司を総動員して作成させた郷土誌的文書である。「続日本紀」には和銅6年(713)に「畿内七道諸国は,郡郷の名は好き字を著け,その郡内に生ずるところの銀銅,彩色,草木,禽獣,魚虫等の物は具(つぶさ)にその品目を録し,及び土地の沃涯(よくせき),山川原野の名号の所由(いわれ),また古老相伝の旧聞異事は,史籍に載せて言上せよ」とある。「常陸国(ひたちのくに)風土記」も冒頭に「常陸国司解(げ)し申す,古老相伝の旧聞の事」と書かれて、物語性に富む説話や歌謡が多いことでは現存風土記(播磨、出雲、豊後、肥前)中抜群で、まさに東国民間伝承の宝庫である。

2 「ヒタチ」と呼ばれる由来
この地を常陸国と呼称される故を「常陸国風土記」は次のように記している。
「往来の道は湖・海を渡る船を必要とせず、郡郷の境は山川の峯谷に相続き、直通(ひたみち)の意味を取ってヒタチと名をつけました」またある人が言うには「倭武の天皇(やまとたけるのみこと)アズマの夷の国をめぐりみそなわして新治を過ぎますとき、新たな井戸を掘らせますと、流れ出る泉は清く澄んで絶賛すべきものがありました。乗輿(みこし)をとめておほめになり、手を洗われますと、衣の袖が泉に垂れてぬれてしまわれました。そこで袖を漬す(ひたす)の意味でヒタチと呼ぶようになりました。なお言い伝えの諺に つくばねに黒雲かかり、衣袖漬(ころもでひたち)の国といいます」
このようにヤマトタケル伝承がこの風土記にもあらわれる。

常陸国風土記によれば大化の改新以前は常陸とは言わず、足柄以東は新治、筑波、茨城、那賀、久慈、多珂の国があって総称して吾妻国と呼んでいたようである。孝徳天皇の時代に国郡制度が成立し、吾妻を八カ国(相模、武蔵、上総、下総、上野、下野、常陸、陸奥)とし、その一つを常陸国とした。

3 常世の国
「常陸国は広大で耕地は肥沃、原野も肥えて、農耕用地として有望。海山の収穫物があって、人々の生活は安定し、富豊かである。生産労働に励めばたちどころに富裕になれる。塩、魚を採り、桑、麻を栽培するのに適した地勢である。水陸の物産の豊かな「蔵」というべきである。まさに常世の国(不老不死の理想郷・神仙境)とはこの地のことだろうか。ただし水田の質は中位で長雨が続くと苗が育たないことがあり、適当な日照りがあれば、実りは豊である」(常陸国風土記より)
まさに豊穣の地であり、中央政権の財政にとって垂涎の地であることがうかがわれる。この時期の常陸国の国司には阿部狛朝臣秋麻呂,石川朝臣難波麻呂,藤原宇合がいるがこの風土記の撰者が誰かは確定できない。それにしてもこの分析力には驚きますね。
このように広く肥沃な農地に恵まれた豊かな地域であった常陸国は,奈良時代にはさらに開発も進んだ。また地理的に陸奥に近いところから,東北地方の開拓,蝦夷対策に関し,人的・物的な面で基地としての役割を果たした。「和名抄」によれば11郡の郷数は152郷,田積4万0092町余(陸奥についで全国2位)で,有数の大国であった。「延喜式」にみる官稲出挙(すいこ)の量は184万6000束で、全国1位を占めたのである。



『常陸国風土記』に見るヤマトタケル(倭武天皇)伝説
1 各地方にある伝説
◆信太郡(しだのこほり)の章に次のような記述がある。なお信太郡はわが江戸崎町を含む現在の稲敷郡である。
「倭武天皇(ヤマトタケルノスメラミコト)海辺に巡幸されまして、乗浜に行き至りました。時に濱の上に多く海苔を干していました。これからこのあたりをノリハラの村と名づけられました。」
注 乗濱 稲敷郡の東端、霞ヶ浦に臨む古渡・阿波・伊崎付近の浦浜

◆茨城郡の章
「郡の東十里に桑原の丘あり。昔倭武天皇、丘の上にとどまられて、お食事を奉りましたときに、水部に新たな井戸を掘らせたところ、泉は清くかぐわしく、たいへんおいしく飲まれ、『よくたまれる水かな』とおっしゃいました。これによって、里の名を今は田餘(タマリ)といいます」
注 田餘、新治郡の玉里

◆行方郡の章
☆行方の郡というゆえんは「倭武天皇、天下を巡りみそなわして、海の北を平定されました。ここで、この国を過ぎ、(中略)御輿をめぐらして現原の丘においでになり、お食事をとられました。そして丘から四方を眺望され、侍従を振りかえられ『輿をとどめて散策し、目を上げて望み見れば、山の襞は重なり続き、海岸の湾曲はうねうねとつづいている。峯の頂上に雲が浮かび、谷の腹には霧が抱かれ、景色はたいへんおもしろく、土地の形はとても珍しい。なるほど、この地を行細(なめくわし)というべきだな』とおっしゃられました。
注  現原 玉造町現原
行細(なめくわし) 山・海などの自然の地形、景色が精妙ですぐれている。
☆「(前略)鴨が飛び交っていました。天皇、射られましところ、すぐに命中し、鴨は落ちてきました。そのところを鴨野といいます」
注  鴨野 玉造町加茂
☆行方郡にはこの他にも
道幅狭く凸凹の激しい悪路を言って當麻(たぎま) 鹿島郡鉾田町当間
弓はずを修理したと言って波須武(はずむ)野   鹿島郡麻生町小牧付近
天皇の食事を煮炊きする家屋(おおいどの)    鹿島郡潮来町大生
などのヤマトタケルにちなむ地名由来伝承が記述されている。

2 『記紀』の表現との違い
『記紀』に見られるヤマトタケルは屈強の戦士であり、勇猛の軍神であり、また熱烈な恋をし、父の冷淡に悩む若者であるが、風土記にあるヤマトタケルはむしろ民を慈しみ、天然自然の恵みに感謝し、五穀豊穣を祈念する、老成した仁徳の君子といった風情である。なぜこうも違うのであろうか。
江戸崎近辺でもヤマトタケルに名づけられたそのままに、あるいは少し言い方を替えて、今に残る土地名がこれほどたくさんあるのには驚かされます。他の郡にもまだいくつかの記述がありますが退屈なので紹介は省略します。

3 なぜこれほど多くの地名を新たに名づけたのか
ヤマトタケルが新地に名を与えるのは個人的な趣味の問題ではありません。ファンからサインをねだられて個性的にデザインするスター気取りでもありません。それぞれの土地には部族が住み、古くから親しまれていた元来の呼称がありました。しかし征服者であるヤマトタケルにとってはまだ誰の足跡もない新天地なのです。自分の威信をここに刻み込む必要があったのです。それは土地・住民を領有するという宣告でもあったわけです。さらにその名の定着は新しい征服者に対する土着民の服従の証と言えるでしょう。かくして土地の所有などの概念が存在しないこの地域も先住民は追いやられ、高天原から渡来した一族を先頭とする集団に領有権が発生してくるのです。

4 オトタチバナヒメの登場
『常陸国風土記』のヤマトタケルには『記紀』とちがい、ロマンがなく、ほとんどが、名づけの役割ですが、ひとつだけ物語性をもつ記述が多珂郡のありましたので紹介します。

ここに倭武天皇、野に出でまして、橘の皇后に命じて海で漁をさせ、獲物を競い合って山と海のものに分かれました。このとき野の狩りは終日獲物を駆り出して弓を射ましたが、一匹の獣もとれず、海の漁の方はわずかの間に百種類の収獲がありました。狩りと漁を終え、食事を差し上げたときに陪臣におっしゃられました。「今日の遊びは私と后とそれぞれ野と海に行って獲物を競った。野のものは獲られなかったが海の味わいは飽きるほど食べた」
後になって飽田の村と名づけました。