荒山徹 『柳生薔薇剣』

「司馬遼太郎の透徹した歴史観と山田風太郎の奇想天外な構想力、さらに柴田錬三郎の波瀾万丈の物語展開を受け継ぐ時代小説作家がついに誕生した」文芸評論家・菊池仁
とこの賛辞はポイントをついているのだが、「ついに誕生した」とは認識不足じゃないか。『高麗秘帳』に始まり『魔風海峡』『魔岩伝説』『十兵衛両断』と時代小説に新風を吹き込んだエンターテイナー、荒山徹の実力はすでに定着しています。

2006/01/23

そしてこの作品もまたチャンバラ剣豪小説が大好きな読者の期待を裏切らない傑作であります。
『魔岩伝説』を読むまでは全く知らなかった朝鮮通信使という朝鮮と徳川幕府との外交史上の制度をこの作品でももっともらしく活かしています。この「もっともらしさ」には著者の素養が裏打ちされていて私の「知的?」好奇心をいつもくすぐるのですね。そして豊臣秀吉の侵略行為にたいする朝鮮民族の怨念というモチーフには目下の朝鮮外交に切り離せないリアルな重苦しさがあります。秀忠と家光の確執に伴うご存じ駿河大納言を擁立せんとする権力闘争。柳生一族の剣豪たちが繰り広げる死闘、華麗妖美な剣技の数々。これに摩訶不思議な朝鮮妖術対日本陰陽道と見せ場はたっぷりあります。
「ついに誕生した」新鮮さよりもむしろ「またか」とベテランのマンネリ化が気になるくらいだ。とはいえ、風太郎も柴錬も五味康祐だってマンネリ化したがそれがどこかにちょっとした新奇の工夫があって楽しく読み続けられたものだ。

故国・朝鮮との縁を切るために美貌の女性うねが、鎌倉東慶寺に駆け込んだ。朝鮮で虐げられ日本に永住を決意した朝鮮の人々を、強制帰国させるために朝鮮使節団が来日したのだ

まず、この「駆け込み寺」の由来なのだが実に珍奇なものであっても、ここでの語り口に引き込まされて、なるほどなるほどとご都合主義にちがいはないのだが、これ以上なくぴったりとストーリーの骨格になっている。
もう一つの初めてうかがった発想なのだが、あるいは史実なのかもしれない。文禄、慶長の役の撤退に数万単位の朝鮮人が日本に渡ってきた。わたしはこれが「強制連行」だと思うがこのお話では日本政府の庇護を求めてきた、いまでいう脱北者たちなのだ。朝鮮政府は「回答兼刷還使」を派遣し日本に拉致されたこれらの人たちを帰せと強力にねじ込んできたわけだ。朝鮮通信使にはそんな使命があったのかと虚実混沌、思わせぶりにして奔放な発想のストーリーを楽しむことになる。
幕府内の家光派と忠長派の対立や使節団の思惑もからみ、うね争奪をめぐって幕府は二分される。名だたる剣豪や忍者群の暗闘、朝鮮妖術師も加わり、血で血を洗う暗闘が始まった。東慶寺住持・天秀尼に特別な想いを寄せる三代将軍家光は柳生但馬守宗矩に密かに寺の守護を命じる。宗矩は嫡男十兵衛を凌ぐ剣客でもある実の娘・矩香を男子禁制の東慶寺に遣わすが、そこに現れた人物こそは………!?

しかも今回は女性陣が正義の味方として大活躍します。だいたい剣豪小説に登場する女性は魔性のものですが。本著のここも荒川流講談として新しいところですね。
絶世の美女にして無双の剣豪、柳生薔薇剣の使い手・矩香にも、忘れがたい人がいた。
男色の家光が密かに焦がれた天秀尼は凛然として朝鮮魔人と対決する。
そして朝鮮人女性のうねです。男への愛と引き換えに祖国を捨て、異国で子を成し、さらに祖国へ連れ戻されることを峻拒して、愛する夫と三人の息子を惨殺された。彼女が運命の破局を前にして奇跡をおこす。女の鑑です。
かつて私は満月でありました。最愛の夫、主馬と二人で輝く十五夜の月。男と女はともに半月です。半月と半月が結ばれて、美しい満月となるのでしょうね

歯の浮くようなこのセリフ!笑ってはいけませんよ。いまどき韓国のメロドラマだってお月様にここまでの情感過多はこめないでしょうね。子供のころに聞いて涙をながした浪花節、「壺坂霊験記」を懐かしく思い出しました。
『わたくしが朝鮮の人間である限り、あの人とは仇同士。でもそんなしがらみが何だというのでしょう。自分の属するもののしがらみに絡め取られて、愛する人を敵とする、人と生まれて、これほど愚かしいことが他にありますか。』きつく窘めるのでなく、こんこんと説諭するのでもなく、一人の女として楽しい思い出を追想、回顧するような口調でうねは云う

クサイ!!!なんとか賞との文芸作家は尻込みするでしょう。どうです、美空ひばりが泣きますこの演歌調!やはり、講談・浪花節・芝居の世界、大人の世界、日本人の世界だな。

まことに俗臭芬々たる大衆小説!万万歳です。


佐々木譲 『駿女』

昨年のNHK大河ドラマ「義経」は藤原泰衡に義経主従が討たれるところで完結しているがこの作品はその後のいわゆる奥州合戦、藤原一族とともにあった奥州豪族たちの鎌倉政権への叛乱と頼朝の軍勢に敗北していく末路を描いている。奥州合戦が奥州征討とも呼ばれるように先住民族・蝦夷に対する大和民族の征服史の一環でもあるところからこの作品でも古代から引き継がれている蝦夷の抵抗精神が織り込まれている。
藤原泰衡は義経を擁立せんとする父・秀衡の遺言を反古にし、頼朝に追従する怯懦の裏切り者としているところは通説どおりである。国衡軍の阿津賀志山での大敗。泰衡の逃避行。比内郡にて討たれ頼朝が首級を厨川に晒す逸話。奥州各所での豪族たちの混乱などが文献に基づいてかなり詳細に語られる。

2006/02/07 
豪族たち反逆の束ねとして義経の遺児八郎丸と彼の守護役として馬の巧みな少女由衣をロマンの柱にしたところが著者の独自の工夫であろう。
奥州糠郡の地でのびのびと育った馬の巧みな十六歳の少女相馬由衣は、従兄弟の八郎丸が元服するのに付き添い、平泉へ赴く。しかし平泉は衣川館で義経が誅殺されたという報に震撼していた。帰った村も藤原泰衡勢に焼き討ちにあい、身内は無惨にも息絶えていた。この混乱の中で由衣は伯父から八郎丸が義経の落胤である事実を聞かされるが、頼朝の奥州征討軍に平泉は炎上、由衣たちにはさらに過酷な戦いを強いられていく!

ところがストーリーが平板だから退屈が先に立って読み続けるのにたいへん苦労した。主人公は十六歳の由衣と十五歳の八郎丸なのだろうがその人物像がまるで不鮮明なのだ。泰衡の手のものに一家を惨殺されたとはいえ、それではるか鎌倉にある頼朝へ遺恨を募らせるだろうか。蝦夷の血があるわけでもなく、学問や武術を学ぶことなく。辺境の牧場で育ったただの田舎坊主が突然義経の遺児だといわれて「いざ鎌倉へ」と反乱軍の先頭に立てるものだろうか。そんなはずはないと誰でもが思うだろう。そして著者もそんなはずはないと正しく認識している。だからこの二人について奥州の鬱屈を中央権力へぶつける求心力にしてはいない。では、奥州合戦の最終局面、豪族たちを戦闘にかりたてたものは大義もなく、美学もない。怨念もない。頼朝の軍勢を前にした単なるヒステリックな暴徒の騒擾に過ぎなかった。ドラマティックなものはない。ところが著者はそこまでの割り切りはせず、なにかを訴えようとしているのだが、それがなんなのかわからないままに小説は終わる。
八郎丸の叫び
「奥州の大地に、無念の戦にたおれた奥州の武者たちの怨念がたまっている。死んだ者たちが本当に死ぬためには、いま一度戦が必要なのだ。わたしの名のもと、頼朝を倒すという名目でいま一度存分に戦えるなら、死んだ者たちの怨みも鎮まる。奥州はそれでようやく、生き返るのだ」
鎮魂の陰陽師ではあるまい。このクライマックスの存念には共感できるなにものもない。

高橋克彦の『火怨』『天を衝く』では教科史には登場していなかったアテルイや九戸政実に光を当て奥州にある反権力魂を活写した。
歴史小説は第一に史実を事実として叙述しなければならないだろう。さらに作者の仮構をいかにも事実らしく迫真のものに描写する筆力が必要だ。そして肝心なものは歴史小説家としての歴史観であろう。それは現代の視座から過去を見つめ直し、過去の中からいまを生きる読者に共感をあたえるなにものかを摘出する姿勢である。

第二次大戦を舞台に戦火の中で自己を貫徹する男たちの人間ドラマを描いた『ベルリン飛行指令』『エトロフ発緊急電』『ストックフォルムの密使』を読んで感銘した。時代が近接しているから歴史小説とはいえないが、これこそが佐々木譲の生んだ大傑作のやはり「歴史小説」である


「悪の権化」、カポネ。「法の守護神」、ネス。なんとしても「アメリカ人」になってやる!「下流社会」からの飛翔のエネルギーをたぎらせ二人のアメリカ人は大物への道を驀進する。アメリカンドリーム!

2006/02/14


善悪を超越し、旧弊を壊して若者はひらすら疾駆する。大衆の熱狂はそのかっこよさに声援をおくる。時代の寵児。しかし栄光の座を手にしたとたん転落が始まる。大衆の熱狂は糾弾へと転じた。
と、これはこのほど証券取引法違反で起訴されたあの男の話ではない。しかし、あの男に読ませてやりたいほど近似性があって、そのため現代の日本を20世紀初頭のアメリカに重ね合わせることができる。さほどの迫真性を楽しめる異色の傑作だ。

アメリカのワルの代表はギャング・アル・カポネであって、こいつをやっつけたのが正義のFBIネス隊長だったのが子供のころのテレビドラマ『アンタッチャブル』であった。
エリオット・ネスの大活躍には惜しみない声援を送っていた。

へぇ!アメリカのマフィアって家族や仲間をこんなにまで大切にするんだ、日本の任侠ヤクザと同じだなと気がつくことになったのがマリオ・プォーゾ『ゴッドファーザー』だった。
本著『カポネ』も前半、「暗黒街の帝王」へのしあがる躍動のプロセスで血縁・地縁社会の道義に一目置くカポネには拍手を送りたくなるところがたくさんある。

アメリカは現在でもワスプ(WASP)の支配する国だといわれている。ホワイトでアングロ・サクソンでプロテスタントの三点セットが「本物のアメリカ人」として支配力を持つ国だ。
そいつらは俺たちより幾分早く移住してきただけじゃぁないか。それでいいとこどりしちゃってさ。法と秩序だってそいつらの既得権益を守るためのものじゃないかとこの閉塞状況にカポネの怨み節。ニューヨーク・ブルックリンのイタリア移民の街。そこでカソリックの信仰あつい家族や仲間を、貧しい人々の生活を、守ってくれるものは誰だ。やつらの法も秩序も守ってくれはしない。そんなら俺がルールだ、俺が守ってやる。ブラックハンドの不良少年、ギャングのカッコヨサに憧れる少年カポネが登場する。

禁酒法ももともとプロテスタントの発想になるものである。禁酒法を逆手にとってシカゴに進出したカポネはギャング世界のナンバーワンにのしあがる。時は第一次世界大戦後の繁栄と大恐慌による衰退の混乱した時代。著者がこのカポネに新時代を生き抜く経営感覚、斬新性をつかみだしているところを注目したい。それぞれの血縁・地縁集団の独立を尊重していた連合協定組織を排して上意下達の命令統制組織に統合していく。血縁・地縁の旧い義理・人情・仁義を温存しつつに見えて、実体はビジネスとしての合理主義を貫徹させる。シカゴといえば。市役所も裁判所も警察署もすでに表の世界は懐柔済みである。そして裏世界の粛正にも成功する。
なかでも刮目すべきは独創的なマスコミ対策だった。カッコイイスターになるには大衆の圧倒的支持が必要であるとの鉄則を知っていたのですね。安っぽい妥協はしない反骨の精神、創造的破壊者、弱いモノの味方、正義の遂行者、命の恩人。そして大衆が夢を見たあこがれの大物。このイメージを徹底的に売り込んでもらう。いやいや、いまで言う見事な劇場型犯罪を見る思いがしました。大衆は付和雷同で移り気だ。やり方ひとつで、反感も、好感も、簡単に操作できてしまうのだ。大衆の心をつかむパフォーマンスこそアル・カポネの新しいスタイルなのだ。
第一部「暗黒街の帝王」ではカポネが栄光の座を手中にするまでの一直線の上昇志向、その疾走感を堪能しよう。著者ならではの特異な文体が躍動感を誘う。

第二部「アンタッチャブル」はエリオット・ネスの視点からカポネの挫折と転落を見るのだが、この作品の価値は佐藤賢一の描くネスの人物造形にあります。とにかく私はネスは正義の守護神とばかり思いこんでおりましたので。
エリオット・ネス、このとき26歳。(カポネ30歳)。ノルウェー移民、ワスプではない中流階級だが、いまの秩序では出世できないサラリーマン。閉塞感があるだけで、現状に倦怠し、ただ単純な正義感が燃えていた。悪の権化アル・カポネを本当に憎らしく思えていた。しかしあふれる失業者に大量のパンとスープを施すカポネの慈善事業を目撃する。シカゴ市民が尊敬の声をあげるのを聞いていた。
アル・カポネはとんでもない大物に見えた。天与のカリスマに光り輝いていたからだ。にこにこと笑うままに、ひしひしと周囲に感じさせたのは、凄まじいばかりの風格だったからだ

憎んでも憎みきれない悪党というより、自分のあるべき等身像を見たのだった。これこそ自分の人生を投影する偶像だ。だからカポネの首を上げる。そのとき僕はとんでもない大物になっているんだ。ああ、やってやる。僕は有名になってやる。

かくしてネスもまた捜査の旧弊に背を向け、一直線の上昇志向でカポネに肉薄していく。さらに彼のマスコミ対応、カポネ以上に派手なパフォーマンスには読者の誰しもがびっくりするだろう。たとえば一斉捜査を事前に新聞社へ通告し、現場に集めた記者を前に、銃身の短く細工したショットガンを振り上げて「われわれはアンタッチャブルだ」思い入れたっぷりで見得を切る。その外連見が新聞の一面を飾る。文字通り劇場型捜査である。そしてここにもうひとり大衆が喝采で迎える新たな正義のヒーローが誕生する。アメリカンドリームの実現とは大衆の熱狂的歓迎が不可欠なのだとあらためて気がついた。

第二部はエリオット・ネスの栄光へのプロセスと二人の転落の軌跡が描かれ、さらに見所はカポネ裁判にあった。悪と正義の対決ではない。それがアメリカであるところの「アメリカ」と「非アメリカ」の対立。二人の前に共通した敵、ウィルカーソン判事が姿をあらわす。「アメリカ」の体現者・純血のWASPが下す判決。おそるべき。大どんでん返しというか、カポネやネスだけではなく読者すら「それはないだろう」と、権力が剥き出した禍々しい牙に戦慄する。

二人が英雄になったから
だから大衆の心が離反した二人の末期は共通して寂しい。
アメリカンドリームは邯鄲の夢なのだろうか。
いや、いっときの、宿無しイヌの遠吠えだったのかもしれない。
色濃く描かれた背景と時の流れがおりなす光と影に浮かび上がったのが二人の個性だった。
だからその遠吠えはその時代の延長にある今、なお残響は消えずに………、
だからなおさら痛々しい。