池宮彰一郎 「天下騒乱」

2005/12/12

毎年の正月2日にテレビ東京で10時間の時代劇ドラマが放映されている。豪華キャストで金もかけているし、筋立てもおおむねはすでに知っているお馴染み系で、はなやかな見せ場がいくつも用意されているから通しで見ていなくとも楽しめる。うつらうつらとほろ酔いながら観るには格好の番組だ。
今回は『天下騒乱〜徳川三代の陰謀』だという。中村獅童の柳生十兵衛が家光暗殺を阻止し大活躍するお話しばかりかと思っていたら、それだけではなくて最近でははやらなくなった荒木又衛門の仇討ち、決闘鍵屋ノ辻がコアになっているようだ。それならばひょっとしてこれは11月に文庫本になった池宮彰一郎『天下騒乱-鍵屋ノ辻』のアイデアではないか。タイトルまでつまみぐいして、きちんと「原案」程度のことわりはするのだろうね。

ところでカタキウチと言われてわたしがすぐに思い浮かぶのは。

ますテレビのなかった子供のころの「花見の仇討ち」という落語。この面白さは敵討という武士階級にのみ許された公認の私闘を庶民が笑い飛ばすところにある。モウキノフボクウドンゲノ、この口上はいつまでたっても忘れないものだ。
「盲亀の浮木、優曇華の花待ちえたる今日の対面、いざ尋常に勝負、勝負」。

それと落語だけでなく講談でも有名な決闘「高田馬場」。忠臣蔵番外編。中山(堀部)安兵衛は大方の庶民にとって身近な英雄として迎えられている。あれはノンベエで長屋住まいの素浪人だったからであろう。これは天に代わって悪逆無道を懲らしめる痛快活劇のジャンルにある仇討ちです。

大人になってわかってきたのが、親のかたきを討つのは一貫して子の義務との儒教の教説にもとづいて 武士道の勇武、忠義の尊重などを鼓舞する幕府公認の、制度としての敵討ちでした。そしてたいがいのオハナシが殿様から武士道の鑑であると許可状ををいただき勇んで国元を旅立った未亡人や遺児が敵を見つけることができず、気持ちも萎えて身を持ち崩し落魄の運命をたどることになる武士道残酷物語でした。

そしてこの36人斬り、剣豪荒木又衛門だ。荒木又衛門が義弟の渡部数馬を助け武士の美学を貫き死地に赴くオハナシ。伊賀上野鍵屋ノ辻の白鉢巻きに手裏剣を束ねた勇姿が映画の記憶にもあります。残酷系ではなかったが子供の時から親しんできたこの仇討ちにはいま思えば庶民性はありませんでした。が、わたしにとっては痛快活劇のカタキウチでした。

この作品はこれまでのカタキウチものとはひと味もふた味も違う。まさか荒木又衛門にこれほどの奥深い大人向けの背景があったなどとまったく知りませんでした。忠臣蔵が幕府を告発する仇討ちならば、これは幕府が仕掛けた敵討ちなのです。池宮彰一郎の独自の発想なんでしょうね。びっくりしました。
まだ戦国混乱の延長で政情が不安定な幕府開闢間もない時代である。いつ戦乱の世に戻ってもおかしくない。幕府としては天下騒乱の芽があればなんとしてでも早めに手を打たねばならないところだ。そして家康の三河以来の家臣団・旗本と関ヶ原の戦い以降に徳川についた外様大名の抗争がいま一触即発の状態にあった。直参旗本と外様大名の抗争に終止符を打つべく、徳川権力の中枢が仕掛けた政治的謀略が進行する。柳生宗矩、柳生十兵衛、大久保彦左右衛門とこの時代に欠かせない人物も登場する。幕府側謀略の仕掛け人は土井利勝。わたしはあまりなじみのない人物なのだが、土井の隠された出自についての作者のアイディアもなかなかのものでした。
池宮彰一郎 『天下騒乱-鍵屋ノ辻』 せっかくだから正月までに読んでおいたらいかがでしょうか。


敵討の背景

2000/11/30

「長屋の花見」という落語の面白さは敵討という武士階級にのみ許された公認の私闘を庶民が笑い飛ばすところにある。「盲亀の浮木、優曇華の花咲きえたる今日の対面、いざ尋常に勝負、勝負」。落語だけでなく講談でも「高田馬場」の中山安兵衛は大方の庶民にとって身近な英雄として迎えられている。あれは飲兵衛で長屋住まいの素浪人だったからであろう。
ところで歴史に残る敵討でつとに知られているは「忠臣蔵」であるが、先日、テレビを見ていたら「モウ娘」というのが出ていまして「忠臣蔵?しらなぁ〜い。」「キラコウズケ?どんな漬物」ときました。そんなことで荒木又衛門、伊賀上野の決闘という昔、映画や講談本で読んだお話など最近ではトンと見聞きしなくなりました。池宮彰一郎「天下騒乱」はまさにあの荒木又衛門のお話。この仇討ち、これほどの奥深い背景があったなどとまったく知らなかった私は夢中になって読み終えました。大河ドラマ「葵三代」のただいま放映のその時代、幕府開闢間もない徳川権力の中枢が外様大名と直参旗本の抗争に終止符を打つべくその安泰を期して仕掛けた敵討の名を借りた政治的謀略なのでした。土井利勝を秀忠の実子とする作者のアイディアもなかなかのものです。

井上ひさし 「東京セブンローズ」
抱腹絶倒の文化論
2001/09/29

抱腹絶倒の文化論だが………超大国アメリカはイラクの「精神・文化」を本当に解放?侵略?できると考えているのだろうかと………思いをはせる、今読むべき文化論の真髄
2003/04/16

電車で読書中に涙を流すのも恥ずかしいことではあるが、この井上ひさし「東京セブンローズ」、思わず吹き出すやら、たまらず声をだして笑うやらで、周囲の紳士淑女の顰蹙を集めることになった。東京根津に居を構える団扇屋のオヤジが昭和20年の春から1年間を綴った日記の体裁をとっている。空襲下の耐乏生活を明るく、したたかに生きる市民を細密に描写し、私は知らないが、おそらく経験した人の郷愁をさそうことであろう。
根津権現様に上陸軍と刺し違えて死ぬ勇気を与えたまえとお祈りするこの市民が国防保安法を犯したかどで刑務所に捕らえられている間に長女は焼夷弾の犠牲になる、出所すれば、息子は闇米運びやの仲間になっている、残る娘2人は進駐高級軍人の囲われものになっいる、町内会はアメリカ万歳を叫んでいるではないか。しかもこの娘の彼氏は日本語の廃止を積極的にすすめようとする、日本文化を学んだなんてものじゃなく、教育勅語を原文で読み書きできるスーパー知日派のエリートである。圧巻は親愛の情を込めて親父殿を「信介!」と呼び捨てにするアメちゃん野郎と娘が陵辱される様を切歯扼腕して想像し、しかし、おかげでラッキーストライクは吸えるは贅沢な食事にありつけることをなぜか抵抗なく受け入れているオヤジが日本語論をたたかわすところにある。
日本語の一人称代名詞は「私」「わたくし」「おれ」「自分」「僕」「あたい」「あたし」と使い分けることを指摘する。「(これで日本人は個の確立ができていない)」場面が軍国主義になれば全員が模範的な軍国主義者になり、場面が民主主義になれば全員が理想的な民主主義者になる。それでは再び国際社会に復帰することはできない。一人称代名詞が1個しかない外国語を使いこなすことでそれぞれが個というものを確立し、外から見やすい国家として出直してほしい」などとこの野郎、きわめて説得性に富む理論を展開するのである。わが親父殿も庶民派インテリであるから、にわか勉強の漢字擁護論をブツのだが歯が立たないのです。ニッポン文化の崩壊!そして絶対者マッカーサーがこの提言を採用しようとするそのとき、東京セブンローズによる謀略戦・ゲリラ戦が開始される………。
どこかで聞いたことのあるセリフではないですか。「世界の金融市場はコンピューターで接続され、投資家は巨大な資金力を地球規模で運用する時代です。したがって市場原理を無視して成り立っている日本型企業経営はマーケットから消える運命にあるのです。姿の見えない、資本の論理にそぐわない日本的経営はグローバルスタンダードに向けて急速に修正を余儀なくされるでしょう」
そのとおりであると言葉にはするものの、人間の営みはそう単純なものじゃぁない、もっと複雑であるから、「ジハード」などとアナログと思われる思考がこれほどまでに現実世界を震撼させることもあるんだとつぶやいている。

井上ひさし 『不忠臣蔵』
「すまじきものは宮仕え」などとおっしゃらずに
2002/12/24

「すまじきものは宮仕え」と自嘲しながら師走の寒風に身をすくめる方もおられるのでしょうが、そんな逃げ口上のことは百も承知で、自分を貫く道をなんとか見出そうと四苦八苦しているのが多くのサラリーマンというものでしょう。あちら立てればこちらが立たず、両方立てれば己が立たず、さりとてどちらも立てずにひとりでほっかむりというわけにはまいりますまい。自分の思うところのなにもかにも実現しようなどとはおそれおおい、一割が成ればよしとするのが道理と心得ておればよろしい。
師走となりますと映画、演劇、小説に取り上げられる出し物は「忠臣蔵」が相場でございますが、今年は赤穂四十七士の討ち入りから300年というに、特別目につく大作はなかったような気がいたします。ところがこの正月の12時間テレビドラマが忠臣蔵のようでございますよ。文芸評論家の寺田博が忠臣蔵小説のベスト5をあげて大佛次郎『赤穂浪士』、森村誠一『忠臣蔵』、池宮彰一郎『四十七人の刺客』、柴田錬三郎『裏返し忠臣蔵』、井上ひさし『不忠臣蔵』としておりました。
この『不忠臣蔵』は19人の脱落者列伝でございます。気の毒なものですな、討ち入りに参加した四十七人が天下の義士ぞ、武士とはかくあるべきとして賞賛されればされるほど彼らは不忠者、裏切り者、卑怯者、腰抜け侍、lでなしと一族までもが、武士諸侯はもとより町人百姓までから、罵詈雑言、後ろ指をさされ追い払われ、市井の片隅でひっそりと息づいているのですから。しかし、ぼろは着てても心は錦とでもいうのでしょうか、どこまでも己のよりどころをしっかり持っている人たち、そのひとりひとりの「脱落の事情」が語られるこの短編集のなかには、私ら現代を生きている者にとって共感するところ、あるいは身につまされるところがどこかにあるものでございます。そして「脱落の事情」を明らかしていくその語り口の妙、虚実が逆転していくプロセスづくりの巧、浅田次郎といえども一日の長、この文章家にはかないませんな。
特に松の廊下の刃傷事件の真相を現場から明らかにする「江戸留書役岡田利右衛門」、通説では吉良上野介への賄賂を出し惜しみしてこの原因を作ったとされる江戸家老の実像に迫る「江戸家老安井彦右衛門」が上出来でございます。
歴史家から見てもなぜ浅野内匠頭が刃傷に及んだのかはいまだ不明のままなのだそうで、
これだけ有名なお話にしては稀有のミステリーといえないことはない。ここでは内匠頭が癇癪もち、いまでいう「すぐ切れる、プッツンしやすい」危ないお人であったとしているところが面白い。こういう人物がトップの座に着くとスタッフはご苦労することになります。
ところで忠臣と不忠臣の境があいまいになったとき次の警句(漢書『説苑』より)が肝心要にございます。

從 命 利 君 謂 之 順:命に従いて君を利する、これを順という
從 命 病 君 謂 之 諛:命に従いて君を病ましむる、これを諛(ゆ=へつらう)という
逆 命 利 君 謂 之 忠:命に逆らいて君を利する、これを忠という
逆 命 病 君 謂 之 亂:命に逆らいて君を病ましむる、これを乱という

私にもたしか昭和62年でありましたか、これを模造紙に書き込んでデスク後ろの壁に張り、これ見よがしにスタッフしていた若々しいときもございました。