ランキン・デイヴィス 「デッドリミット」
級グルメ好みの上質エンターテイメント
2001/07/12

さる6月に司法制度改革審議会が意見書「21世紀を支える司法制度」を公表していたが、そこに裁判員と称される制度が登場、どうやら日本でも欧米の陪審員制度のようなものが導入されるらしい。
リーガルサスペンスの分野では日本にも優れた作品はあるが、外国ものに比べドラマティックな盛り上がりにやや不足するところがあるとすれば、この陪審員制度の差なのではないだろうか。
法廷の場での弁護側、検察側の陪審員を意識した口述の面白さも格別であるが、陪審員の評決過程そのものもドラマをかたちづくる。陪審員制度なるものがあることを知ったのは映画「十二人の怒れる男」でした。1対11の圧倒的クロの初回評議から全員の無罪認定にいたるプロセスは、人間の本質を善とする立場から当初はカケラ程度に過ぎなかった良心が次第に育まれ、公正な判断に至るというA級の文芸作品だったと思います。
「知的ジェットコースター・サスペンス」と銘打った英国のランキン・デイヴィス「 デッドリミット」も焦点は陪審員の討議にある。圧倒的クロから始まるのは同じなのだが、しかし、ヘンリー・フォンダ演じるあの健全な市民は登場しないし、良心を喚起させる静かな説得力あふれる主張はない。どちらかというと、胸にいちもつある胡散臭い人物ばかりがあつまって、この制度の抜け道を行くウラワザ・コワザ、脅迫と懐柔、教唆・扇動の連続、まるで田中真紀子対鈴木宗男の激闘まがいで罵り合いが展開するのであるから目が離せません。
さらに、ガン誘発因子を含む農薬で巨額の利益を上げるコングロマリットと対立する美人医学博士、彼女は企業側学説を唱える教授を謀殺したとして逮捕される。医学博士を支援する爆弾環境テロリスト、彼らによる英国首相の兄である法務総裁誘拐、要求は陪審員の評決が出るまでとタイムリミット付きの真相究明。軍・警察とテロリストとの攻防戦、英国首相の真犯人探しにおける大活躍。まぁとにかく娯楽性たっぷりの大サービスはうれしい。

それにしても、国民の司法制度への参加が趣旨なのだそうだが、日本に陪審員制度が導入されたとして、全員がヘンリー・フォンダのような高潔な人ばかりだといいのだけれど、私など指名されたら、やはりできるだけ早く評議は切り上げて一杯やりたくなる口だろうな。なによりも評議室禁煙だけはやめてもらいたいものです。

J・K・ローリング「ハリー・ポッターと賢者の石」
第4巻『ハリーポッターと炎のゴブレット』が発売されすごい売れ行きとか。第二作映画『ハリーポッターと秘密の部屋』も上映。話題性の大きな作品です。
2002/10/25

子供の世界へのいざない

「青臭い人生論などまっぴら。書生論を戦わすには、裏を知り過ぎた。そんな思いの強い世代に、逆にいちばん必要なのが、少し気恥ずかしい生き方の模索なのだという」あるコラムであるが印象に残る一文である。
たまたま、さひろさんから「ハリーポッター」のおすすめをいただいていた。「たまには、殺伐としたミステリの世界から離れてみませんか」とこれもまた痛いところをつかれた思いがした。

通勤の2往復、あの大型の本を手にして少し気恥ずかしい思いをしながら「賢者の石」を読んだ。面白かった。というより、タイムスリップして子供時代のさまざまが昨日のことのように思い出された。
小学校低学年、玩具など何もない時代であった。ただうさぎ追いし山はあった。小鮒釣りし川があった。夕焼け小焼けの赤とんぼも一緒だった。ガキ大将がいておばあちゃんから叱られる悪さを教えてくれた。きつねやたぬきに化かされる人たちもそこかしこにいた。そして幸いなことに本はあった。

そのころの児童文学は創作ものはなく、岩波にしても講談社にしても、もと本を子供向けに書き換えた物語だったような気がする。「ためになる本」もたくさんあったけれど、それらよりは僕はアラビアンナイトが大好きだった。「船乗りシンドバットの冒険」「アラジンと魔法のランプ」「アリババと40人の盗賊」。これらが「千夜一夜物語」と呼ばれ、岩波文庫で13巻もの超長編の一部であることなど知ることはなかった。
グリム童話でも「白雪姫」「シンデレラ姫」は何度読んでも飽きなかった。これも「本当は恐い………」というまがまがしい解釈などあるはずはなかった。
アンデルセンも好きだった。「魔法使い」や「魔女」はいても「陰陽師」とか「魔道士」などおどろおどろしいものはいなかった。
日本ものでも「忍術使い」がいるだけで「忍法」や「忍者」「忍び」は存在しなかった。悪者が使うのが「幻術」でこれはありました。「猿飛佐助」「真田十勇士」「自来也」に夢中だった。
「孫悟空」が「金斗雲」に乗って「如意棒」を使う無敵の活躍ぶりに興奮していた。
作者のいわんとするところなど考えなくとも良かった。こじつけの教訓や指針はどこにもみあたらなかったので、純粋に楽しくて読んだだけであった。

「裏を知りすぎた世代」がそのプロセスをいっとき忘れその前の時代を振り返って郷愁を感じる。そんな時があってもいい。
2001/12/12

ロバート・R・マキャモン 『魔女は夜ささやく』
これミステリーとしての評価は高いのかしら?
2003/11/17

私の友人に猛烈に読書量の多い男がいて、彼が言うには北上次郎氏の書評が的を射ているため、その評価の高い作品は必ず目を通す。その北上氏が朝日新聞紙上でこのマキャモン作『魔女は夜ささやく』を「父と子の小説であり、青年の成長小説であり。年上の女性との恋愛小説で」「なによりも素晴らしいのはこれが見事なミステリーである」とつまり「脱ホラーの新生ミステリー」と評価するのが目にとまった。『スワンソング』という悪魔降臨によるハルマゲドンと生命の復活を描いたホラー小説が印象に残る作家である。

アメリカ南部、既成都市から隔離された開拓地。迷信深い共同体に魔女が出現し、殺人、放火、悪魔との淫行三昧でこの社会は崩壊寸前にある。人々はその女を拘留し、ただちに火刑にせよとわめき立てている。開拓地の創設者でこの村の大ボスは村人たちの離散をおそれ、(この共同体において彼がきわめて粗暴な絶対者なのだから普通はこの場合、すぐさまリンチにかけるべきと私は思うのだが)なぜか公正な裁判を求め、町からよぼよぼじいさんの判事をよぶ。判事に同行するのがたよりなさそうな若者の書記である。

血も凍るような恐ろしい呪い、陰々滅々と闇に閉ざされた村人の恐怖感が描写されると期待したのは間違いであった。あるいは疫病の蔓延、自然災害の多発などによる社会不安に対する集団的ヒステリーを綿密に描くでもない。著者は決してそのムードを意図しているのではない。色ぼけ、欲ぼけのかたまり、粗野で、品性のない開拓民同士の狂騒、喧噪の渦に加え、真面目くさった老判事と純粋無垢な若者のやりとりなどむしろ読むものの笑いを誘う。日本的には落語風に貧乏長家の化け物騒動といったイメージに近い。むしろ開拓時代の素朴なエネルギーの暴走を感じることになります。

「父と子の小説」といわれると、それは読み間違いではないかと思われる節があるのだが、むしろ世知に長けた老人と純粋一本気な若者との心の交流というべきであろう。ただし、このテーマにしろ「年上の女性との恋愛」にしろ小中学校の学芸会といった程度の月並みなものであってとりたてておもしろいとは思えないのである。
「見事なミステリー」と北上氏は賞賛するが、ミステリーファンからすればその指摘を受ければ、ただちにこの女は怪異、超自然現象を引き起こすような魔女ではなく合理的作為の結果魔女にされている被害者であると推定してしまうものだ。興味半減。またそのトリックも底が浅く、しかしそれは決して著者の力点とするところではないのだ。的はずれな評価は著者にとって迷惑であろう。読者にとっても読むべき的をはずされる。

そうではないのだ。
未知のアメリカ大陸、それ自体が巨大な魔物であり、そこに足を踏み入れたものが感じる恐怖と不安、それを乗り越えるにはきれいごとの勇気だけではすまないだろう、とてつもない腕力と貪欲と性欲、人間の欲望をむき出しに、ときには常軌を逸した破壊、無法行為も必要になろう。いっぽうで創造がある。法と秩序が自然発生的に求められるのだ。この溢れかえるエネルギーと究極にある安寧への祈り。人間の愚かしさと智恵。狂信と信仰心とは紙一重。これらが渾然として躍動する共同体を戯画的に描写した、大人のための残酷寓話として楽しめたのである。