泉鏡花 『高野聖』
京極夏彦『覘き小平次』と丸谷才一『輝く日の宮』と間に泉鏡花『高野聖』を読む。
2003/07/16
丸谷才一の話題作『輝く日の宮』は冒頭、泉鏡花の『高野聖』を本歌取りした現代怪異譚で読者は思いもかけないこの小説の凝った趣向に驚くことになるのだが、少し読み進んで松尾芭蕉論あたりになると、近代文学とか近代的自我の確立などと西洋流の理路整然とした物事の整理の仕方とは対極にあるぼんやりした日本的情趣の値打ちを思いやるようなところに至り、そうなるとやはり、『源氏物語』をいまさら読むのは億劫であるが、おそらく伏線として冒頭に掲げてあるのだろう『高野聖』くらいはまえもって読んでおこうかとの気分になった。たまたま京極夏彦の現代的解釈怪談「覘き小平次」を読んだところでもある。

富山の薬売を追って飛騨山中の一軒家にたどりついた旅僧が,白痴の男と住む美女とめぐりあう。女の霊力で薬売は馬に変えられたらしい。月明りのなかで奇異妖変の一夜をすごした僧は女への思いを残しながら山を下りてゆく。これを雪の夜の宿に同宿した「私」にせがまれた旅僧が語るのであるが、語り口調は緩急のリズムもさることながら、主語の省略による浮遊感、時間・空間は行きつ戻りつ、華麗な色彩感覚の情景描写、現実であるのか僧の心象風景であるのかは混沌として、夢幻の世界にいざなわれるのである。
闇に閉ざされた静寂の森林、清冽な水の流れ、巌に砕ける滝の音、森羅万象に宿る精霊との交感はまさに平安期以降の日本的感受性の表現でありましょう。岩間の淀みにて月の光を浴びた全裸の女に全身をもまれながら女に対する性的な欲望よりは「ひたと附ついている婦人の身体で、私は花びらの中へ包みこまれたような具合」とここには泉鏡花固有の母性憧憬がすこぶる妖しいのである。

近代合理主義が知識人階級を席巻すると、ヨーロッパにおいては、ロマン主義は個人主義的な自我の拡大,人間的な感情の解放,精神や思想の自由を求めたのに対して、明治社会は異質であった。そして泉鏡花のごとくは前近代的な遺産を基盤とする幻想文学として合理主義の忌避、すなわち日本型ロマン主義の花ひらかせたのである。

そして現在と言う時流は新たなる合理主義の貫徹にあって、一方にこれに拮抗するなにものかへの郷愁がふくらんでくるときであります。丸谷才一『輝く日の宮』はまだ途中でありますが、『高野聖』は読んでおいてよかったような気がいたします。

丸谷才一 『輝く日の宮』
一流料亭にて名だたる調理人の芸術的割烹料理を堪能する場合、
2003/07/27
まずお品書きを一覧し、それぞれがいかなる趣向にこしらえてあるか思い巡らせるを楽しみ、一つ一つの料理が並べられれば盛り付けられた器を鑑賞し、配置の工夫、彩り、季節感を愛で、ベテランの仲居さんと調理人のさばきのよさを語らいながらその深い味わいに恍惚とするのである。また床の間にひっそりとおわす墨絵、一輪挿し、障子を開けて板の間越しにみえる中庭の涼しげな風情にもこころをひかれ、できうれば女将とうわさの政治家周辺、差し障りないスキャンダルにも話の花を咲かせたい。すなわち日本料理を堪能することは日本料理を取り巻く宇宙そのものにおのれを解放することにほかならない。
しかし、この域に達せずとも54品はないにしても十数品の品書きをながめ、もちろん中華料理のメニューのように酢豚とかカニタマとか牛肉とピーマンの炒めなどと素材が具体的に書いてあるわけはなく、茫洋とかすみたなびく達筆で、しかし、どれが海のものか山のものか、あるいは煮物か焼物かお作りか程度は理解できるにこしたことはないのかもしれないが、いざとなればなにもわからなくとも、それはそれで間違いなくおいしいのである。なにしろ「一流」との「定説」がある芸術品なのだ。一流料亭ならば食通といわれる人でなくとも、酒に目がない人、芸者とお座敷遊びに夢中になる人、カラオケでデュエットやりたい人、それぞれの好みでこの宇宙を大いに楽しんだらいいのである。個性ある楽しみをした宴のあとに、うまかったなと本音で言えるのだ。

これだけの話題になった作品である。それだけのしつらえを工夫し、広大で奥行きがみえない作品であった。私のように「源氏物語」を読んだとはいえないものなのだが、あらかじめ冒頭に伏線として置かれた泉鏡花の短編『高野聖』を読んでおいたのが功を奏してか、おそらく読んでいない人よりは感心する深みに違いがあったはずであるから、「源氏物語」を読んでいたらはるかに面白みが深まることは間違いない。

『高野聖』を読んで、語り口調は緩急のリズムもさることながら、主語の省略による浮遊感、時間・空間は行きつ戻りつ、華麗な色彩感覚の情景描写、現実であるのか語り手の心象風景であるのかは混沌と、夢幻の世界にいざなわれたのであるが、ラストの丸谷才一再現、紫式部が破り捨てた幻の一巻「輝く日の宮」はまさにその趣、本来の日本的感受性による表現で、あぁ日本語とはいいものだとつくづく感じたのである。西洋流文法作法であれば光源氏は藤壺の君をどんな体位で犯し奉ったかの詳述があるのだか、ここは読後の余韻嫋々として風雅人たる読者のこころにまかせ、ついでに女主人公のセックスフレンドは社長の椅子を確保するために結婚をするのであろうかと気になるがままにすておかれるところがたいへんに心地よい。

夏目漱石が西洋文学を嫌ったのは風雅のよさが忘れられなかったからだろうと主人公はあるいは丸谷才一は考えている。風雅(日本文化)はいい加減でだらしない、迫力が弱い、迷惑だったり、いけない点もあって西洋文学(西洋文化)に完敗してしまったが、うまくいったときにはおっとりと、のんびりと、立派でしっかりしていると取柄が多いといわれるとなるほどその通りかもしれないし、主人公の父親(皇国史観を学んだとはいえ実にしゃれた人物なのだ)が東京が汚れたのは西洋文化が渡来したときに二つの文化がまじると、美というものを捨て、便利の方を気にしたせいだといい加減なことをのたまうのにも、にんまりしながら、丸谷才一もまた今日的合理主義と拮抗するなにものかを求める反骨の人であり、だからといってカチカチの右翼ではなさそうだし、だらしないところもありそうな親しみを感じる文化人だと思うのである。


京極夏彦 『覘き小平次』
怪談にして怪談にあらず、鏡に映る自分が怖い?
2003/07/01

怪談と申しますと文化・文政期の合本、読本、歌舞伎を真っ先に思い浮かべますな。人間界の邪悪な葛藤、その結果がひきおこす殺人、加虐、血みどろな幽霊と凄惨な復讐がおりなす、妖美・淫虐の世界でございます。さすが京極夏彦です。山東京伝の怪談『復讐奇談 安積沼』の主要登場人物を総動員し、いくつかのエピソードをそのまま織り込んだ上で、化政期怪談の様式を踏まえ、滑稽、グロテスク、残忍、悪、悲哀などを核として、封建末期の下層社会の鬱積をえがきつつ、これを見事に換骨奪胎、人間の深層部によどむ陰影のあやそのままにあの京極堂流観念に共通するあやしの世界を展開して見せてくれるのでございます。

いにしえの荘子がたとえし胡蝶の夢か、当節の巷をにぎわすマトリックスの世界か。われ思うゆえにわれはあるのか、いやむしろ宇宙はこれ色即是空なるか。

「覘き子平次」と呼ばれる極めて抽象的存在が押入れの中にいる。いやいないのかもしれない。それを見るあるいは覘かれる妻も、その妻に懸想する男もこの存在を心底憎悪している。いやその存在、あるいはその不存在を憎悪しているのではない、そこに己の意識下にあるよこしまな欲望を見出すのだ。つまり鏡に映る己を憎悪しているのだ。………と解釈すればいいのかななどと考えてしまう小説は正直申し上げれば怖い怪談ではないのでございます。

怪談は芝居・映画をみても、高座で噺を聞いても、年配者からうけたまわるにしても、怖かったですよ。それは、超自然現象そのものの驚異と人間の営みの内にある淫虐性を目の当たりにする恐怖の相乗作用なのでしょう。それだけではない。最近はホラーなんてジャンルがありますが、怪談の本当の怖さには必ず「人として守るべき道」と言う概念が確固として存在していたんですね。幽霊の復讐は人倫にもとる行為への応報だったんです。ところが、これが死語になり、物欲、色欲、征服欲を貪欲に追求する化け物どもが跋扈し、狂気のさた、苛虐・暴力が日常茶飯事になった当節、人間世界そのものが怪談世界に変貌してしまいました。昔風の怪談は少しも怖くなくなったのです。

換骨奪胎してもやはり、怖くはない。理屈が先行しているんだなぁ。
九化けの治平となのる場違いな人物が登場する。これは京極夏彦その人でしょう。彼が「紙みたいにうすっぺらい」小平次に説教をします。
「信じるってこたァ、騙されても善いと思うこと。信じ合うッてこたァな、騙しあう、騙されあうてェ意味なんだ。この世は全部嘘だぜ。真実ってなァ、全部騙された奴が見る幻だ」と。そして小平次がいくらか自分の「存在」を自覚する。ここが京極世界の見せ場なのだろう。「そのとおり!」おおむこうから声がかかる。が、ますますもって怖くなくなります。