ネビル・シュート 「パイド・パイパー 」
お子様向けの優しさがあふれる
そうでもなければ、触手を動かさなかったであろう小説でしたが、作者があの映画「渚にて」の原作者と知ってそれではと読むことになりました。
2002/04/07

「渚にて」に原作小説があったとは知らず、映画の思い出しかないのだが、中学生か高校生かのころであって、鮮烈で印象的な映像でした。テーマ曲「Waltzing Matilda」も、確かオーストラリアの民謡のような気がしているが、繰り返しのフレーズが耳の奥でいつまでもこだまして、今なお時に口ずさむほど忘れられないメロディーでした。エヴァ・ガードナーとグレゴリー・ペック、アンソーニー・パーキンスが出演していました。核戦争で北半球は全滅、ただオーストラリアのみが生存可能な地としてかろうじて残っているが、放射能汚染は南下しつつやがてこの地の人々も死を迎える刻限が迫っている。絶望の極限状況に正気を失い、オートレースに命を懸ける若者もいるが、多くは静かにこれまでの生を感謝し愛を感じながら安らぎのうちに死を迎えるのである。死に絶えたはずのアメリカ大陸から発信された正体不明の無線通信を傍受、故郷で死を迎えたいと願うものが潜水艦で合衆国へ向かう。潜望鏡からみたゴーストタウン・サンフランシスコ、生命がないだけでかわらずそのままに林立する静寂の摩天楼群。このシーンが見せ場だったのでしょう。
破滅テーマにしてはきれいな出来栄えでしたが、当時はうそ臭い感じがぬぐえませんでした。それは、その何年か前ですが日本映画「原爆の子」「広島」の映像の、あの被爆地の地獄の光景が焼き付いていて、核戦争の人類滅亡は決してきれいごとですむものかとの思いが強かったせいである。

この英国の作家ネビル・シュート「パイド・パイパー」、もともと第二次大戦のさなか、1942年(昭和17年)に発表された60年も前の作品。休養のためにフランスの片田舎に釣りを楽しみに出向いたイギリス人弁護士がひょんなことから数人の子供を連れ、ナチスのフランス侵攻と拡大する戦火をかいくぐり、故国イギリスへ逃れる脱走譚である。70歳近い老人と着替えも独りではできないような幼子の冒険であるからエキセントリックな挿話はなく、善意と愛と誠実が貫かれ、運命を淡々と受け入れる勇気の尊さを描いている。

アフガニスタン、パキスタン、パレスチナに拡大する現代戦争、難民の悲惨を見つめているとやはりこの老人と子供の脱走譚にある種の感動を覚えても、それは過去のノスタルジー、ありえない願望にすぎないのだといわざるをえない。
なお、パイド・パイパーとはドイツ民話の主人公「ハメルンの笛吹き」だそうだ。 ドイツのそれは人攫いだがイギリスのそれは人助けということか。

バーバラ・スィーリング 『イエスのミステリー』
やはり聖書は至高のミステリーであった。
2003/02/01
副題に『死海文書で謎を解く』とある。
死海写本あるいは死海文書(しかいもんじょ)とは1947年から1956年にかけて死海北岸クムランの洞窟等から発見された最古の旧約聖書写本を指す。旧約聖書のほかにクムラン集団エッセネ派に関する文書が含まれている。ネーミングの感触からしてもミステリアスなのだが、発見の発端、全巻が公表されるまでのプロセスはそれだけでも実にドラマティクな余話に満ちている、いわくつきの古文書である。

エリオット・アベカシス『クムラン』はこの死海文書を題材にした異色のミステリーであるが、2年前、私が『クムラン』をこのコーナーへ紹介した直後、それを目にとめた方から薦められた読み物がこれであった(2001/02/25ゲストブック参照)。キリストが磔刑の苦痛にあえぎながら救いの手を差し伸べてくれない沈黙の神に「なぜわれを見捨てるのか」と怨嗟の絶叫を残すのはなぜか。私のキリスト教教義に対する関心事はそこにあって、この疑問に答えてくれそうな期待ですぐ買い求めたものの、当時はまだこれを読みこなすにはあまりにも予備知識が不足していた。

著者はこの古文書を分析し、新約聖書が「ペシェル」と呼ばれる特殊な表現技法により二重の含意で構成され、表面の意味と裏面の意味の間には法則的変換キイがあることをみいだす。この変換法則に従い解読し、新約聖書に述べられているイエスの示した数々の奇跡・霊力をふくむ事項はほとんどが合理的・歴史的に説明できる別の事実を叙述していることを明らかにしていくのである。本書は処女降誕から磔刑、復活、ローマでの布教まで人間イエスの実像と初期キリスト教の淵源を新事実に基づき年代記風にまとめた本文と膨大な付属資料で構成されている。本文は読み物として取りつきやすい。
隠れた新事実として実に驚くべきものが明らかにされるため、この聖書解読は上質のミステリー同様スリリングである。たとえば「イエスは十字架の上では死ななかった。友人たちに墓の中から助け出され、ローマに到着する」。この著はいわゆる「とんでも本」の類だと評するむきがある。この評価が的を射たものとは思えないのだが、「とんでもないほど」のセンセーショナルな分析結果の論述であると同時に充分魅力な読み物でもある。
それだけではない。著者はヘロデ統治下以降のユダヤ王国の崩壊とローマによるエルサレム完全破壊という大激動期にあたるユダヤ民族の政治・経済・社会を詳細に分析している。私自身にとっては新しい発見の連続であった。
ヘロデ後継者たちの骨肉の争い、大ローマ帝国の統治戦略、ペルシア地域の勢力、これらの影響を受けた利害の異なるユダヤ民族内部の部族間抗争と教団内に蓄積されている富の争奪戦。俗界と複雑に絡み合ってユダヤ教団も四分五裂と分派し、宗派の主導権争いも激化していく。また ディアスポラという当時すでにイスラエルを離れ地中海世界、オリエントのいたるところで活発な経済活動をしていたユダヤ人コミュニティーの影響力は大きかったようだ。彼らは献金の形でエルサレムにあるユダヤ教宗家の富の蓄積に貢献していたばかりでなく、ユダヤ人のみにしか通用しない真理を説く排他的な教義よりも国際社会に通用する普遍的の真理を求めていたのである。さらにヘロデ王自身彼らとの共存を骨格とした国家建設を描いていたとしている。かくしてイエスの誕生にかかわりなくユダヤ教の原理も変容を迫られていたのである。キリスト教の起こりをイエスという超人によるものとせず、人間の文化の大転換期に必然の誕生であったとする歴史観に目が覚めるような充実の読後感を味わうことができた。

「イエスがその一部だった人間の文化の偉大な転換期とはおおまかにいえば、東方から西方への移行期の時期であった。ギリシアの思想家たち──彼らの影響は、ローマ帝国を通してヨーロッパに広がっていったのだが──は、理性を発達させた。しかし宗教を必要としていた。東方と西方の境界に生活していたユダヤ人は、唯一神を信じる倫理的な、そして偶像を否定する高度に発達した宗教をもたらした。ギリシア思想とユダヤ神学の融合は、強力な新しい宗教をもたらし、そこから生じた歴史的過程は現代でもなお、われわれが経験しているような影響を与えることになった」

気合を入れて読んだが、実に楽しい勉強をしたものだ。


ピ−ター・ラヴゼイ 「猟犬クラブ 」
クラシカルな本格推理小説
2001/08/12
イギリス南西部の都市・バース。ローマ帝政下温泉地として栄え、いまなお、熱いいで湯も豊富な浴場跡地が観光名所として知られている。4〜5年前、もう昔のことだが、当時はドメスティックな者がロンドンへ出張すれば、現地での気配りがあったものだ。「バースへ行ってみたい」と気のきいたふうな注文をしたにはピーター・ラヴゼイ「バースへの帰還」を読んだ直後であったためだ。この町は18世紀に上流社会の保養地、社交地として最も栄えた歴史を持っている。劇場、ダンスと賭博の集会場であるアセンブリー・ルームズなど往時の町並みとともに建造物が残る。バースの記憶は鮮明なのだが、なぜかこの小説はまったく印象に残っていない。

この作者の「猟犬クラブ」が文庫で出版され読んでみた。古典的な手法を取り入れた本格推理小説であった。この文化都市バースの住人にふさわしい人物が登場する。そして密室殺人事件。彼らはミステリーのマニアであり、本格謎解きの代表ジョン・ディクスン・カーのファン、アガサ・クリスティーのファン、ハードボイルド・犯罪小説の代表エル・ロイファン、難解このうえない作者ウンベルト・エーコのファン等などが侃侃諤諤のミステリー論争を展開する。これが私のような半可通のミステリー好きには程よくわかりやすいレベルの議論であるから、相槌を打ちながら楽しむことができる。しかもここが原稿用紙の水増し、お遊び用ではなく、いたるところに事件の伏線がちりばめられているのだから正真正銘「本格」である。猟奇・陰惨とは程遠い「綺麗な」殺人事件の発生、限定された容疑者、合理的そしてスマートな解決。流麗に一貫するユーモア・アイロニーが懐かしい英国流格調の高さを醸し出している。

おそらく「バースへの帰還」も上質なミステリーであったのだろう。ただこの種のミステリーは心に余裕がなかったあの当時、味わって読むことはできなかったのかもしれない。