ウンベルト・エーコ 『フーコーの振り子』
この振り子に振り回されて10年余り、ようやくひととおり読み終えて、もらすため息………。やはり、ダン・ブラウン『ダ・ヴィンチ・コード』のほうが面白かったなぁ。
2004/08/28
初版本を買ったのが1993年のことだ。読み出して冒頭。上野にある国立科学博物館のフーコーの振り子を思い起こしつつ、頭の中で地球儀の上に振り子をぶら下げて揺らしてみる。地球儀を傾けたつもりで北極の真上で揺らせばなるほどこれで地球が二十四時間を周期に自転していることはワカル。では東京ではどう揺れるのか、まして赤道直下では動かないのではないかなどと、数十ページ進んだままに、悩みながら10年がすぎてしまった。今回が5度目の挑戦になる。

装丁にあるこの解説程度までは読み進むことができる。
ミラノの出版社に持ちこまれた原稿はまたしてもテンプル騎士団にまつわるものだった。3人の編集者の思いは、中世へ、錬金全の時代へと、運命的に引き寄せられてゆく。やがて、編集者のひとりが失踪する。最後の手がかりは、パリの国立工芸院付近からの公衆電話。あの「フーコーの振り子」のある博物館だ。「追われている。殺されるかもしれない。そうだ、テンプル騎士団だ」そして、電話は切れた………。

私は気が短いほうではないつもりなのだが、失踪した男がどうなるのかと気になって読み進めるならばいつまで経っトも次の展開がないのだ。結局退屈して居眠りが始まることになる。私と同じような悩みを持って本書を積読しているお仲間のために、あえてネタバラシの批判を覚悟で申し上げるならば、次の展開は下巻全569ページの終わりに近い435ページから始まる。
この間にオカルティズムマニアである主人公の三人は古今東西に伝えられるこの種の膨大な文化的遺産を継ぎはぎして諧謔精神も旺盛に現代史につながるテンプル騎士団の大陰謀計画を創作するのである。でっち上げであろうがこれだけ一貫した重装備のストーリーを組み立てるためには相当な深い学識と的確な着眼点さらに豊かな創造力が必要とされるらしくこれをもって世評はエーコの真髄と絶賛している。ただ、私には字面を追うのが精一杯で判読不能の難物でありました。
したがってこの香気に不感症であった私としては冒頭数十ページとラストの百数十ページを読みさえすればこのサスペンスミステリーの骨子はつかんだことになると断定しておこう。

なぜ難解であるのか。
1 この作品は「ミステリーの傑作だ」との誤った先入観がある。
2 西欧の精神史についてはいろはも知らない。
3 なぜか中国、朝鮮、日本にある宗教、哲学、オカルティズムは全く触れていない。「これは知っている」とホッとできる奇談が出てこないのだ。
4 「百科引用大小説」と装丁にあるから百科事典のように詳しい解説があるのだろうと思っていたら、そうではなく、百科事典を引かなければ理解できない小説という意味であった。氾濫する用語、概念、人物、事件は解説なしで、そんなことは常識とばかりに生のままで登場するから常識なしの私は不愉快になる。
5 それではと百科事典を繰りながらすれば(それにも限界がある)小説を読んでいる楽しい気分になれない。
参考までに勉強した項目を挙げると:「オカルティズム」「カバラ」「カリオストロ」「サン・ジェルマン伯」「テンプル騎士団」「薔薇十字団」「フリーメーソン」「ヘルメス思想」これで理解がある程度進む。
6 哲学者が論理的にあるいは飛躍的に述べる諧謔はどこが面白いのかさっぱりわからない。

で、感想を述べよと言われたならば、せっかく目を通したこともあって、
「エーコという哲学者はすごい人ですね。歴史というのは勝者によって作られたものでわれわれが学んだ世界史とは全く別の見方もありうるという暗示なのでしょうか。歴史の闇にあるオカルトの世界をここまで丹念に集積し、表の歴史と因果を結ぶ。ヨーロッパ精神史をひっくり返して整理しなおすという野心的大実験だと思いました」と訳知り顔にこたえることにしよう。


エラリー・クイーン  『Yの悲劇』
1937年に刊行の序文で江戸川乱歩は「『Yの悲劇』は着想のなんともいえぬ恐ろしさと、謎の論理の申し分ない魅力において、探偵小説愛好家の魂に食い入る傑作である」と賞賛した。また別の場所では「この作品にはそういう謎と論理の魅力のほかにもっと大きな魅力がある。それはこの犯罪の動機と犯人とが、ちょっと書き表すことのできないほど、異様で悲劇的で戦慄に満ちていることである。その並外れた着想を読んで私は『アァ、探偵小説のたねはつきないものだなあ。まだこんな素晴らしいのが残っていたじゃないか』と思わずつぶやいたほどであった」とこの作品の犯人像、動機の着想に感嘆している。
2003/10/05
私がこの作品を読んだのは40年ほども前のことだ。記憶にはその骨格すら残っていないのだが、ただ犯人だけははっきりと覚えている。それだけこの人物の異常性にはインパクトがあったということだ。

乱歩が読んだ当時、いや私が読んだ当時でもこの手の犯罪は現実にはありえない、だから凡人では思いも寄らない、クイーンという探偵小説の名人にしてこしらええた、虚構の産物としての異様性であったはずだ。少なくとも日本では。
ヒッチコックの『サイコ』をはじめて観た時、あの映像と効果音がもたらす生理的恐怖感にはたまげたものだ。ただアンソニーパーキンスのあれだけの異常人格をもつ人間は存在するはずはない、虚構の異様さだと思い込んでいた。ところがその後、日本にも似たような人格がつぎつぎと現れ、事件が現出した。そのときはじめて私は『サイコ』にあった先見性に気がつき、あらためて現実におこりうる恐怖映画であったのだ見直したのである。

『Yの悲劇』を再読して同じような印象を持った。40年前にはこういう犯罪者はいなかった。しかし、いま理解を超えた人格が引き起こすY型犯罪のひろがりに日本中が戸惑っている。
日本ではアンケートなどで古今の海外推理小説ベストが行われると、ほとんど必ず『Yの悲劇』が第1位に選ばれていた。それは日本だけの例外でもある。日本の読者は犯人があまりに異様なために想像することがまるでできず、作者の仕掛けにまんまと欺かれる向きが多かったのではないだろうか、アメリカなどは昔からこんなことがあって、存外多くの読者は犯人を当てることができることから作品がさほど評価されないのかとも思ったりする。さてこの作品を今はじめて読む日本の推理小説愛好者がいたら、昔と違い、早い段階で容易に犯人の見当をつけることができるのではないだろうか。悲しむべきことである。


エリオット・パティスン「頭蓋骨のマントラ」
素材・着眼はいいのだが………
2001/4/14

エリオット・パティスン「頭蓋骨のマントラ」を興味深く読みました。チベット自治区、漢民族のチベット支配の長い歴史、抑圧―反乱―抑圧の繰り返しが今なお続いている。宗教、風俗・政治など特異の文化圏をなす、「秘境」と呼ばれる地域である。篠田節子「弥勒」のモデルとも思われた。インドに亡命政府が擁立され、ダライラマのメッセージは国際世論を左右する。しかし、実相は知られていない。
その意味で、この作品は読むに値するなにかがあったはずである。

ただ、上巻は事件の進展がもたついて、大いに退屈、下巻を読むのを中止しようかと思えた。西洋人の分別で東洋を見るあの一段高い場所に立った視線が随所に表れる。中国人は頭が悪く粗暴であり、一方は無抵抗の忍耐強い宗教家と迷信深い大衆。人道主義者であり、文化遺産の保護に熱意を燃やすアメリカ人が登場。作者が生半可で老子、荘子の教えを説くものだから、よく理解できない禅問答むしろコンニャク問答を聞かされることになる。事件の背景がおおよそ見当ついたところで、常識的に終わる。

舞台はサラエボであるが、同じような内戦下での殺人事件を扱った作品ではダン・フェスパーマン「闇に横たわれ」が良かったし、中国の辺境地域に対する支配構造に関しては船戸与一「流砂の塔」に見るべきものがある。