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宮本昌孝 『夏雲あがれ』
痛快!!! これは楽しめる、時代小説の傑作だ
2002/11/17
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「きらめく青春の光、爽快な時代小説」と背の帯装丁にある。「きらめく青春」かぁ、なんと古めかしい言葉なのだろう。今この言葉を使うのは気恥ずかしい思いがする。こんなコピーを使っていまどきそんな本が売れるのかしらと心配になります。ところで、今の若者たちにも「きらめく青春」はあるのだろうか。もしかしたら死語になってしまっているのではないだろうか。
青春ドラマ、青春映画というジャンルがあった。戦後それは石坂洋二郎「青い山脈」から始まった。「若く、明るい、歌声」そう、イメージは健康、明朗であった。
その延長に加山雄三「若大将シリーズ」があって学園、スポーツ、ミュージック、共同生活とそこで起こる事件、そして友情と恋。とにかく明るさである。
その一方には青春を「性の解放」としてとらえるジャンルもあった。親には内緒で「十代の性典」などドキドキしながら見に行ったことを覚えている。そういえば中学の国語の漢字テストで「せいてんをよむ」なんて悪質な問いがあって当然のことだが「聖典を読む」とは書けなかったものだ。
さらに学生の乱行、乱交、いまの石原都知事が芥川賞を受賞した作品「太陽の季節」がはしりとなった「太陽族」なる風俗ドラマもまた青春モノであった。
そして学生運動。大島渚の「青春残酷物語」によって若く明るい青春は屈折していく。柴田翔「されどわれらが日々………」、青春は「挫折」へと変化してしまったようだ。
そして現代の青春とはなんなのだろうと首をひねる。少なくとも「きらめく青春」はやはり死語になってしまったのだろう。
江戸時代の武士社会を描く時代小説も最近はそこにある非人間性への告発やそこでうまれる悲劇を描くいわば「残酷系」が多いが、これは敬愛する主君をいただく三人の青年武士がお家騒動の陰謀を阻止するために大活躍する「痛快系」である。お家大事の精神が無邪気に謳われる。従ってそこで描かれる青春は昔懐かしい「きらめく青春」なのである。
いまさら「きらめき系青春モノ」など興味を覚えないし、大体そんな時代小説なんて考えられないではないか。装丁帯のコピーを見ただけではのんびりしたNHKドラマのようでさえある。ところが読み出したら止まらなくなった。むしろこのアナクロのところがストレートな魅力なのかもしれない。ストーリーの展開がリズミカルなのだ。敵・暗殺隊との死闘が繰り返される。その合間に三人の笑いと涙と友情エピソードが読者の心をなごませ、次にさらなる強敵が現れ、趣向をこらしたつばぜり合い。この緩急の繰り返し、振幅の幅がしだいに増していく、そしてラストの主君暗殺シーンへ、この運びが実に巧みだ。
なお最後の最後まで局面は変わりますから読み落としがないように………。通勤の往復を充分楽しめました。
著者については『北斗の銃弾』をはじめて読み、その後『陣借り平助』を読んだ。いずれも楽しい時代小説だ。
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宮本昌孝 『ふたり道三』
時代小説、数ある中で後世に残る大娯楽傑作が誕生した。小説のもつ娯楽性をこれほどまで高めた作品はめったにお目にかかれるものではない。
2003/03/09 |
斎藤道三親子が二代をかけて時に敵対し、時に相補しつつ、美濃を掌中にするまでの波乱万丈の天下争奪絵巻である。
中原またして鹿を逐い、筆を投じて戎軒を事とす。世は麻のごとくに乱れ、群雄割拠する室町末期、刀匠「おどろ丸」は妖剣「櫂扇」鍛刀の奥義を投じ、国盗りを決意する。
冒頭から血風が吹き荒れ、怒涛の渦中に引きずり込まれる。文字通り血沸き肉踊る見せ場、山場が20ページに一回はある。しかも意表をつく展開の連続。その語り口は絵画的である。見せ場は特に映像的である。読んでいて情景が思い浮かぶ、まさに迫真の大活劇を楽しむことができるのだ。筆の運びもたくみに、静と動とが心地よいリズムとなって繰り返される。ストーリーの構成も緻密であり、脇役の人物像は主役に負けず魅力的に描けている。柴田錬三郎、五味康祐、山田風太郎、隆慶一郎の最盛期に比肩しうる出来栄えである。
斎藤道三を描いた小説の代表作に司馬遼太郎の傑作『国盗り物語』がある。それまで一般には蝮の異名を取る道三は残忍で猛々しいという意味で「梟雄」、非道なる悪の象徴であった。司馬遼太郎は独自の史観を持ってこの戦国の梟雄を革命児として位置づけたのである。中世のあらゆる体系と秩序が崩壊し、新しい秩序を創造する過程で信長という新時代の旗手につなぐ役割を道三に与えて、氏の歴史観、国家観を直接反映した人物像が描かれる。『国盗り物語』は歴史小説である。
宮本昌孝にはこだわるべき歴史観、国家観はないように思える。だからこそ二番煎じにならずにこれだけの、ぞくぞくする魅力的な作品を作り上げることができた。『ふたり道三』は娯楽小説である。
人には守るべき道がある、仁義忠孝悌礼智信………。しかし、下克上の乱世に一国の覇者たりえる絶対の必要条件は、これらの守るべき道を切り捨てる、特に親殺し、子殺しを断行できる「梟雄」の性根。これが全編を一貫するモチーフである。もうひとつ一貫するモチーフがある。衆生には往生しようとしても断ち切れない煩悩がある。時を越えてなおいぶり続ける愛憎・怨念・欲望のエネルギーを象徴する魔剣「櫂扇」だ。日本人の誰もが持ち合わせている(若い世代には死語になっているのかもしれないが)この精神構造の相克を劇的に描写する。これはまさしく大衆文学である。
最終章ではこれらのモチーフが統合的して昇華される。「梟雄」になろうとして断ち切れないものを残した父と美濃の王となった息子、哀切極まりないラストシーンである。
人生意気に感ず 功名また誰か論ぜん。
天下統一創成期の新たな英雄伝説でもある。読後感もまた爽快であった。
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村上龍『希望の国のエクソダス』
アナーキーなエネルギーの爆走に希望を託するか?
2002/09/08 |
『なんとなくクリスタル』という私などは薄っぺらいとぐらいにしか思わなかった小説で文壇デビューした男が県知事になって絶大な人気を集めている。しかし、有力支持者の中ですら「あいつはまだ作家にしか過ぎん。政治家ではない」と批判の声を大きくする人が少なくないと………、さもありなんと納得しつつ、一方で「ドラッグ、セックス、ロックンロール」とかいった安手の風俗を扱ったかのごとき小説『限りなく透明に近いブルー』で芥川賞を受賞した男が最近はインターネットの世界でわが国の政治・経済・社会構造を憂え、特に教育問題について一家言を有する存在となり、多くの層に対する情報発信者として、影響力も備えていて、その村上龍が二年前に発表した『希望の国のエクソダス』を読むべしと、柴田翔『されどわれらが日々………』時代の友人にすすめられた。
近未来を描く経済小説・情報小説にも見える。だいたい元官僚とか、元日銀マンとか元アナリスト、元ファンドマネージャ、経済評論家とかの手になる、日本経済が沈没しそうな近未来小説(警世の書などと持ち上げられる)の氾濫がある。榊東行と名乗る覆面作家の長期信用銀行の破綻を描いた『三本の矢』、発売直後に読んだことがあるが、どうも現実経済の中で真剣に生きているものを冷笑しあるいは揶揄する、疲労感だけが残る後味の悪さがあってそれ以降この種の小説は敬遠するようになった。
『希望の国のエクソダス』もプラザ合意以降の日本経済の凋落を国際経済論、国際通貨論、あるいは国際資本市場の変貌、巨大投資ファンドの分析などから解説するのにかなりのページ数をさいている。そして円の強化策、円通貨圏の拡大、近未来下に日本を盟主とする新アジア共栄圏構想とアジア通貨基金の創設を実現するストーリーが一つの軸になっている。しかし彼はそのような戦略を否定も肯定もしていない。彼は自分が文学者であり、作家である立場を忘れていない。その限界の中で注目すべき「現代の寓話」を創作したのだと思う。そこで好感を持ってこの作品を読み終えた。久々に日本を語る、しかも明るい夢をみさせてくれる小説を読んだ。さっぱりした読後感を持った。私の敬遠する経済論はこの寓話を語るに必要な道具として意味があるにすぎない。
アジア諸国を取り込んだ円経済圏が成立したのを待っていたかのように巨大投資ファンドはアジア通貨をターゲットに猛烈な通貨投機を仕掛ける。やがて円は大暴落し日本は国家破綻の事態に追い込まれる、そのとき、登校を拒否し、インターネットで集合した80万人の中学生が膨大に集積した情報をもってこの通貨危機から日本政府を救うのである。彼らはネットビジネスで資金を蓄積し、国際的規模の情報網を構築していく。そして彼らは独自の通貨を流通させる経済圏を北海道につくり、移住、既成社会からのエクソダスをすすめていく………。
不登校生徒の蔓延や今も続くイジメ問題。希望を失った教育の現場。彼は真剣にこの問題を憂え、一般社会に問題提起をし、昔で言えば不良少年たちにあたたかい目を向けている文化人なのだろうと思う。彼の発信するネット情報がそれを物語る。その視点が強く反映した、よくできた物語である。
既成の秩序を否定する。
政治が権力を実現する装置であるという冷厳な事実を無視する。
本源的欲望・見えざる神の手にゆだねる富の配分ルールを人為的に「公平化する」。
それがこの寓話に登場する中学生のエネルギー源とされているようだ。アナーキーなエネルギーの爆走が希望の国を実現するおはなし?ただ、原始共同体では今さらユートピアを実現はできまい。昔々「全共闘」というエネルギーの暴走があったななどとうがった見方をしてみたくなる………そういうところもあってよけいに面白かった。
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