佐々木譲 『ベルリン飛行指令』

この小説は「著者前書き」で元本田技研の取締役浅野敏彦氏から著者佐々木譲が「第二次大戦中に日本海軍の零式艦上戦闘機、いわゆるゼロ戦がドイツに飛んだ事実があるのではないか」との話を聞いたことに始まります。実在した戦争秘話とする体裁はストーリーでも一貫して、背景にある国際関係の緊張状態が生々しく伝わり、そのため、戦争という非人道の極限状況でしか生きられなかった男たちの孤高の美学が静かに現代を生きる読者のこころをとらえるのです。

1940年、三国同盟が成立したばかりの欧州戦線。ドイツ空軍がロンドン制空権を確保するには航続距離のより長い戦闘機が必要であると判断したヒトラーはこのゼロ戦のライセンス生産をしようと、三国同盟を楯にとりあえず実験機として二機の移送を求めた。
横須賀からベルリンまでの最短距離はロシアルートであるが対ソ戦を準備するドイツがこの航路を拒絶する。インド、イラク経由のルートだけが残されるが、ここはイギリス空軍が行く手を阻む。英国植民地内の中継基地の確保とこの命がけの輸送を成功させる飛行技術を備えたパイロットの確保がこの物語前半の読みどころです。

2005/09/30
三国同盟の成立に危機感をもつ男、やがてアメリカを敵とした日本のたどる運命を予見する男、英国植民地内にいて民族独立の悲願を目の当たりにしている男、政府・軍に所属しこのベルリン飛行指令の無意味さを知り尽くしている男たちが不可能と思われる作戦を準備していく。
彼らがパイロットとして最終的に選び抜いたのはいわば軍隊組織のアウトサイダーであった。抜群の撃墜王、安藤啓一大尉と乾恭平空曹。軍規違反で挑んだ一騎打ち空中戦にフェアプレイ精神で勝利し、仲間内で喝采を浴びる。南京市民を巻き込んだ空からの無差別銃撃にあえて加わらなかった。特務機関の大物が混雑する市中で抗日テロ分子を銃撃するところを妨害する。海軍をドロップアウトしていくプロセス、二人の硬骨漢の実に痛快なエピソードが語られるのです。
なおインドの地方藩主が中心となった反英独立運動の挿話はこの作品に厚みをくわえています。あの侵略戦争がアジア解放のためにあったなどと毛頭いうつもりはありません。ただ、強大な軍事力で植民地化されている弱小国が流血を覚悟して独立を達成しようとすれば、狼が虎に変わる危惧を持ちながらも、第三者・大日本帝国の支援を期待する政治的状況は事実としてあったのだろうと思いますね。

そして後半は英国の包囲網をかいくぐり、ベルリンまでのスリリングな飛行行程が続く。
今回は再読なのですが、平成8年初めて読んだ時には日本では珍しい戦争冒険小説の傑作だとの印象を強く受けました。しかしどうだろうか。その後ずいぶんと冒険小説を読んだからかもしれませんが、肝心のアクションシーンは不足しているし、英国側の妨害活動には精彩がないからどうも緊迫感がないのです。軍規に逆らう勇気や戦火の中の男の友情だって昔からあるありふれたテーマだと言えなくはない。

しかし、この二人を含め登場人物がよく描けていて一人一人がとても魅力的な人間なのです。物語の時間軸が過去を懐古する現代に戻って終了するせいでしょう、その魅力にはノスタルジックな「反骨精神」があり、ロマンティックな「人道主義精神」もありますが、むしろ価値観が混沌として右往左往している現在をしたたかに生き抜くのに必要な共通したあるパーソナリティーを示唆している………と今回はそんな余韻が残るのです。
つい最近読んだせいか 藤原伊織『シリウスの道』の主人公と重なるんですね。
ハードボイルド世界の美学に通じるもの、誇り高くおのれの矜持を貫くというカッコイイ姿勢なのだが、小説にしたって本物のハードボイルドヒーローは実はやせ我慢でなんとかこれをやっている奴のようだ。
共通したあるパーソナリティー、それはひと言では「プロフェッショナル精神」と呼ばれる。身につけた優れたスキルを活かすことで現代社会を生きていく。そのスキルを発揮できる組織であればそれにこしたことはないのだが、実際には組織の論理と矛盾し立ち往生するものだ。しかし逃げない。我慢してなんとか折り合いながら自分を貫くこと。つまりスキルだけではない、この折り合いをつけることができるのもプロに必要な素質だ。
そしてわたし自身がそんな生き方をできたのかと振り返った時、この作品に登場する人物たちのカッコよさの陰にあっただろう「やせ我慢」の部分が見えてきて、私には彼らのようなあまりカッコいいところはなかったんだが、やせ我慢のところは切ない思いがこみあげてきました。


東野圭吾 『容疑者Χの献身』

他人様をたぶらかすことに無上の喜びを感じるペテン師の「私」はたぶらかされることにも快感を覚えるタチなものだから、小説は謎解き型のミステリーを好んで読む。なかなか快感傑作はないのだが、これは完璧であったよ。

2005/11/27
われわれペテン師の仲間内でよく言われる問題設定がある。詐欺の仕掛けを作りだす創造と詐欺の仕掛けを見破る分析ではどちらが簡単か。あるいはその難しさの度合いはどの程度かとされる問題なのだが、殺人事件の隠蔽工作をテーマにしたこの作品を読んでまんまと引っかかり、心底ヤラレタと思った「私」は後者の方を難しいとするのが正解であろう。実にくやしいのは読み手がかなり周到に読み込めば「なんだか変だぞ」とわかるヒントがあらかじめありながらだ、この「あらかじめありながら」でたいした本格派といえるのだが、ついうかうかと見過ごしたことだ。被虐の楽しみは充分に味わったことになる。

さて、ミステリーは小説として楽しめばよいのだがペテン師という職業人の習性だろう、嫌なことだが一般の読者にはない読み方がある。「犯行の実行可能性」「完全犯罪の方法論」という実践のための教材として使うのだ。ところがこれだけミステリーのベストセラーが増えているにもかかわらず、実際に「私」がこれから実行しようとしている犯行の研究書として役に立つものは少ないのが実態だ。

たとえば
叙述にトリックのある作品や超能力犯行は論外だが、
横溝正史風で特定地域の因習を前提に犯罪がなりたつもの
寒村、孤島、古城などの仮想の閉鎖空間を犯罪の舞台としたもの
偶然や登場人物の直感で肝心なストーリーが変化するもの
時刻表アリバイのようにおなじみになりすぎてその手口が警察にも知られているもの
とんでもないコストがかかる道具立てを必要とするものは「私」には手が出ない。
先端科学技術なども「私」には使えないだろう。
毒薬などもよく小説では使われるが先日の静岡県でおこった16歳少女の母親毒殺未遂のように入手経路は解明されるものだ。マフィアとのつきあいを避けている「私」は凶器にピストル、マシンガン、プラスチック爆弾などは手に入らないだろう。
変装とか声色、腹話術など怪人二十面相やアルセーヌ・ルパン風もだめだ。

「私」がこの作品をめったにお目にかかれない傑作だと思ったのは実はここにある。
このトリックの恐るべきところは実際に使えるからだ。
そして完全犯罪を可能にする方法だからだ。
だから「私」は興奮したのだ。

そこで「私」は細部を検証しようとはじめから丹念に読み返すことにした。
装丁帯にはこうあった。
運命の数式。命がけの純愛が生んだ犯罪
これほど深い愛情に、これまで出会ったことがなかった。いやそもそも、この世に存在することすら知らなかった。
男がどこまで深く女を愛せるものか。どれほど大きな犠牲を払えるものか………。


アレレ!!!! 
これって恋愛小説なの?
そうだとしたらいかにもインチキくさい純愛物語だなぁ。
今しがたの興奮はあっという間に冷めてしまった。
ダメだ、コリャ。
結局、この組み立ては、オンナには興味を失った「私」のこれからの犯行にはまるで役に立たない仮想現実だったのだ。


岡嶋二人 『99%の誘拐』

誘拐を題材にして事件の周辺にある人間ドラマを描く作品は別として、身代金略取を企てる人質誘拐犯行のプロセスそのもののを主軸にしているミステリーもいくつか読んでいる。読んだその時にはおもしろいと感じた作品もないではないが、ほとんどが肝心な仕掛けの部分すら思い出せないものだ。
2005/11/30

ところが40年以上も前に読んだ故・高木彬光氏の『誘拐』だけは別格だ。執筆当時世間を騒がせた雅樹ちゃん誘拐事件をモデルにこの事件を分析し完全犯罪を実行しようとする冷酷な頭脳の犯人像からスタートし、身代金受け渡しの意想外の「完璧性」からラストに明らかにされるまさかの「誘拐の構図」と「法の盲点にあった完全犯罪の綻び」などいまだに鮮明であることはそれだけ傑作だったからだ。そして今となれば高木彬光は幼児営利誘拐という卑劣な犯罪行為を断罪する姿勢を堅持しながら、よくここまで魅力的な犯行の手口で読者をひきつけるエンターテインメントを仕上げたものだとその手腕にあらためて感服します。

現実に幼児誘拐が頻発し、悲惨な結果を引き起こすことは多く、犯人に対する憎しみや怒りは当事者だけだなく、社会全体の共通した感情であるから、うかつな姿勢でこのテーマにとりかかれないからだろう、それ以来犯行のプロセスにスポットライトをあてた誘拐もので背景にうなるような重厚感をもった傑作には出会うことはなかったのだ。

そして読んだものの多くは社会性や人間性を描くことをやめた、楽しく軽快に一気読みできるゲームとしての誘拐劇でした。だから記憶に残っていないのだな。
さて『99%の誘拐』はそのジャンルの傑作だと思います。ここで創られた誘拐大作戦の大仕掛けな舞台装置はまちがいなく記憶に残りますね。単独犯行で、完璧なアリバイを作り、殺人を犯さず、十億円を略取する誘拐ゲームです。導入から読者にとって魅力ある謎が次々に提示されます。主人公は反倫理、反社会性といった暗い影のある「犯罪者」ではなく、難しいゲーム課題をいくつもクリアしていく「ヒーロー」ですから成功するかどうかと読者は期待と不安でどきどきしながらグイグイと引き込まれます。途中も無駄な描写はない。叙述的トリックはないようなものだから余計な詮索はしなくても良い。適度な緊張を楽しみながら、ラストまでそのスピードに乗せられてしまう。結末は予想通りめでたしめでたしの安心感でホッと息がつけました。軽口の誘拐もので東野圭吾『ゲームの名は誘拐』がありましたがコンゲーム小説としての快感ならこの作品のほうがうわてでしょうね。

西澤保彦の解説に親子の愛情が切なく描かれているかのような賛辞が述べられていますが、それは場違いというもの。ここは誘拐ゲームを単純に楽しめばよろしい。

マフィアやCIAならともかく先端のハイテク機器を中心に金と物と労力と知恵をこれだけの規模でぶちこんだ誘拐ドラマは前代未聞です。
1988年の作品なのだが、私の場合、その時に読んだとすれば、ふんだんに登場するハイテク機器は空想科学小説の世界であって、馬鹿馬鹿さが先に立ち嫌気がさしたことでしょう。ところが今ではパソコンなどもそこそこ使えるものだから、おまけで付いている音声入力や自動翻訳機能などもいたずらしている。スキャナーでは画像を文字に変換できることだって知っている。私が使いこなせない不思議な機能をもった携帯電話でも家族は便利に使っているようだし、コンピューター制御の警備システムだって身近にある。だから、もしかしたら主人公ならばこんなこともできるのだろうなって思いこませるだけの状況が熟してきたところで、読んだタイミングがよかったんじゃあないだろうか。