ドストエフスキー 『カラマーゾフの兄弟3』亀山郁夫訳

『カラマーゾフの兄弟』は第一の小説と第二の小説の構想があって第二の小説は書かれていないのだが序文「著者より」によれば全体として三男アリョーシャを主人公にしている。ただこの第一の小説ではアリョーシャの影は薄い。とはいえ「第三部第七編アリョーシャ」には引っかかるところがあって読み返したら、独断的なアリョーシャ印象をくどくどと書いてみたくなった。

どんなにスッと入れる名訳でも原書そのものにある難解さをときほぐすのは容易ではない。特に宗教に関連するイメージは私のもっとも苦手なところです。第一部、長老の部屋での「国家と教会の二元支配論」またスメルジャコフの「神の不在論」、第二部、イワンの「大審問官」など観念的哲学的な宗教論はどうにか頭で整理することはできる。だが現実世界にはどうか。煩悩につきまとわれるこの世にあっては、教会に集うことを習慣にしていると人たちいえども俗人はそんな高次の精神とは無関係に生きているのだ。その一般の人たち(信仰心の篤い人や多くの聖職者を含めて)にはおそらく俗っぽい神や悪魔が存在しているのだろう。私は日常に神とつき合っているのではないから、なにが神の作用でなにが悪魔の作用なのか、このあたりのことはとんとわかりかねるのだ。

2007/09/27


消化不良の胃の中にある肉の塊は大いに存在感があってそのひとつが「第三部第七編アリョーシャ」となればもう一度口に戻して咀嚼してみたくなる。100ページなので三度読んだ。
おぼろげながらこの第七編は現世に降りた神と悪魔の美しくも妖しい交錯が描かれていることに気がついた。

ついにゾシマ長老が死んだ。だれからも愛され尊敬されていた。そして人々をひとしく慈しむ。謙虚で優しく高潔な精神と深い信仰心。いまなら予知能力ともいえる神秘的力もそなえているようだ。私にはキリストの再来を表現しているのではないか思えるぐらいの聖人だ。まもなく死を迎えることを知らされた人々、身分、貧富を問わずすべての人々が神に召されるにあたっての瑞兆、大いなる奇蹟が必ず目の前で起こると信じていた。私だって大いに期待していた。アリョーシャだってそうだった。ところがどうだろうか、期待は裏切られる。遺体が考えられない速さで腐敗しひどい腐臭を放つのである。なんという忌まわしさだろうと私だって呆然となる。人々というものは残酷なものだ。尊敬が侮蔑に、信奉が猜疑に、人々が抱いていた偉大な人・ゾシマに対するイメージはひっくり返る。神に祝福されるべき聖人は逆に神に呪われた者であった。鼻をつく腐臭がその啓示であると人々は受け取ったのだ。まえまえからゾシマの批判者であったフェラポント神父は狂ったように悪魔だと告発する。ゾシマは弾劾と軽蔑と汚辱にまみれてラストステージに横たわったのだ。

一言で背筋がゾックとするような衝撃的展開だった。私の記憶にある不可解なあの展開と同じだ。それはキリスト磔刑のシーンだ。神が存在するなら、なぜあれほどの残酷な死を前にして神は奇蹟を起こすことなくただ沈黙し続けるのか。

そして混乱の最中に、アリョーシャの精神は短時間で、いく段階もの劇的な変貌を遂げる。これが凄い。第七編はまさにこのためにある。

アリョーシャはゾシマ長老に愛され、またゾシマ同様すべての人に親しまれる信仰の人である。非の打ち所のないやさしい心の純真な若者として私の前に登場していた。

その彼が人々の露骨な背信の光景を目の当たりにしたとき、そのまさかの神の意図に愕然とし、不動であった信仰心が動揺するのである。「僕はべつに、自分の神さまに反乱を起こしているわけじゃない、ただ『神が創った世界を認めない』だけさ」と神を否定する兄イワンの言葉をひいてゆがんだ含み笑いを浮かべるのだった。彼は落胆の淵にいるのだが、私にはそれでこそリアルな人間なんだと、私との距離が縮まったように思えた。

そして彼なりのいくつかの啓示を受ける。(売女ともいわれるグルーシェニカとの交歓、ゆめうつつの中にゾシマの復活など、この場面も見逃せない)突然、彼の魂は喜びに満ちる。頭上には輝く星たち。微動だにしない静かな夜の大地。大自然の善と美に抱かれて彼の精神は飛翔する。神々しく美しいシーンである。宇宙の法則に導かれた魂の解放だと私には思える。それは東洋的には「悟り」である。『罪と罰』のエピローグ。ラスコーリニコフがあたたかい陽射しを浴びて、広野のなかに自由な遊牧民たちの生活を認め、喜びと幸福に満ちた復活をなす。あの高揚感と同じ感動をおぼえた。

だが、最後の変貌には鬼気迫るものがある。「この天蓋のようななにかしら確固としてゆらぎないものが………自分の魂の中に降りてくるのを感じとった。なにか理想のようなものが、彼の頭のなかに君臨しつつあった」「倒れたときにはひよわな青年だったが、立ち上がったときには生涯変わらない、確固とした戦士に生まれ変わっていた」
これまでのアリョーシャとは似ても似つかぬ人格ではないだろうか。「確固としてゆらぎないものの(降臨)」「理想」「君臨」「戦士」。そこに謙虚なアリョーシャは消え、ひどく傲慢ななにかに変わったかのように私には思える。

観念的神学論よりも現実世界での善悪論のほうが私にはツッコミが容易である。だから、あえて言いたい。彼はだれのために戦うのか。だれを敵とする戦士になのだろうか。イスラム対キリスト教の宗教戦争ともいえる現代の戦争がある。双方にとって相手は悪魔である。生まれ変わったアリョーシャははたして神か悪魔か。それともいつの時代の青年にもありうる夢のような理想への熱狂にすぎないのか。

ドストエフスキー 『カラマーゾフの兄弟1』亀山郁夫訳

巻末の訳者・亀山郁夫による「読書ガイド」は難解なこの作品を理解するうえでとても重宝である。適度な突っ込みだから読者の自由度を束縛することなく、ポイントをついた手引書になっている。そしておそらく訳者の個性的な翻訳姿勢によってこの書はいまや話題のベストセラーとして注目されることになったのだろう。

世界文学の最高峰とまで言われるくらいのドストエフスキー文学は率直に言って難解である。私のレベルではすんなりとは読むことはできない。ドストエフスキーを読むには腹を据えて気合を入れてとりかかる、それがこれまで『罪と罰』『悪霊』をとにもかくにも読み終えた者の心得だ。さらに、できれば訳者を選択し、わかりやすい訳本を選びたい。これは岩波文庫の米川正夫訳『悪霊』にコリゴリして新潮文庫の江川卓訳でようやく読み通せた経験からである。新潮社の原田卓也訳が何年も積読状態にあって、しかし今回の亀田郁夫訳の刊行でこれがわかりやすいとの評判になって、とびついたものだ。

なかなか手に負えない理由の根本にわたしがロシアを知らないということがある。ロシアの歴史、政治、思想、宗教、文化、社会生活さらに国際的環境の変動などが小説のテーマと深く関わりあっている(いやむしろロシアそのものの縮図を描いているのかもしれない)のだから、ある程度の予備知識は欠かせない。腹を据えて取り掛かるというのはこのお膳立てのことにある。でもそれをやりはじめると、なにか勉強するとか研究するとか、読書する楽しさとは別の机の向かうとの堅苦しい気分になってしまって、小説世界に没頭できなくなるのだ。これは困ったものである。それでも『罪と罰』『悪霊』のときに仕込んだ知識が今回は役に立ちそうな気がしている。


2007/09/13


冒頭「著者より」の序文が面白い。
「むろんだれにも、なんの義理もないのだから、最初の短い話の二ページ目で本をなげだし、二度と開かなくたってかまわない。しかし世の中には、公平な判断を誤らないため、何が何でも終わりまで読み通そうとするデリケートな読者もいる」とある意味で読みにくさを自覚したうえでの挑戦的な宣告が掲げられている。「公平な判断」をするべきデリケートな資格はないのだが、山登りと同じ、なにがなんでもと、とにかく読んだという達成感をうるために私は読んだ。

ドストエフスキーが難解であることはどうやら小説の仕組みにありそうだと私なりに気づいたことがいくつかある。

第一に挿話がめっぽう面白いところである。登場人物の、あるいは登場人物の語るこれらの挿話はそれ自体のディテールにより時に長大であり、それ自体で重みあるテーマをもった一つの短編小説のように全体にちりばめられている。そこでわたしは目を奪われてしまう。愚かなことだが、読んでいるうちにプロット全体とのかかわりを見逃してしまうのだ。いつ、どんな状況で、だれがあの話をしたんだっけ?と。つまりこれが挿話ではなくプロットの重要なパーツであること、全体のなかにすっぽりとおさまるべきものであり、なくてはならないものだということが頭で理解しつつも実際にはわからないままになってしまうことがあるのだ。それだけではなく、全体とはあまり関連性のない本来的挿話も混じりこんでいるのだから私には救いようのないジグソーパズルなのだ。すくなくとも一度読み通しただけではこの嵌め絵の完成作品を見ることはできないだろう。

第二に一つの事実に対して登場人物たちの心理に照らして複数の真実が存在することを語る小説だということである。それはひとえに人間の心の襞を解剖学的な緻密さで広げていく作業の積み重ねで構成されているからである。私が「それではいったい真実はなんだったのか」といらいらしながら作者に問いかけたくなる場面がいくつも出てくる。しかも作者ドストエフスキーが客観的に叙述する構成ではなく小説は「わたし」という人物の語りでなっているのだからよけい始末が悪いのだ。
序文「著者より」にこんなくだりがある。
「とくに昨今の混乱をきわめる時代、だれもが個々のばらばらな部分をひとつにまとめ、何らかの普遍的な意義を探りあてようとやっきになっている時代はなおさらである。」
このくだりは今の日本に重ね合わせてもいっこうに差し支えないほど意味深長であるがそれはさておき、ドストエフスキー自身「人々に明快さを求めることが、かえっておかしいというべきなのだろう」と明快さをもともと放棄していることである。

第三に心理の複雑性に加え「言葉の多様性」といわれるところである。単純な例で「笑った」と表現されていてもこれが朗笑であるのか冷笑であるのか嘲笑であるのか苦笑であるのか失笑であるのか。その程度なら文章の前後でわかるかもしれないのだが、ある表現がロシアの精神風土を前提にした言葉となればもう降参である。しかもそれを日本語に変換したとなればわかりにくさの責任は訳者にもあると指摘してよい。

さてこの亀山郁夫訳だがうたい文句に「世界の深みにすっと入り込める翻訳をめざして………」とある。わかりやすい翻訳だと感じた。私は「すっと入り込め」た。おそらく「言葉の多様性」という難物がかなり解きほぐれているからだと直感する。翻訳の姿勢!もうひとつのうたい文句「自分の課題として受けとめた今回の亀山郁夫訳は、作者の『二枚舌』を摘出する」つまり亀山郁夫の主観がかなり入り込んだ翻訳にミソがあるようだ。私は亀山郁夫著「『悪霊』神になりたかった男」を読んだことがある。ここでは『悪霊』の中の「スタヴローギンの告白」をつまみ出し翻訳して解説している。それまでなんどか消化不良のまま『悪霊』を読んでいたが初めてこれで目からうろこが落ちた思いだった。にもかかわらずこの著書について批判があることも知った。おそらく彼が現代日本に軸足をおいた彼の視線で翻訳していたからだろう。本著もその姿勢があるから多くの現代人に受け入れやすく、読まれることとなったのではなかろうか。私はその翻訳姿勢を是とする。いろいろな読み方があるべきだし、ドストエフスキーだってそれを望んでいるような気がするからだ。

ドストエフスキー 『カラマーゾフの兄弟2』亀山郁夫訳

全巻エピローグまで読み終えたものの混沌の宇宙に放り出されたような頼りなさでいらだたしい心境にある。最後にある亀山郁夫の解説を読むことは中断してこの酩酊状態をしばし楽しむことにしよう。

2007/09/18
これはもともと未完の作品だから仕方がないのだと割り切ったってかまわないのかもしれない。前文の「著者より」が暗示するように「個々のばらばらな部分をひとつにまとめ、何らかの普遍的な意義を探りあてようとやっきになって」も徒労になる、そんな作品なのかもしれない。それにしても「個々のばらばらな部分」がスポットライトをあびてあまりにも鮮明に浮かび上がり、強烈な印象をもって心に刻みこめられるのだ。
たとえばホフラコーワ未亡人の娘、リーザ。かなり個性的な少女で忘れられない。からだの弱い14歳なのだがアリョーシャを愛している。アリョーシャは彼女と婚約するのだがこのふたりの心理は描き足りないのかよくわからないし、物語全体の中でどういう意味合いがあるのだろうか。

それにしてもドストエフスキーの作品に登場する女性だが、その人格の現代性にはびっくりさせられる。日本で言えば幕末から明治初期が舞台だが当時の日本女性では考えられない自己主張、存在感、精神的自立を備えている。リーザもそうだがリーザの母、裕福なホフラコーワ夫人、フョードルとミーチャの争いの元になる妖艶な美女、グルーシェニカ。極貧の生活にある少年イリューシャの母、狂気の人、チェルノマーゾフ。なかでも印象的な女性はカテリーナである。ペテルブルグの女学校出のインテリ美人、しかし、愛と憎しみ、誇りと屈辱の板ばさみを自覚し時には錯乱しながら、ミーチャとイワンと自分自身の内面的三角関係に身もだえする。このカテリーナは「父殺し」の裁判でミーチャに決定的に不利になる証言をするのだが、たとえば、さてこの女性心理をどう解釈するか、彼女が本当に愛した男はミーチャかイワンか、仲間内で議論すれば喧々諤々かなり有意義な時間を過ごせるのではないだろうか。

ところで『カラマーゾフの兄弟2』はなんといっても「第二部第五編プロとコントラ」にあるイワンの創作詩「大審問官」とアリョーシャの記述「ゾシマの伝記」、この二つのずっしりとした挿話には圧倒される。すでに第一部では長老の部屋で国家と教会の関係が議論され、またスメルジャコフの神の不在論が開陳されている。キリスト教そのものにメスが入れられるのだ(ローマ・カソリックへのメスかもしれないのだがすくなくともには私の手には負えない)。人類史における支配と被支配の起源、神と悪魔の境目、それだけではない現代民主主義政治の混迷を予見するような不条理観。これらを包括した大審問官によるキリスト糾弾の論理はそのとおりだと私には思えるいっぽうで私は信仰の人・ゾシマの語りには心の安らぎを感じるのだ。ただし、私の理性的理解と感性的感覚はせいぜいそこまでしか及ばない。大審問官とゾシマは対立関係にあるのだろうか。そうとも思えないところだってある。カラマーゾフの家族のだれをこの二人に重ねようとしているのだろうか。それにしてもこの肝心なパーツがどのような役割を果たしているのか作品全体の中での納まり具合がさっぱりなのだ。これは残念なことである。読み終えて消化不良のままだから居心地は悪いのだが、原因はここにある。
まるで万華鏡の世界に入ったかのようだ。真も偽も、正も悪もごちゃ混ぜになって常に変化し続ける世界である。しかし中心は変わらない。万古不易のその中心をめぐって対称的にもろもろの変化が生じている。中心ってなんなのだろう。人類の叡智?神の存在?東洋哲学にある道?私はそこで酩酊しているのだ。

だが、今は余裕をもってこの居心地の悪さに甘んじよう。『罪と罰』を読んだときも『悪霊』を読んだときも同じだった。また時を変えて読もう。訳者の解説も読もう。そしてやがて自分勝手な解釈の中で納まりのよさを感じられる時を迎えることができるだろう。

次ページへ続く