西木正明 『一場の夢 二人の「ひばり」と三代目の昭和』

もう一人の美空ひばりが実在した!と序章からセンセーショナルであるが、あくまでもあの国民的歌手・美空ひばりの波乱に満ちた人生をたどる。彼女の実像は?

2006/02/23

西木正明の作風をノンフィクション・ノベル呼ぶ。実在した人物が実名で登場し、事実、事件、時代性を記録風に叙述する。体裁からするとノンフィクションと思わせる。しかし、著者の視点はあくまでも人物にあって、それは著者の豊かな創造性が加わってよみがえった人物像であり、そのロマンを通じて時代の陰影が鮮烈に浮かび上がる。私が読んだ中では、名投手スタルヒンをとりあげ、戦中戦後の人間愛を描いた『凍れる瞳』、第一次大戦後の反日朝鮮人過激派による裕仁皇太子拉致暗殺事件をバックにした人間の愛憎劇『冬のアゼリア』はその代表的傑作と言えよう。

作品中で語り手の一人である映像ドキュメンタリー制作のベテランに次のような言葉がある。
ドキュメンタリーには歴史が必要なんだ。主人公であれ、舞台背景であれ経過時間の長短とは別の、歴史という奥行きが必要なんだ

これは西木正明自身の創作姿勢、そのものなのだろう。

この最新作は昭和という時代を背景に美空ひばりの生涯を追ったものである。芸能人の世界には疎い私でさえこの作品にでてくるいくつものスキャンダラスなエピソードはほとんど耳にしたことがあり、いくつかの歌だっていまでも口ずさむくらいだから「戦後の混乱期に忽然と出現し、庶民の夢と憧れをたずさえて、昭和という時代を疾駆した、文字通りの不世出の歌手であった」といわれて素直にそのとおりの人だった、大衆のヒロインだったと振り返ることになるのだ。

ただし、読後の第一印象は不満ながら、西木のこれまでの作品に比較し、美空ひばりの「人間」がちっとも描かれていないことだった。モデル小説というものは特にあまりにも有名なモデルであればなおさら、裏の素顔が知りたいと期待するものだ。しかし、スター・美空ひばりはあっても人間・加藤和枝の影はほとんどみえてこない。虚像が描かれているが実像を欠いているかに読めた。

表題に使われている「三代目」とは広域暴力団のナンバーワン山口組三代目組長田岡一雄のことであるが、田岡がひばりの後援者として隠然たる力を発揮していたことはわれわれの世代では周知のことであり、その関係を描いて「実像」に迫ったとは作者自身だって考えてはいないことだ。
「人間」を活写しているといえば、むしろこの田岡の少年時代がそうであり、ひばりを大スターに育てるまでのプロデューサー福島通人、デビュー以来他界するまでマネージャーをつとめた嘉山登一郎らの脇役が昭和の歴史を色濃く映して面白い人物に描けている。戦後、それまでの法と秩序が崩壊し、いわば闇市の中から噴出する泥まみれのエネルギーが、横浜、神戸、東京で結集して美空ひばりを世に送る。やがて大衆が迎える大消費時代に必要な芸能ビジネスモデルの創生なのだが、このプロセスは実にドラマティックだった。とにかく脇役がひばりを引き立てている。なお実際のところはよくわからないことだが、組長になったあとの田岡についてその「実像」を美化しすぎている感がまぬがれない。

なぜ美空ひばりの「人間」が浮かんでこないのだろうか。それは「経過時間の長短とは別」と作者自身が述べているものの、この偶像視されるまでに高みに登った国民的大スターである。「実像」を描くにはあまりにも時代が今と近接しているからではないのか、そこに著者の「遠慮」が働いたものか、それが近現代を描くノンフィクション・ノベルの限界なのかとも思った。

しかし、終幕でちょろりと素顔があらわれるところがある。おそらく読者の誰しもが抱く、ラストの余韻、禁じがたい哀惜の念に打たれれば、そうではない、そうではないとあらためて気づくことがある。

美空ひばりは生まれてから他界するまでの一生を通じてスター・美空ひばりだったのだ。虚像も実像もない。昭和のある断面で清濁の渦にある民衆が思い描いた光と影の投影。偶像でありながらそのまんまが素顔の人であったのだと。

絲山秋子 『沖で待つ』

芥川賞受賞、サラリーマンのありきたりの日常生活を舞台にした作品なんて初めてでしょうね。半分はまだサラリーマンであるこのオジサンの実感ですが、その日常の切り取り方がとても新鮮でした。

職場における男女関係を描いた小説では女性の立場からはいわゆる男社会を前提にした女性蔑視の階級社会を告発するものが目立ちます。セクハラなどイジメを含めて。それと昔は職場恋愛なんかも小説になっていましたが、いまは不倫ですね。実際、この倫ならぬ男と女の関係もグジグジした愛欲劇ではなく出会いも別れもあっけらかんとやってのけるのが最近のはやりのようです。

2006/02/27

そういう先入観があるオジサンがこの作品を読むと「そんなスケベな目つきでいつまで私たちを眺めているの!旧い、旧い。こういうスタイルだってあるのよ」と自分の娘と同じ年代のご婦人から諭されているようで、こそばゆいおもいです。

だいぶ前になりますが直木賞を受賞した篠田節子の『女たちのジハード』。「男の子なんてなんぼのものよ」ってな調子でカラーンと飛翔する女性を描いて、物わかりの良いわたしなどはこういう痛快な生き方の女性に拍手を送ったものです。ところが『沖で待つ』を読むと、もはやジハードのとんでる女たちもやや色あせて見えるんですね。まだそこは男の存在、オス性をもった男と張り合う気持ちがあるところでなりたつ世界だったんです。ところがどうでしょう、この『沖で待つ』。まるで性差を意識しない女性と男性の交流なんですね。しかもその交流はサラリーマンの日常ですから、特段、ドラマチックなことがあるわけでなし、ほどほどに苦楽を分かち合い、終始ほのぼのとして、たんたんと流れる。それだけのストーリーなんですが、それだけの男女関係がじわりと存在感を主張しているのです。

住宅設備機器メーカー(陶器製の便器ですね)に就職した「私」。初赴任地は「男尊女卑の九州」と思っていたらと、この箇所だけが男女意識がみえただけで「いざ行ってみると街は思いのほか明るくてきれいなのでした」と営業現場にとびこんで、その懸念は雲散霧消させてしまう。

「福岡に慣れてくるとだんだん学生時代の友達とは話が合わなくなってきました」
なんでそうなるかというと、電話で話していると、こいつは東京しか知らないとか現場を知らないくせにと思っちゃうんですね。それで学生のときに一緒に感じていたものが意味を失って「世界が狭いようですが心置きなく話せるのは、やっぱり会社の人でした」
学生時代のつきあいをいつまでも続けているノスタルジックなわれわれからすると恐れ入るプロ根性なのだが、これをさらりと言ってのけるのだからびっくりする。今の会社日常をまだまだ男社会だとして相変わらず不満たらたらの風潮が根強くあるからこそ、実態はここまで変わりつつあると実感しているものからみれば、こういう表現の文芸作品はやや遅れてきている先駆性なのだが、実に新鮮なおどろきですね。

仕事を通して仲良しになった同期入社の太っちゃんと「私」。太っちゃんが社内結婚してからもそれなりに強い絆で結ばれているこの男女関係をなんというのだろうか。もちろん愛情ではない。生きているのが契約社会だから男同士だって友情と呼ぶのはしっくりこない。男同士なら「同じ釜の飯を食った仲間同士の交誼」ってのがぴったりなところだが。
「仕事のことだったら、そいつのために何だってしてやる」同期ってそんなものじゃないかと思っている「私」。男であれば陳腐なセリフなのです。男なら「仕事のことだったら」と限定はしないだろうとおもったりして、この場合、わたしはいいんじゃないのと好ましく、そしてタジタジとするわけです。このあたりがなんとも不思議な魅力なのですね。

そんな太っちゃんが突然事故死する。「彼との約束を果たすべく、私は彼の部屋に忍び込む」っても読者が期待する劇的なクライマックスはない。でもなにか悪いことが起こらなければいいがと緊張感はあるから、普通はこの約束は「男の約束」と少し重みをつけてもいいのですが、「性差意識のない異性同士の約束」って言い方しか今はないのですね。

このところ閉塞状況にあるゆがんだ精神の自己主張ばかりが受賞していたものですから、女性の自覚とか自立などと気負ったところを微塵も見せずに、新しい人間関係を描いて実はそれを忍び込ませている、久々におおいに好感の持てる芥川賞受賞作品でした。


西木正明 『間諜 二葉亭四迷』 


あの文豪がスパイだった!!??

2006/03/15


たとえば『冬のアゼリア 大正十年・裕仁皇太子拉致暗殺計画』『一場の夢 二人の「ひばり」と三代目の昭和』など西木正明の作品は実名が入ったセンセーショナルな副題に目を奪われるのだが、この作品は本題からして『間諜 二葉亭四迷』、あの文豪がスパイだったのかとギョッとさせれらます。
著者の得意とする歴史秘話にあたるが、この作品は日露戦争における陸軍の謀略工作を背景としている。

著作を読んだことがないのだから二葉亭四迷を語たる資格はないが、ロシアとの交流に関する履歴をなぞってみると、なるほど西木が間諜にしたてるだけの国際的視野と活動をともなった文化人だったようだ。
対ロシア外交への関心から東京外国語学校露語科に入学、19世紀ロシア文学に目を開かる。1889年から内閣官報局雇員となって海外の新聞・雑誌の翻訳に従事。陸・海軍の大学校や東京外語の露語教授に任じられながら、国際舞台での活動を念願して職を捨て、1902年大陸に渡る。ウラジオストクでエスペランチスト協会に加入、北京では治安をあずかる警務学堂の提調代理(事務長)などを経験。08年に朝日新聞露都特派員になり、宿願の国際的活動を夢見て勇躍ペテルブルグに赴任したが、ほどなく肺結核をわずらい、帰国の船中で没した。(平凡社世界大百科事典より抜粋)

とこれが関連する略歴だが、著者はこの事実に密着して彼の足跡を丁寧にたどって間諜としての活動を作り上げている。

ロシアの南下政策を阻止し、日露戦争に勝利するためロシア国内の政情不安を画策する人物として明石元二郎という実在の陸軍軍人が登場する。どうもこの人物は当時の裏面史には欠かせない、謎めいた人のようだ。参謀本部から100万円を捻出し、ロシア革命を支援するために「血の日曜日事件」や「戦艦ポチョムキンの叛乱事件」を工作したとして知る人ぞ知る伝説的人物である。
この作品では明石はポーランド独立運動を支援する。そこでロシア通の二葉亭四迷に間諜としての白羽の矢をたてるという設定だ。
日本の参謀本部が社会主義革命を支援するのであるからまさにCIA並の謀略であり、裏面史への好奇心がくすぐられる。ポーランド独立運動のなかにも、民族独立派と社会主義革命派の抗争がある。さらに辛亥革命前夜、在日中の孫文に対する軍部の思惑や中国の内紛模様が加わる。スケールの大きい、緊迫の国際政治状況で、この背景描写がひとつのよみどころである、

ただし、二葉亭四迷の諜報活動がこの局面を左右するような劇的役割を果たすことはない。国際情勢自体がドラマチックでありすぎることから間諜としての二葉亭四迷の存在感は希薄なのだが「終始、日本人の運命にかかわる姿勢で文学を考え、社会や政治の問題に深い関心をいだき続けた(平凡社世界大百科事典より)」文化人の内面がよく描けている。

ところで、この物語の主人公は文豪・二葉亭ではなく、むしろ創造上の人物、ポーランド貴族出身のプロニスワフ・ピウスーツキなのだろう。彼はアレクサンドル三世暗殺事件に連座して流刑となり、南樺太でアイヌ人の妻をめとり、アイヌ語の研究に打ち込んでいる。二葉亭四迷との交誼が深まる。そして悲願はポーランドの民族独立にある。ポーランド抵抗運動組織の期待を受け、日本軍部との連係を強める役割を果たそうとするが………。
ところが、マイノリティーへの愛、民俗学研究への情熱や祖国独立への夢で昂揚する人格が志を半ばにしてなぜ挫折し、絶望し、破滅への道をたどるのか。この内面的苦悩のプロセスだが読んでいて迫り来るものが感じられないのだ。彼の一生を翻弄した歴史のうねりは実にドラマチックな事実なのだが、それが彼の人間性の変貌とうまく結びつかないため、その悲劇性に共鳴することなく結局、ひどく怯懦で矮小な人間だったのかとの印象が残ることになった。
でもそれは著者の意図するところではないはずである。
戦争と革命と民族独立運動。このあまりにもドラマチックな史実に圧倒されて、主人公たちの影も薄くなってしまったのかもしれない。

西木正明のノンフィクション・ノベル。著者の創造する人物像のロマンを通じて時代の陰影を浮かび上がらせるのがその本領なのだが………。