薬丸岳 『天使のナイフ』

刑事罰の対象にならない少年たちに妻を惨殺された桧山貴志。「殺してやりたい」と思わず無念の叫びをあげる。殺人者に対する怨みを晴らすすべがない、少年法の保護主義に対するやりばのない怒りが読者の共感を誘う。

2005/09/01

東野圭吾『手紙』は加害者側の苦悩を通じて日本的現代版の「罪と罰」を問いつめた。この作品は類似のテーマを被害者の立場から見詰める。刑事罰を受けない彼らの「贖罪」とはなんなのだろうか。法理論からはその目的である「健全育成を期す」つまり更生の実現こそが「贖罪」にあたるものと思われる。しかし、桧山は更生したはずの少年が実は陰で舌をペロリとだし、凶悪の素質に変わりがないことを知って、法の不毛を痛感する。

著者は桧山の心情を通して少年法の保護主義を批判し、厳罰主義を主張しているのだろうか。
そうではない。
桧山はやがて罪を犯した少年たちに一生懸命になって教育を施す人々を見る。さらに法の精神が活かされ、それからの人生をけなげに生きようとしている者たちが身近にいたことを見いだすのである。そして著者は凶悪非行少年が背負うべき「贖罪」とはなにかをつきつめる。
法理論とおなじく更生の実現が「贖罪」にあたることにかわりはない。
ただし
「被害者の存在を無視して『真の更生』などありえない」
元法務教官のジャーナリスト・貫井の言葉は重い。
ラスト近く
「被害者が本当に許してくれるまで償い続けるのが本当の更生なんだ」
と加害者側弁護士を糾弾する桧山の声は悲痛だ。

被害者側と加害者側の接触を断絶し情報を閉ざす制度上の壁、少年院で欠けている贖罪教育、それをきちんと被害者側に伝えるシステムの欠落、興味本位でかきたてるマスコミの姿勢が「贖罪」を困難にしているのだと著者は指摘している。

厳罰主義か保護主義か。少年法は学者、法曹界、政治家たちの議論が改正後のいまでも絶えないところである。ただ、大切なところは理詰めの論議ではなかなかあきらかにならないものだ。本著は真摯な社会的視点で描かれ、フィクションであるからこその迫力と情感で少年法問題の根底にある一つの核心を提示した好著だと思う。

なお言いそびれたがこの作品はミステリーである。
憎んでも憎みきれないこの少年が桧山にアリバイがない状況で殺害される。
「殺してやりたかった。でも殺したのは俺じゃない。妻を惨殺した少年たちが死んでいく。これは天罰か、誰かが仕組んだ罠なのか」
二転三転のどんでん返しが効いている。これは真犯人探しの本格ミステリーでもある。謎解きとしての味付けが濃いだけ殺害された妻の個性にもう少しつっこんだ肉付けがあってもよかったと思われ、東野圭吾『秘密』と比較すると「感動作!」とまでは言えないのだが、最近は期待できなくなっていた江戸川乱歩賞にひさびさにふさわしい上等のミステリーが登場した。

城野隆 『一枚摺屋』

時代劇のドラマや映画ではおなじみですね。号外配りのような、瓦版売り。実際には当時、市中で読み売りされた一枚摺(瓦版)はニュースの媒体というよりも好色ものを中心とした娯楽的色彩の強い絵草紙だったようです。ところが反骨の人・与兵衛が制作する一枚摺は硬派で実際の出来事、「記実」=記事を扱っていたのです。御政道を批判する内容だとお上も煙たかったことでしょう。

第二次長州征伐の準備で騒然とする幕末の大坂で、打ち毀しを一枚摺(瓦版)に取り上げたこの与兵衛が町奉行所で殺された。一体誰が、なぜ?惨殺された父の死はどうやら三十年ほど前の大塩平八郎の乱に係わりがあるようだと息子の文太郎は気づいた。
父親殺害事件の発端に大塩平八郎の乱をもってきたところに作品全体の構成のうまさが感じられます。作品の組み立てはこの事件の真相究明、犯人探しのミステリーであると同時に一枚摺屋=ジャーナリストの視線で幕末史を素描するところにあるのですが、もともと幕末における倒幕運動のさきがけがこの大塩の乱にあたるからです。物語の二つの流れの伏線に幕政刷新を目指したこの組織的行動があったわけです。

2005/09/04

勘当され、戯作者仲間と遊びほうけていたが軟派の息子・文太郎は親父の敵をとるために潜りの一枚摺屋になることを決意する。殺人者をひきづり出して私的な遺恨を晴らすのが父親の敵討ちであるが、それだけではない。ご禁制のセンセーショナルな報道で「奉行所の鼻をあかす」ことだ。さらには構造的にガタがきた幕政の実態を白日の下にさらしたい。父の無念の根底には実現ができなかった大塩思想、幕政刷新への熱い思いがあったのだ。と、かように不肖の息子は腹を固めるのでした。そして、潜りの一枚摺屋商売が倒幕へと政治色をつよめながらやがては新聞社設立への希望と、文太郎の精神の成長面を生き生きと描き、さらにいわば幕末から明治にかけての新聞創世のプロセス、近代のジャーナリスト精神のめばえを考察するという大変意欲的な作品なのです。それは成功しています。

長州征討にむかった幕府軍の不利を報せる戦況記事に大坂市民は沸く。豪商、諸藩の武家も天下がひっくり返ることになりかねないこの戦況ニュースには目が離せない。一枚摺は売れに売れる。大坂城代、奉行所は民衆による騒擾や暴動に神経をとがらせている。奉行所の取締りは厳しくなる。与兵衛を拷問死させた黒幕の放つ暗殺者の剣が彼とその仲間を襲う。ふたつの追手をかいくぐるサスペンスフルな隠密活動を楽しみましょう。文太郎と仲間たちの取材活動は倒幕勢力の合従連衡、幕府側の朝廷工作、そして大政奉還まで当時の政争の核心をつくのですが、ここでは中央の情報になぜか詳しい浪人北村彦馬の人物はなぞめいていて魅力的です。友情の絆は固く、また彼らを支援する人々も登場し、心を一にしてすすめる必死の辻売り活動が見せ場でもあります。痛快でありさわやかであります。

そして圧巻はラスト、民衆の狂乱「ええじゃないか踊り」にありました。
大塩平八郎の乱は幕藩体制の弱体化を天下に周知させることになった。またそののち公然たる幕政批判が登場しはじめたといわれている。幕末にはその流れが激流となって加速する。そして長州征討による戦費の調達で市場では物資が不足し、買占めや売り惜しみが横行、庶民の暮らし向きは一方的に悪化する。作品ではこのあたりの状況が簡明に述べられています。長年の幕府支配体制に対する不満の鬱積から新勢力による改革への期待はいやおうなく高まるなかで、制御不能となった民衆の巨大なエネルギーは「ええじゃないか」の狂喜乱舞となって爆発するのです。
<ええじゃないか ええじゃないか 酒を飲むのもええじゃないか>
<ええじゃないか ええじゃないか 踊り乱れてええじゃないか>
<ええじゃないか ええじゃないか おまこに紙貼れ 剥げたらまた貼れ なんでもええじゃないか お陰でめでたい>(作品では一部伏せ字になっていました)
その卑猥さも踊っていれば気にならない。否、そのひびきが今の文太郎には心地よくさえあった


誕生しようとする近代国家の大衆にもたらすものが良いものか悪いものかは不明のままに、作品には紹介されていませんが、とにかく「世直りがええじゃないか」、「長州が上ぼた、ものが安うなるええじゃないか」という歌文句もあったようです。享楽か、解放感か、性の快楽か、政治への期待か、いわば方向性のないエネルギーの狂騒ではありますが、ええじゃないですか。
この物語のエンドを飾るにふさわしい、民衆エネルギーへの讃歌であります。

本年度の松本清張賞受賞作である。松本清張は新聞記者であった。庶民の視線で世の中の仕組みを見ていた。反権力の姿勢を崩さなかった。社会派推理小説の生みの親でもあった。そんなことを思い浮かべながらまさに松本清張賞にふさわしい作品だと思った。

朱川湊人 『花まんま』

僕にも「こういう」少年の時があったんだ。六つの短編にはいずれもどこかに既視感を覚えるような懐かしいところがあった。

2005/09/08
それは怪異現象そのものの体験ではないのだけれど、子供がうけとめる不思議現象というフィルターを通して語られる懐古談に、事実としての記憶はますますぼんやりしてしまうのだが、むしろ感性だけは浄化されて、登場する少年少女とおなじような心の働き、感情の揺らぎが僕にもまちがいなくあったんだと妙にそこだけはしみじみとして浮かび上がった。

「こうでない」少年の時もあったはずだ。児童文学風に言えば、夢・希望・友情・勇気・冒険であり、無邪気で汚れない純真であり、将来への無限の可能性といったプラスのベクトルが強く働いている「子供の世界」があった。「大人の世界」との境には頑丈な隔壁があって、純粋な「子供の世界」に躍動する少年少女がいた。「子供の世界」といえば僕たちはこうであってほしいと願っているものだ。
ところがこの隔壁が徐々に徐々に崩れる時がくる。その破れ目からじわりといやらしい大人の臭いが滲み込んで、それはマイナスのベクトルで微妙に子供の感性に「こういう」作用をする。
僕たちにとってそれは経験済みのことで、当たり前のことで、大人になっているから承知しているはずなのだが「子供の世界」のプラスイメージが定着しているものだから忘れていて、この作品を読んで「あぁそうだったんだ」とハッとする。そしてノスタルジックに、マイナスベクトルにふれたあのころのちょっと憂鬱なおませになった恥ずかしい気分をよみがえらせるのだ。
やさしさにあふれた静かな語りは破れ目から滲み込む大人のうしろめたいものを見せる。それは朝鮮人や部落に対する差別や偏見、ばつが悪い性衝動、生臭い男と女の関係、分別ある三角関係、失った子に対する妄執、死の恐怖・苦痛など大人が隠しておきたい生活の陰影だ。

すると「子供の世界」へマイナスのベクトルを送った張本人こそ僕ではないかと気がついて、疚しさがあるからこんどは大人としての僕の気分が揺さぶられる。それが大人になるってことなんだよといいわけまじりの独り言をつぶやいたりする。読者は子供と大人と二重の感受性を交錯させながらこの物語にのめり込むことになるのだ。

さて、舞台はいずれも昭和40年代はじめの大阪下町裏で、そこで暮らしている小学生が主人公だ。帯には「大人になったあなたは、何かを忘れてしまっていませんか」と問いかけがある。しかし、失われた少年時代をなつかしく思い出すのは大人になったからという理由だけではない。
今私たちが住まいする都市型の暮らしには隣人たちの顔がみえる共同体の気配がなくなってしまっている。人情の機微や地域の伝統的オキテがそれぞれの生活の共通の空気として作用する場はもう存在しないのだ。さらに「子供の世界」と「大人の世界」を隔てていた壁がなくなってしまっていて、彼らは免疫力が身に付かないままに裸で放り出されているのが現実なのではないだろうか。うしろめたいという思慮の働いた感性にではなく剥き出しの禍々しい情動にさらされるのかもしれない。
ある年代以上の読者だけが実感できるこの深いところの喪失感があるから、これほどのインパクトで郷愁の思いがかきたてられるのであろう。

近所で時々見かける少女の、眉に憂いをひそめた風情に
「おとなになったんだねぇ」と話しかける。
「おじさんありがとう」と少女はにっこりする。
………もうそういう情景はなくなってしまったんだ。
勘違いされて大声で叫ばれるか
「うざってぇんだよ、クソじじい」
と罵倒されるか…だねぇ。