篠田節子 『ホーラ 死都』

エーゲ海に行ったことはない。紺碧の海、ふりそそぐ陽光、大小の島々、真っ白な教会や家々など。明媚な風景と古代遺跡、神話世界のロマンに思いをはせる、いわば観光用のイメージだけがある。それとジュディ・オング『魅せられて』があった。

経済的に充分ゆとりのある男女、ずるずると長いこと続いてきた不倫関係にも倦怠感を覚え

昨夜の余韻が隅々に

気だるい甘さを残してる

レースのカーテンひきちぎり

体に巻きつけ 踊ってみたくなる

Wind is blowing from the Aegean

女は海

………

女が背徳の悦楽に区切りをつけるか、どうしようかと贅沢に悩むにふさわしいロケーションなのだろう。

2008/06/11

「不倫の関係を続ける亜紀と聡史は、逃避行のようにしてエーゲ海の小島にやってきた。その島の廃墟の教会で、亜紀は聖母マリアのような幻を見た上、掌から血が流れ出すという体験をする。だが島の人々は、廃墟は「ホーラ」と呼ばれる不吉な場所で、そこに教会など存在しないという。さらにたび重なる、不可思議な出来事。それらは神の起こす奇跡なのか、それともホーラの持つ妖しい力によるものなのか………」
「滅びた町が生き惑う男女を誘惑する。重たい現実を背負った男と女が見たものは、聖なるものか邪なものか」
「聖と俗が織りなすゴシック・ホラー」

トルコの沖合に浮かぶ小島パナリア島。篠田節子は観光用パンフレットにあるような光の当たるイメージのその陰、禍々しい妖気が立ち込める孤島を描出する。神か悪魔かと得体の知れない神秘体験をする二人なのだが、かなり薄気味悪い作品である。
古代、この土地の人々はギリシアの神々を信仰の対象にしていた。そこにはおそらくオリエントの呪術的宗教も影響していたであろう。この土着の神々の聖地をキリスト教が征服し、その文化を破壊する。ビザンチン帝国、ギリシア正教の支配。次に十字軍の遠征、ローマカソリックを信奉するヴェネツィア人の制圧。そしてイスラム、オスマントルコの占領下に入る。何千年の長きにわたっていくつもの異文化衝突がこの地で繰り広げられた。ある文化にとっての神は別の文化にとっては悪魔であり、聖なるものは邪悪なるものであり、正義は不正義にとってかわる。そしてこの精神世界と平行して現世の政治支配世界がある。繁栄のときもあったが享楽と官能におぼれる支配者の下には常に虐げられ貧苦にあえぐ土着民の存在があった。
伝統文化と現代文明の対立を描いたものに『弥勒』『コンタクトゾーン』という傑作があるが、本著はこの視点に人間の歴史が始まって以来のこのコンフリクトの堆積という史観が加わった意欲的作品である。ところどころで語られるこの地の成り立ち、読み進むにつれ理解が深まると、廃墟「ホーラ」のグロテスクな不気味さがいやがうえにも盛り上がってくる。それは土着の神々の復讐なのだろうか。抑圧された人々の祟りなのだろうか。あるいは不倫という背信の行為に「罪」の意識が作用した幻想なのだろうか。読む人によってさまざまな解釈が楽しめるあいまいな存在。それが「ホーラ」なのだと思う。


若くして挫折した元ピアニストの夫と痴呆の母を抱え、40台半ばの亜紀は脂の乗り切ったヴァイオリニストである。聡史は歴史的建造物の改修や復元のエキスパート。誰にも知られずに10年以上も続いた二人の関係にもかげりが見えはじめ、これが清算の旅になるだろうと予感しつつこの島へやってきた。聡史が交通事故で状態は悪化し、島は嵐に遭遇して、いつ帰国できるのか見通しが立たなくなる。長引けば隠しとおせるものではない。世間体や保身。表面化すればお互いの家族を傷つける。黙っていれば嘘の積み重ねになる………どうすればいいのかと相談する人のいない孤独の亜紀は不安と怖れで錯乱していく。
不倫のなれそめもそうだが、この亜紀のグジグジした内心、いかにも二時間テレビドラマで見飽きた日本人の類型ではないか。スカッとした女の自立『女たちのジハード』を書いた篠田節子であるから、なにをいまさらの感をぬぐえない。
ところが著者の絶妙のひねりがあった。不倫=人の道にはずれる。これが日本人の感覚である。日本人だから不倫=神の定めた戒律を犯す行為(罪)との意識はない。しかし、錯乱する亜紀はこの島の濃厚な宗教的雰囲気の中で、神と向き合わざるをえなくなる。罪であるならば聡史の交通事故は罰なのか。罰であるならば神に許しを請えば許されるのか。しかし信じてもいない神に神頼みなどできるものなのだろうか。と、ますます途方にくれることになる。著者はここで不倫についての異文化コンフリクトを試みている。背徳行為にあるうしろめたさという日本人的感性を異文化である宗教的戒律(罪と罰)に対峙させ、そこで生じる混乱を描いている。下手をすると理屈が過ぎて面白みが半減しかねないが、そこを「聖と俗が織りなすゴシック・ホラー」に仕立てたところは、さすが著者の才であろう。
ただ類似のテーマ性を含んだエーコ『薔薇の名前』を読んだ直後だったためだろう、どこかなじめないところと物足りなさを感じた。


伊坂幸太郎 『ゴールデンスランバー』

伊坂幸太郎の作品をはじめて読
んだ。「ゴールデン スランバー」とは極上のまどろみを指すもの。子守唄でビートルズのアルバムにもあると解説されているが作品のテーマとどうかかわっているのか私の感覚ではわからなかった。

2008/06/21
「戦後ほぼ一党独裁を貫いてきた労働党から離党し自ら自由党を立ち上げた………」という一節をみて、労働党?自由党?コリャなんだ。首相は公選制?戦後初めての自由党首相が生まれる?そして凱旋パレードの最中ラジコンヘリから爆弾を投じられ暗殺される。暗殺の背景が各方面で推測され、そのドタバタ振りが描写され、これは佐藤賢一『アメリカ第二次南北戦争』の日本版で現代日本の政治を皮肉る内容かなと期待もあったのだが、実は著者はそんな社会的視点を持ち合わせていませんよとあえて宣言しているのだな。登場人物たちもどうやらそんなことはどうでもいい姿勢であって、読んでいてそのあたりのことが段々に判ってきた。
凱旋パレードのその時宅配ドライバーの青柳雅彦は旧友の森田森吾から、「君は首相暗殺の実行犯に仕立て上げられる、すぐに逃げろ」といわれる。その直後森田は殺される。首相暗殺犯にされた青柳は秘密警察から命を狙われる。狙撃命令が出ているのだろう追っ手は人ごみの中でやたらにショットガンを発砲してくる。街のいたるところに設置されている「セキュリティポット(精巧な盗聴装置つき監視カメラ)」の網の目をかいくぐり、訳のわからぬまま、とにかく逃げる、逃げる。追う側も追われる側も軽口をたたきながらの命のやりとりだから、ちょうどコミカルな香港製アクション映画のようだ。そのうちなんとかなるだろうってな調子だから読み手としてはなんとも緊迫感がないマンハントストーリーだ。「伊坂幸太郎のエッセンスを濃密にちりばめた、現時点での集大成」とうたい文句にある。なるほどこういう作風でベストセラーになっているのか。
青柳には森田のほかに小野一夫、樋口晴子の学生時代の友達がいる。卒業後八年になるが大学では「青少年食文化研究会」の仲間だ。「ファーストフード店に集まってあまり意味のない雑談を店の奥で、だらだらと時間を費やしそれがとても意味のあることに感じられた。」私の四十数年前だが似たようなところがあったなぁと思いつつ、でもあの時は端から意味がないのをわかっていて、無理にこじつけることなくそのままを楽しんだのではなかったか。生きていくってことにもっとギラギラ脂ぎったところがあって、青柳君たちとは大きく違っていたような気がする。………などとちょっと感傷的に、若やいだ気分になって読み進む。
友達の小野さん 樋口さんだけでなく花火屋の轟社長 同業の前園さん、見ず知らずのホームレスなどなどたくさんの人たちに助けられ青柳君の逃避行が続く。首相暗殺の容疑者を助けるのだから相当大きなリスクを抱え込むはずだ。しかし全員そんなことには無頓着に危ない橋を渡って青柳を励ます。そこで、浮かび上がるのが友情、信頼である。この絆を至高のものとするラストの盛り上がりは劇的である。

でも、本来、友情とか信頼で人間が固く結ばれるには一口では言えないいきさつがあるのだが、ここではそんな七面倒な経緯などは無しにして「人間が生きていくにはそれはとても大切なことですよ」と当たり前のことをひたむきに語りかけている。教科書的お題目と言えないことはないのだが、それでも語り口がうまいものだから、そうだそうだと実感して、感動させられる不思議な作品だった。

和田竜 『のぼうの城』

埼玉県に住んでいながら、この物語の舞台となった忍城(おしじょう)や城主であった成田一族についてはほとんど知らなかった。戦国時代を描いた数々の歴史小説でもこれを取り上げたものはあまりないのかもしれないと興味津々として読み始めた。それにしても「忍城」といい別名「浮き城」といい、城攻めが難しい秘密の仕掛けを用意した忍者屋敷のようで、いかにも冒険とロマンにあふれている。この作品はまさにその雰囲気そのままに波乱万丈であったよ。

2008/06/25
埼玉県行田市(ぎょうだし)の観光協会ホームページはこう案内している。
関東七名城の一つとされる忍城は、室町時代の文明年間に築城されました。時は戦国時代の終わり、豊臣秀吉の関東平定に際して、石田三成らによる水攻めにも果敢に耐えたことから「浮き城」の別名が生まれたと伝えられています。現在の忍城御三階櫓は、明治6年に取り壊されたものを再建したもので、最上階からは市内の景色が一望できます。昭和63年に開館した郷土博物館は、かつての忍城本丸跡地にあり、………。

またここの郷土資料館のホームページでは
戦国時代、行田周辺の武蔵武士の中から、現在の熊谷市上之を本拠地とする成田氏が台頭し、忍城を築城しました。文明11年(1479)の古河公方足利成氏の書状に「忍城」、「成田」とでてくることから、このころには築城されていたと考えられます。当時の城主は成田顕泰といい、以後親泰、長泰、氏長と四代にわたり、天正18年(1590)まで、約百年のあいだ成田氏が忍城主でした。

そしてこの作品のあらすじは
時は乱世。天下統一を目指す秀吉の軍勢が唯一、落とせない城があった。武州・忍城。周囲を湖で囲まれ、「浮城」と呼ばれていた。総大将・成田長親は領民から「のぼう様」と呼ばれ、泰然としている男。智も仁もないが、しかし、誰も及ばぬ「人気」があった。この城、敵に回したが、間違いか。石田三成二万の軍勢に、たった二千で立ち向かった男がいた。

文芸作品としての歴史小説は史実の重みの中で現代に通じる人間の喜怒哀楽を描いているところに魅力があって、しかも漢字の持つ豊かな表現力でその魅力を倍増させている作品が多い。この作品はそうではない。エンタメ系の平易な文体で史実重視というよりは著者の豊かな創造力が生んだ痛快時代小説に近い楽しさがある。領民から「のぼう様」と親しまれているこの主人公・成田長親の人物像はおそらく著者が独自に味付けしたものであろう。本当かしら?と思われるほど知恵も力もない飛びぬけた「でくのぼう」では、忍城水攻めで男を上げようとしている石田三成の軍勢を前にひとたまりもないはずである。だから読み手としてはどうなるんだろうどうなるんだろうと心配しつつ読み進むことになる。彼を取り巻く武者たちは関東武士の根性を見せてやれとばかりに血気盛んな男たちでウイットとユーモアがあり、単純な奴が多い。その戦闘シーンは昔読んだ真田十勇士の奇想天外な防衛戦を髣髴させ、ワクワクさせられる。

中央政権に歯向かう地方小藩であり、この図式は先日読んだ火坂雅志『臥龍の天』と同じだ。なるほど、地方分権、これからは地方の時代といわれながら実際は取り残されていく地方。これが現代の非情な政治力学であるから、このウップンを読書で晴らそうとすることはおおいに結構なことだ。それに民を治めるということは民とともに生きるということだと、最近では為政者もまったく口にしない政治の要諦を抜け抜けと感動的に料理したこの作品、絵空事だけどすっきりした気持ちにさせてくれます。

近々行田市の郷土博物館に行ってみよう。これは行田市の町おこしに一役も二役もかっているベストセラーである。