雫井脩介 『犯人に告ぐ』
メディアによって一線からはずされた刑事がメディアを利用して殺人鬼を追う。刑事対殺人鬼よりも刑事対メディアの構図に冴えが見られる。
2004年9月25日

冒頭の第1章に左遷された敏腕刑事巻島史彦がその傷を追った過去の幼児誘拐事件の回想がある。見えない犯人を身代金受渡しの現場で捕縛しようとする捜査陣、現金を持って右往左往する幼児の母親、焦燥の家族、受渡し場所を次々に変更する誘拐犯の手口、警察組織内の縄張り争い、そして犯人に肉薄する主人公。本筋ではないのだが、丹念に書かれたこの導入のエピソードから、スピードと緊張感にまず引き込まれる。
冒頭シーンはそれだけではない。犯人をすんでのところで取り逃がし、幼児は死体で発見されるのだが、世論の糾弾を恐れる警察内ではその責任を回避しようと記者会見を巻島に押し付ける。記者会見の席で巻島は難詰され、追い込まれ、混乱のうちにおかしてはならない大失態を演ずることになる。著者の筆のさえは実はこのシーンの語りにあるといえよう。私自身、会社の広報部門を長く担当し記者会見の修羅場をなんどか経験しているだけに他人事ではない臨場感を持って読むことができた。世論と良識の代表者顔をしたメディアの暴力、あらかじめ用意してあるストーリーに事実を改ざんする邪な傲慢がリアルに表現されている。

史上初の「劇場型捜査」と大見得を切って登場した作品である。「劇場型犯罪」という概念はミステリー界だけではなく実際にもあるようだが「劇場型捜査」は著者の創造力が生んだ虚構である。犯人捜索のために警察が組織決定方針としてマスメディアをこういうふうに利用することは考えられない。
進行中の児童連続殺人事件の捜査が行き詰まり、警察首脳は犯人、「バッドマン」捜査の筆頭責任者としてあの恥辱の過去をもつ巻島に白羽の矢を立てた。「劇場型捜査」!この作戦に積極的に乗った巻島は視聴率を誇る夜のニュースワイドショウに出演し、都度事件の推移を詳細にかたる。未発表の内部資料を公開する。進行中の事件の捜査現場責任者がレギュラーで登場するキワモノ番組であるだけに、視聴率は跳ね上がった。あらたに有効な目撃情報が集まるのだろうか。番組を通して見えない犯人におもねるように語りかける巻島。思惑通りにそれで犯人は刺激され、いぶりでてくるのだろうか。
あたかもマスメディアを通した、巻島対「バッドマン」の対決の様相を見せる。もし作者がこのふたりの虚虚実実の駆け引きを面白く書きたいと意図していたならばこの作品は成功しているとは言えない。読者がこの対決に興味を集中していたならば期待は裏切られる。事件は解決するのだが、それだけであったら著者のご都合主義といった感が残ったであろう。

がしかし、一方でストーリーは思いがけない方向に作者の力点が移って進行しはじめる。視聴率を最優先する民放同士の卑劣な舞台裏、ライバル番組へ情報を内通する捜査関係者、ライバル番組の繰り出す巻島への個人攻撃、メディアの魔力に翻弄される視聴者、あるいは被害者家族、警察組織。仮に「劇場型捜査」というものが行われたならばこのようなプロセスで大きな混乱が生じるのが現実であろう。視聴率アップのためにはヤラセも厭わぬ欺瞞の姿勢、人気キャスターによる番組の私物化などメディアの横暴ぶりに憤りを覚えることがあるのは私だけではないだろう。こうした現実をつぶさに描き出したところにこの作品の価値を見出す。
そして読者は前代未聞の「劇場型捜査」によって犯人があぶりだされるかとの興味よりも、巻島と彼が出演するニュースワイドショウ、ライバルの番組、警察内の内通者、これらの絡み合いの行方に夢中になってしまう。犯人が挙っても挙らなくとも巻島はマスコミによって袋叩きの憂き目を見かねない状況に追い詰められる。再び巻島はメディアの餌食になるのだろうか。逆転の秘策は………。

捜査官巻島がテレビを通して対峙しているのは「バッドマン」のようではあるが、メディアの犠牲者である巻島が超然として敵対しているのはむしろメディアだったのではあるまいか。著者の狙いはそこにあったようだ。その狙いは間違いなく成功している。                                     


サラ・ウォーターズ 『荊の城』
ポルノ=ポルノグラフィーとは「偽善や上品ぶる内面の感情を暴露したものに他ならない。W.アレン」とすれば、この作品、まさしく正統派のポルノである。
2004年9月17日                       

前作『半身』で披露されたねばねばした隠微な妖しさ、取り繕った表面からは想像できない人間の卑しさがここでも装飾的、技巧的な文体で絡みつくように表現される。
ロンドンの貧民窟、盗品の闇売買を扱うゴロツキの一味、そこで育てられた少女スウ。「紳士」とあざなされる詐欺師リチャードが彼女に頼み込んだのは莫大な遺産を受け継ぐ貴族令嬢・モードをたぶらかす結婚詐欺の助っ人役であった。俗世間とは隔離された辺鄙な城館に住む世間知らずの令嬢モード。陰鬱に閉ざされた城館の主はモードの伯父で常軌を逸した奇矯の持ち主・蔵書家の老伯爵。古色蒼然とした権威だけに支配される使用人たちにおびえながらスウはモードの侍女として入り込み、リチャードが演ずる手練手管を助けてモードの気持ちを結婚へと向けて煽る。さてこの仕掛けがどう展開するかと読者は興味をそそられ、期待通り作者の姦計にはまり二転三転、登場人物には思いがけない運命が待ち受けることになるのだ。ミステリーの常道だがスウとモードの一人称の叙述が交互に織りなされ、心象情景の表面と裏面が対照的に描写される。
舞台はもうひとつ、貴族たちが世間をはばかる身内を幽閉しておく気狂い病院が用意されている。貧困の中の猥雑と喧騒(ロンドン貧民窟)、没落の上流階級にある陰湿な狂気とエロス(荊の城)、そして人間性を抹殺する残忍な暴力(気狂い病院)。読み進むと小気味よいストーリー展開があるのだが、難をいえばこの三つの舞台に置かれた女性の心理がひどく微細に描かれ次の展開を期待するものにとってはくど過ぎるぐらいである。

時代はこれも『半身』と同様にビクトリア朝だ。19世紀の第四・四半期は産業革命の成果を収穫する「ビクトリア朝繁栄期」とよばれイギリスの繁栄が絶頂期に達している。王侯貴族の支配下で新興勢力の台頭、労働者の量産があった。いっぽうで、18世紀からこの時代は「ポルノグラフィーの黄金時代」ともいわれている。ただ、エロティックな芸術作品があふれだすのであるが、人々は性的なものがまったく存在しないかのように振舞うことを規範にしていた。特に一般の女性は性的なものに無知で子供のように無邪気であるのがいいとされた時代である。著者のモード像にはこの偽善に対する皮肉がたっぷりと反映されている。また表面はまじめな紳士が裏ではポルノグラフィーと娼婦を愛好したものだ。『荊の城』の背景にはこの「ビクトリア朝の偽善の道徳」があることに着目しておきたい。
蛇足ながら、もともとポルノグラフィーは一部の王侯貴族や大金持ちのものであった。偽善を偽善とする合理主義の中産階級が勃興し、彼らがおおっぴら楽しむとはじめて社会問題化するのだが、『荊の城』の時代はちょうどその変わり目にあたるのだろう。
ミステリーとしてもまずまず楽しめるが、実はエログロにサディスティックが加わる「18世紀の王侯貴族が親しんだ『上品な』ポルノ小説」の風情がある。                          

船戸与一 『降臨の群れ』
ロシア・北オセチア共和国の学校占拠テロによる死者は330人を超えるという報道がなされている。チェチェン独立運動の武装勢力による犯行と見られており、また先月の旅客機テロ、自爆テロと続きイスラム原理主義過激派の関与が取りざたされている。あまりに度重なる凶事に、またか、と多数の子どもの犠牲者がでる最悪の惨状にも感覚が鈍くされてしまっているほどだ。
強大国による圧制の歴史を塗り替えようとするマイノリティーの独立運動、異民族、異文化の摩擦、さらに先鋭化する宗教対立、複雑に交錯する諸外国の利害、そしてイスラム原理主義過激派によるテロ活動など背景を共通する内乱が地球上のいたるところで勃発している。人間のあらゆる英知、努力をもってしても抗い難いその悲惨の連鎖は破壊の神々の降臨そのものなのであろうか。
2004年9月5日

船戸与一『降臨の群れ』はインドネシア共和国アンボン島で現在進行中の複雑な内乱を小説化した作品である。

恥ずかしいのだが近接する地域に知識のない私としては手近にある資料で小当たりしてみた。
インドネシア共和国。人口は2億人、人種は大半がマレー人であるが言語の異なる27の部族社会であり華人の経済力は大きい。イスラム教87%、キリスト教10%、ヒンズー教2%。戦後、オランダ、ポルトガルの植民支配から独立し、民族主義を標榜する政権下にあるが、その国内にも伝統、習慣、言語、宗教が異なる各地ではいくつもの分離独立運動がおこり、また宗教戦争、イスラム原理主義の浸透に影響された内乱が頻発している現状にある。
マルク州アンボン島について現時点の外務省ホームページによると
「(既に滞在中の方は、やむを得ぬ事情により滞在される方を除き、安全な場所に退避することをおすすめします)マルク州ではかねてよりマルク地域のインドネシアからの独立を目指す『マルク主権戦線—南マルク共和国(RMS)』と称する一部分離主義者の散発的かつ小規模な活動が見られていました。(4月25日国旗掲揚行事が行われたことから、治安当局は分離主義運動メンバーを逮捕)分離主義者支持派グループとインドネシア支持派住民との衝突がエスカレートし、市内の随所で民家やホテル等が放火されたり銃撃等により多数の死傷者が出る事態となっています。治安当局は治安部隊を増派し事態の収拾に努めていますが、事態は依然として緊迫しています」と目下の緊張状態を告げている。
別な資料によるとこの地域の現地人はオランダ支配時代にキリスト教に改宗し、アンボン市の人口は現在31万1000人。うちプロテスタント系キリスト教徒52%、カトリック系キリスト教徒6%で、残り42%を占めるイスラム教徒は、ほとんどがスラウェシなどからの移民。分離独立派はプロテスタントであり、この対立はプロテスタントとイスラム教徒の宗教戦争でもある。

予備知識を得ると船戸がこの国の戦後の内乱史を手際よく整理はしていることがわかり、この作品の持つ迫真性が伝わってくる。ただ、紛争の原因や背景の本質に迫ろうとする姿勢がないこともわかる。プロテスタントとイスラム教徒の殺し合い。身内を殺されたもの同士がその憎しみを増幅させ次の殺戮へと連鎖反応していく。分離独立の意義もイスラムの教義もまるで無知な若者が巻き込まれていく。自己喪失の日本人主人公も否応なく巻き込まれていく。その非情さを乾いたタッチで叙述しているのだが………。それだけの作品でしかないように思えた。
この憎悪と殺戮のスパイラル的増殖をあおり立てるのがテロリストであり武器商人や軍部腐敗分子たちの狂気であるといいたいのだろうか。まさかこの連鎖を断ち切ろうとしているのが民族主義政府の諜報員であり、アメリカの工作員だと言いたいわけではあるまい。現在進行形の国際紛争を小説化することはそれだけ難しいのだろう。因果はなお不明なことだらけであり、しかも事実は小説家のうかつな想像力では変えることができない深刻な現実の重さで国際社会を威嚇している。そしてその事実がフィクションよりもいっそうセンセーショナルであるからなおさらだ。
人物像が書き切れていない。アメリカとインドネシアのそれぞれの情報工作員がそうであり特に国際協力事業団から派遣された日本人主人公にいたっては存在感がない。それは船戸の「埒外にある日本人」に対する揶揄なのかもしれないが私には現実に圧倒され身動きできなくなった船戸自身の自嘲であるかのように思われてならない。
見果てぬ夢であってもいい、カンボジアの内乱の中で人身売買の組織と戦う、あるいは識字率の向上に身を挺する『夢は荒れ野を』に登場させた男たちのロマンには情感あふれる本物の船戸節があったものだ。

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